インタビューの日、東邦カラーであるオレンジに、黒のドットのネクタイを締めて現れた神野さん。さりげない気遣いを感じます。生い立ちからお話を聞き始めましたが、大半が名鉄時代のお話。苦労もあったのでしょうが、楽しい話が続き、朗らかでエネルギッシュな人柄が感じられました。
――大学を卒業して名古屋鉄道に入社されましたね。
自動車が好きだったので本当はトヨタ自動車に入りたかったのですが、祖母の願いで父親(=神野三男氏)が副社長をしていた名鉄に入ることになりました。入社後すぐに研修を受けたわけですが、当時は「名鉄道場」なるものがあって、新入社員は可児(岐阜県)の旅館跡に泊まりこんで、木曽川の雪解け水に集団で浸かったり、正座を1時間したり、そんな合宿をやりました。研修で聞いた「あなた方は鉄道運輸会社でなく鉄道サービス業に就いたんですよ」という言葉が印象に残っています。
――それから本社勤務ですか?
いえいえ、駅の実習から始まって、電車やバスの車掌とか名鉄の全業種を1年半ぐらいかけてやりました。電車の車掌は結構面白くて、津島線や豊川線なんかで車内巡回をやってると、お客様のおばあちゃんがお菓子とかおにぎりを「食べてちょうだい」と持ってきてくれて、そういうのどかな時代でした。
それが終わると、今度はグループ会社に研修出向というのがありました。当時はグループが300社ぐらいあったのですが、私はあまり人気がなかった東名高速の上郷サービスエリア(SA)での研修になりました。ウエイターや喫茶、事務所や売店、もうすべてやりました。今も混んでますが、当時はお盆とかはSAに入る車の渋滞が本線上に長くできるぐらい混みました。ですので、3日間まるっと72時間寝ずに働いたこともありました。20代だからできたんでしょうね。
――研修が終わって、やっと本社勤務ですか?
ええ、最初が経営企画室。収支予算を決めるんですが、ちょうど第一次オイルショックの時でした。運賃の値上げ申請を控えて臨戦態勢で、異動の翌日に「泊りの用意をして来い」と言うので、どこかに慰安旅行かと思ったら会社にそのまま泊まり込んで、申請の計算でした。会議室の机の上がベッドでした。
次は人事部の労政課。組合関係や賃金を計算してました。元々お酒は飲めなかったんですが、組合対策で結構無理して飲みました。ボーナスの計算も大変で、8000人ぐらいの社員の計算に、だいたい3週間ぐらいかかるんです。大まかなものは電子計算機室でばっと出すんですが、資格とか査定とか細かなことは一人ずつ出さなくちゃならない。それを電卓とそろばんでやっていました。とにかく大変な作業でした。
その後、採用担当もやりました。今の尾張旭市長の柴田浩さん、彼を採用したのも僕です。彼は名鉄百貨店の社長、私のずっと後の社長をやって、名鉄卒業後、市長に選ばれました。
――鉄道関係は経験してないんですか?
車掌区長をやりました。車掌が400数十人いるんですが、その長です。車掌は入社後の研修で半年ぐらいやりましたが、安全輸送のためにはものすごく大事な仕事なんです。ちょうどパノラマメイツって女性の乗客係を導入したんです。特急のパノラマカーに乗って車内サービスとか指定席のチェックとかをやってもらう仕事で、1期生と2期生は私の区長の時でした。男性だけだった職場に女性が入るのって大変だったんですよ。頑張ってもらったその女性たちとは、今でもお付き合いしています。
――面倒見がよかったんですね。他にはどんな思い出がありますか?
今、日間賀島のフグって名物でしょ、あの商品を作ったのは私が営業部長だった時です。それまであの島はタコで有名でしたが、旅館組合からこれからはフグもやりたいので協力して欲しいという話が来ました。それで初めての打ち合わせの場所に行ったら、旅館側の座布団が4枚しかない。旅館は12軒あるのに、それが4つ。私は「全員でそろってやるのでなければ協力はできません」と部下を連れて帰ってきてしまいました。タコでうまく行ってるからフグは様子見ようという旅館があったわけですよ。覚悟がゆるい。でも翌朝、電話がかかってきて、昨晩のうちに集まって全員でやることにしたから、もう1回チャンスをください、って言ってきたので、じゃあやりましょうとなって、ああなりました。向こうにも覚悟を求めたんです。それからみんな頑張って、今はあれだけの名物になりました。でも私は生ものがダメで、フグもタコも食べないんですけどね。
――百貨店との関りはいつからですか?
私は名鉄東京支社長を務めた後、初めての出向で名鉄グループの北陸鉄道の専務として金沢に赴任しました。それが半年ちょっと経った時、いきなり(金沢丸越)百貨店の社長をやって欲しいと言われて。百貨店はド素人でしたが、言われたならやるしかないと思って引き受けました。金沢には他に強い百貨店があって、向こうの3分の1しか売上高がなく、圧倒的な差で、すぐ潰れるなと思っていた百貨店でした。社長になって、最初の幹部会議の席で、これまで通りに進めてくれとだけ言って黙って会議を聞いていました。終わってご挨拶を、と言われた時に「自分はとんでもない会社の社長を引き受けてしまった。悔やんでいます」と言ったんです。役員や部長、みんなびっくりです。それは「今日の会議の中で『お客様』という言葉を一度も聞かなかった。これが百貨店の会議とは思えない」と言ったんです。客商売なのに「お客様」抜きだったんですね。そういうのは許せなかった。それから研修などで意識改革を徹底的にやりました。5年やって、相手が恐怖を感じるところまできました。
――見事な手腕だったそうですね。いま「お客様」とおっしゃいましたが、鉄道会社は昔は威張ってたというイメージがありました。
入社した頃、鉄道というところは、社内での話ですが、良い言い方で「お客さん」。でも普通は「客」です。研修で「鉄道サービス業」と言われたことが頭にあって、それで営業部長の時に、社内でも「お客様」と言いましょうと意識を変えたんです。すぐに役員も賛成してくれました。それ以来、ずっと「お客様」です。
――お客様第一という考え方でやってこられたんですね。
中学・高校生時代から、祖母に「背が高いのだから、よほど低くお辞儀をしないといけないよ」と言われていましたが、百貨店業に就いてからは、逆に頭を下げるお辞儀を否定しました。「お顔を見て、目を合わせ、笑顔を添えて、明るい声でご挨拶」で頭を下げずに通しました。これは効果抜群でしたよ。また、ホテル(金沢のスカイホテル専務)にいた時、レストランなどで、お出迎えの挨拶をしますよね。それをお帰りの時にもしっかりお見送りをする。これは自分で考えました。サービス業をずっとやってきて、お客様に喜んでいただけるのは何かな?と考えた時、帰りも挨拶されたら嬉しいなと。それはなんとなく身に着いていました。
――そういうことで顔が広いとお聞きしました。
日間賀島の旅館組合がフグを始めた時、苦労をかける女将さんたちを慰労しようということになりました。毎年1回、旦那衆が行っているハワイとか韓国とかにこちらが接待して旅行をしていました。金沢にいる時も呼ばれて一緒に行きましたよ。楽しいことが好きなので、(車掌区長の時代の)パノラマメイツとは今でもお付き合いがあります。金沢で勤務をしていて、名古屋に異動して来た人たちとは「名古屋兼六会」っていうのを作って、私が会長をやっているんです。30人ぐらいいるかな。まあ付き合いが深いというか、そういうお付き合いが好きなんですね。
――お付き合いといえば、東邦とは関係がない神野さんが、フレンズの会長を引き受けられた経緯は?
これは親父が2代目の会長をやっていたということもあります。親父は下出民義先生と面識があって、引き受けざるを得なかったと言ってました。私は学校も東海(高校)だし、全然関係もないので、3代目会長の内藤明人さん(=元リンナイ社長)から頼まれた時にお断りしたこともありました。でも、名鉄の営業部時代には何回か(応援団の)甲子園輸送でお世話になりましたので、榊直樹理事長に口説かれ、観念してお引き受けしました。
――フレンズの会長として心がけていることは?
卒業生を引っ張り込む。取引先ももちろん関係があるけど、フレンズっていうぐらいだから、みんな明るく楽しくやりたいですね。会員になっても、会費払ってるだけじゃメリットがないじゃないですか、だからフランクに楽しく、みなさんと心地よい交流ができるフレンズにしたいなと思っています。
――東邦学園に期待することは?
今の幼児、小学生はスマホもパソコンも私なんかよりよっぽど使いこなしてますよね。ところが中学校・高校ぐらいから、それをうまく活用して学問的に使う方向に教育が行ってないんですよ。これは日本の先行きを考えると大きなブレーキになってしまいます。
これから必要なのはまず英語力、もう一つはAI・デジタルを駆使できる力。榊理事長はよく分かってらっしゃるけど、それを強化していく。いきなり新設学部というわけにはいかないけれど、単位として提供できる先生方がいれば、学園としてはまだまだ伸びしろがあると思うんですよ。徐々にではあるけど、意識して、ちょっと無理してでもやっていかないといけないと思います。勝手なことばかり言いましたが。この学園は、真面目でオンリーワンを目指してやっていますし、卒業生もオンリーワンみたいな方も結構おられるようだから、しっかりやっていると思いますよ。




