間接照明が照らす研究室に、水滴のようにも聞こえる静かなアンビエントミュージック(環境音楽)が流れる。窓の外には平和公園の緑――。「外の自然に合う音を選んでいます」。仕事をするときにも音は欠かせないと話す日栄先生に、音楽との関わり合い、さらに音楽を含むメディアを生かしたコミュニケーション・デザインなどについて聞きました。
――日栄先生と言えば音楽ですね。音や様々なメディアを使ったメディア表現をビジネスに生かす研究をされています。新入生歓迎パーティーでもDJをされました。先生と音楽との出合いを教えてください。
小学生の頃からコンピュータープログラミングに触れていて、その中で一番興味を持ったアウトプットが「音」でした。当時はまだBASICという言語を使っていて、それでプログラムを書くことで音が生まれました。それがとても面白くて、今思えば、それが自分にとっての音楽制作やメディア表現の原点だったのだと思います。
ただ当時は、音楽で食べていくのは難しいと思っていましたので、コンピューターも好きだったこともあって、自然な流れとして岐阜大学の工学部電子情報学科へ進みました。
ところが、工学部で勉強している時に、人間にしかできないことは何だろうと考えるようになりました。そのときに、自分が強く惹かれたのが表現の領域でした。音楽やアートには、正解が一つに決まらない面白さがあります。感覚や違和感、偶然の出来事、その人にしかない感じ方が、音や形になって表れてくる。そこに、自分が本当に向き合いたいものがあるのではないかと思うようになりました。それで大学を離れました。
――えっ、大学を中退したんですか?すごい決断ですね。
決断という感じはなく、自分の中ではすごく自然でした。その後、名古屋のYAMAHAでデジタル楽器を販売するアルバイトをしました。そこで、電子楽器の音について、本社の方に、いろいろ要望を言っていたら、数年後に本社の研究開発室で業務委託契約という形で電子楽器の開発に携わっていました。それを2、3年やっていたところ、2002年に名古屋芸術大学の音楽学部のサウンドメディアコースで非常勤講師の声がかかり、その後2008年からは名古屋大学でも非常勤講師として、テクノロジーと音楽という視点から音楽芸術論を受け持つことになりました。
――これでだんだん今の先生に近づいてきました。
でも、実はそんなに順調ではなくて、話は少し前に戻りますが、仕事を始めた頃から、原因の分からない発熱と体調不良が何年も続き、いくつもの病院を回った末に、専門医から慢性疲労症候群という診断を受けました。西洋医学では根本的な治療が難しく、できることは対症療法に限られると説明されました。このことが、その後の自分の考え方や行動に大きく影響しました。
もともと、科学的に実証されていないものは一切信じないタイプでしたが、このことをきっかけに、食事療法などの代替療法、東洋医学、気功など、自分で調べてできることはなるべく試しました。その中で、理屈だけでは説明しきれない領域があるのかもしれない、と感じるようになりました。
そして、この経験を通して強く感じたのは、心と体は切り離せないということです。体の状態は心に影響しますし、心の状態もまた体に影響する。さらに、自分の心や体の状態も、個人の内側だけで完結しているわけではなく、他者や社会、環境との関係の中で変化していくものなのだと考えるようになりました。
それまでは、自分の内面や、自分が何を表現したいのかに意識が向きがちだったと思います。でも、病気の経験を通して、音楽や表現は、自分の内側を形にするだけではなく、人や場にどう作用するのかが大切なのだと思うようになっていきました。
――病気が転機になったんですか?
はい、病気になって学べたことは多く、後になってこれは良い機会だったと思っています。それで、音楽の必要性や意味にも気付かされました。
それまでは、良い曲を作ること、深い表現をすること、自分の内面を音にすること。そういう意識が強かったと思います。でも、病気を経験してから、音楽はそれだけではないと感じるようになりました。音楽には、人の気分を変えたり、身体の感覚を少し軽くしたり、その場の空気を変えたりする力があります。つまり音楽には、その人を取り巻く時間や空間の感じ方まで変える力がある。そう考えるようになりました。
そういう意味で、DJという表現にも改めて興味を持つようになったんです。以前はDJは「他人の曲をかけるだけで、そこに芸術性があるのだろうか」と疑問を持っていました。ところが、たまたまニューヨークから来日したDJのプレイを聞いて、それまで感じたことのない衝撃を受けました。ただ曲をかけるのではなく、それをつないでいくことで、新たなストーリーを作り出し、人々をその物語に引き込む。そういったエンターテイメント的な要素だけでなく、その向こうに思想のようなものが見える。身体を動かす楽しさと、深い精神性のようなものが共存している世界があるのだと知りました。
それから多くの音源をつくり、それをCDに焼いてリュックに詰めてニューヨークに行き、いろいろなクラブに飛び込んでDJに配り歩きました。そして、2007年にニューヨークの老舗レーベルからリリースすることができたんです。そうすると仕事もやりやすくなってきました。日本でもCDがリリースされるようになりました。
――すごいですね。病気とNYで新たな展望が開けていったわけですね。
そうですね、病気の経験がなければ同じ音でも、違う方向に行っていたと思います。ただそのまま音楽制作を続けていったのではなく、2009年ごろにはプログラミングと音楽を組み合わせたメディアアート作品を制作するようになりました。
CDやレコードといった記録物はもちろん重要ですが、そういった固定化された記録作品ではなく、コンピューターにしかできない表現方法、つまりコンピューターのリアルタイムでの演算がなければ作品として成立しないものに意味を見出すようになっていきました。例えば、人の動きに光や音が反応する作品や、お香の煙から音と映像を創り出す作品、水晶の位置で音を奏でる作品など、鑑賞者と作品が相互に関係しながら変化していくインタラクティブな作品です。
――そこからメディアアートの分野での活動を始めたんですか?
はい。当時のメディアアートを支えていた大きな要素の一つは、テクノロジーの進化でした。テクノロジーは、表現の可能性を大きく広げてくれるものだと思っています。一方で、そのテクノロジーにどのような意味を与えるのかは、アートの大切な役割の一つだと考えています。そうした考えから、私はコンピューターを単なる制作ツールではなく、一つのメディアとして扱うようになりました。音や映像を出すだけでなく、人の動きや空間の変化に反応し、その場で表現が変化していく。そうしたコンピューターならではの表現に関心を持つようになっていました。
また、2009年ごろから、CDや音源データのような「記録された音楽」の価値が少しずつ変化していく感覚もありました。だからこそ、これからは音楽を記録物として届けるだけではなく、その場でしか体験できない表現や、コンピューターでしか実現できない表現に向かう必要があると感じました。その流れの中で、音、映像、センサーを組み合わせたインタラクティブなメディアアートの活動へと入っていきました。
――そこからの流れを教えてください。
2013年に情報科学芸術大学院大学に入学しました。当時私の関心は、テクノロジーと音の関係性そのものにありました。一方で、それを単なる技術的な面白さや作品表現だけで終わらせてよいのか、という迷いもありました。テクノロジーを使った表現が、社会の中でどのような意味を持つのか。人や地域、生活、ビジネスとどのように接続できるのか。その部分について、自分の中でまだ答えがありませんでした。
大学院で学ぶ中で、メディアをアートの視点だけでなく、社会との接続という視点で見るようになっていきました。作品としてつくるだけでなく、社会の中でどういう意味を持ち、人や場にどのような経験を生み出すのか。そうした問いを持つようになったことが、その後の活動につながっていきました。
――そこで、教育者になるわけですか?
教育の世界に入ろうと、最初から考えていたわけではありません。ただ、名古屋大学で非常勤講師をしていたときに、芸術系ではない一般大学で、なぜアートを教える意味があるのか、という問いが浮かびました。そのことを考え続けるうちに、アートを教える意味は、単に作品の作り方や知識を伝えることではなく、答えが一つに定まらないものに、どう向き合うかを経験してもらうことにあるのではないかと思うようになりました。
社会に出ると、明確な正解が用意されていない問題に数多く出会います。立場や状況が変われば、見え方も変わる。何を価値とするかによって、選ぶべき答えも変わる。そうした問題に対して、既にある答えを探すだけではなく、自分で問いを立て、試し、考え、判断していく力が必要になります。
アートには、まさにそのプロセスがあります。
何を面白いと感じるのか。何に違和感を持つのか。どのような形や音や関係性に意味を見出すのか。そうしたことを自分で掘り下げながら、自分なりの答えを形にしていく。そこに、一般大学でアートを学ぶ意味があるのではないかと思いました。
また、社会の中に、アート作品を作る人だけでなく、アート的な思考を持つ人が増えていくことで、物事の価値の捉え方も少しずつ変わっていくはずです。効率や正解だけでは測れないものに目を向ける人が増えること。その変化を生み出すことに、私は関心があるのだと思います。結果として、それが私が教育に関わり続けている理由になっています。
――では本学に来たのはどういう経緯ですか?
コミュニケーション・デザイン学科が新設され、そこで音やメディアを扱える教員を探していると知人から聞きました。学科の方向性を聞いたときに、自分がこれまで取り組んできた音やメディア表現とつながる部分が多いと感じ、本学で教えることを決めました。1年経ちましたが、愛知東邦大学の学生は真面目な子が多いなという印象です。もちろん真面目なことは素晴らしいことなのですが、その真面目さゆえに、一つの見方にとらわれてしまうこともあるように感じます。そこが少しほぐれて、もっと広い視野で物事を見られるようになると、表現することも、学ぶことも、より楽しくなるのではないかと思います。私の役割は、そうした視野を広げる手伝いをすることではないかと思っています。
――新しい学科はどんな授業をされますか?
まずは、さまざまなメディアを通して、表現する楽しさを学生たちに知ってもらいたいと思っています。大学では、文章を書いたり、言葉で考えを整理したりする力がとても大切です。新しい学科では、そうした言語による表現を土台にしながら、さらに、音、映像、写真、光など、言葉以外のメディアを使った表現や、人の動きによって変化するインタラクティブな表現にも触れてもらいたいと考えています。
自分の思いや考えを、音や映像、空間などを通して表現すること。そして、他者の表現から、その人が何を感じ、何を伝えようとしているのかを受け取ること。そうした経験を通して、学生たちの表現力とコミュニケーションの幅を広げていきたいです。その上で、多様な表現技法を社会の中で活かし、プロダクトやサービス、地域の活動、新しいビジネスの提案へとつなげられる人材を育てていきたいと考えています。
――ゼミでは具体的に何を?
最近ではゼミ生と学内を展示会場にしてインスタレーションをやろうと企んでいます。また、電子工作やプログラミングを教えながら、学内にインタラクティブな仕組みを仕掛けていきたいと思っています。その他、やはりDJを含めて音楽を活用した空間作りは一緒にやっていきたいです。音や様々なメディアを通して、人を楽しませることを肌で感じてほしいと思っています。
――それがどうコミュニケーションとかビジネスにつながりますか?
2018年ごろからは、地元である津島市や名古屋市を中心に、メディア表現やDJを活用した地域イベントの企画にも関わるようになりました。映像、光、音といったメディアを組み合わせることで、空間の印象は大きく変わります。普段見慣れた場所でも、音楽が流れ、光や映像が加わることで、人が立ち止まり、集まり、そこに会話や体験が生まれていきます。私は、コミュニケーション・デザインとは、単に情報を伝えるためのデザインではなく、音、映像、光などのメディアを通して、人と人、人と場所の関係が生まれる場を、リアル空間やデジタル空間につくることだと考えています。そして、そうした場から生まれる出会いや対話、体験が、地域の価値を再発見するきっかけになります。その価値が共有されることで、新しい企画や活動、ビジネスへとつながっていくのだと思います。
学生たちには、デザインや技術を覚えるだけでなく、それらを使って人を楽しませること、そして人の気持ちや場の空気を変えることができるのだということを学んでほしいです。




