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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第1回

東邦商業学校の誕生

1923

更新⽇:2016年12月13日

入試・合格発表・入学式を1日で

入試・合格発表・入学式を1日で実施したことを
記録した『沿革細史』

 東邦商業学校(以下は東邦商業と表記します)の文部省への設置申請は1923(大正12)年39日に行われ、331日に認可されました。認可翌日はもう新年度ですから、開校1年目はあわただしいスタートになりました。

 開校期の記録集である『沿革細史』によると、415日、午前中に112人の受験生に対して入学試験を挙行。国語、算術の2科目での試験結果により午後2時には合格者98人が発表されました。さらにこの日のうちに「下出義雄氏ノ臨席ヲ得、入学式ヲ挙行ス」とあります。入試、合格発表、入学式とすごいスピードです。さらに同日夜には「香川亭ニテ慰労ノ宴ヲ張ル」とありました。

 開校は自前校舎でではなく、中区南新町にあった中京法律学校の教室を借用してのスタートでした。中京法律学校の授業は午後6時から始まる夜間に行われたため、東邦商業の授業は昼間の空き教室を利用して行われました。生徒たちには「絶対に忘れ物をしないこと」が厳命されました。

 『沿革細史』には新学期早々の425日、生徒たちによる机やいすの破損が多く、中京法律学校から苦情を受けたこと、このため年齢が上の高等科卒業以上の25人を「操行監督」に任命し、生活指導に当たらせたことが記載されています。

 中京法律学校があったのは現在の名古屋東急ホテル(名古屋市中区栄4丁目)がある付近で、隣接して中京裁縫女学校、中京高等女学校(学校法人至学館の前身)がありました。

 第1回生として入学した98人。入学資格は義務教育である尋常小学校(満6歳で入学の6年制)を卒業か、さらに高等小学校(2年制)で学んだ男子生徒たちです。修業年限は5年(設立認可時は4年)で、1年生は12歳か14歳、5年生は17歳か19歳が普通でした。『東邦学園五十年史』によると98人は尋常小学校卒47人、高等小学校1年修了23人、高等小学校卒20人、その他8人。半数近くが12歳での入学でした。

関東大震災で生徒も義援金

東邦商業が間借りした中京法律専門学校(1923年卒業記念写真)

 1回生たちはどんな学校生活をスターとさせたのでしょう。21回生(1948年卒)の鰐淵幸彦さん(86)(名古屋市昭和区)からお借りした『追憶の記』という本に当時の学園生活の一端が紹介されていました。『追憶の記』は、東邦商業、東邦高校の同窓会組織である東邦会が1953(昭和28)年に発行した卒業生やかつての教職員たちの寄稿集です。

 19235月。入学したばかりの1回生たちは白線を帽子に縁付けし、黒の巻ゲートル姿で登校していました。校庭が狭かったので体操の時間は鶴舞公園で行われ、生徒たちは教員に引率されて早足で往復したようです。1回生の松本次郎さんは「2学期も終了するころには、クラス全体が実の兄弟のように馴染んでいった」と書いています。そして、この当時の1年生たち全員が心配していたのは、2年生から仮住まいの教室ではなく、自前の校舎で本当に勉強できるのかという点でした。

 91日には関東大震災が発生しました。190万人が被災、105000人余が死亡あるいは行方不明となる空前の被害に対し、1回生たちも義援金を送っています。『沿革細史』には「919日 本校生徒一同、去る91日関東大震災救護会へ5110銭也義捐」と記されています。一人当たり52銭ということになりますが、授業料が月450銭の時代でした。

 1022日には初の遠足が実施されました。同史には「午前9時より名古屋市東郊を経て龍泉寺山に遠足運動を為す」とあります。

そして、師走も押し迫った1229日、東区千種町赤萩での校地取得が実現しました。

赤萩校舎の誕生

東邦商業学校の赤萩校舎

 待望の自前校舎は名古屋市東区千種町赤萩に完成しました。現在の東区葵3丁目、JR千種駅のすぐ近くです。赤萩校舎の校地取得から新校舎開校までも迅速でした。126日に地鎮祭が行われ直ちに着工。『沿革細史』は「327日 本校第一校舎落成ニ付キ、事務所を新校舎に移転ス」とあります。

 認可から開校までの時と同様、迅速に進んだように見える赤萩校舎の開校でしたが、当時の下出義雄副校長は「もっと早く移りたかったが、関東大震災があり、思うように材木が手に入らずに難儀した」と振り返っています。(1939531日付『東邦商業新聞』100号記念座談会より)

 1回生たちが2年生に進んだ1924(大正13)年4月からは、新入生も迎えて赤萩校舎での授業が始まりました。「仮校舎から新校舎に移った時は本当に肩身が広く感じて嬉しかった」。松本さんも『東邦商業新聞』100号記念座談会の中で振り返っています。

 新校舎の東側を千種から大曽根に向かう国鉄(現在のJR)中央線が走っていました。松本さんは座談会で、「千種橋から学校を見下ろすと、北の隅に1棟の校舎があるだけだったので、グラウンドもとっても大きくみえて、これから大いに頑張ろうと思った」と、新校舎で始まる学校生活への期待を語っています。

 『追憶の記』によると、松本さんらは、木の香の高い新校舎に歓声を挙げ、ポプラ、プラタナスを学舎に平行して植えました。バラ、ヒヤシンス等の草花も校庭の隅に植えて慈しんだそうです。

千種橋からの風景

千種橋と東邦高校=1967年1月
『目で見る千種・名東の100年』(郷土出版社)より

 東邦商業は戦後、新制の東邦高校となり、1971(昭和46)年に現在の名東区平和が丘(旧千種区猪子石)に移転しました。赤萩地区ではその後、再開発がめまぐるしく進み、街の風景が様変わりしたこともあって、かつての赤萩校舎の面影を探すことは難しくなりました。

 『目で見る千種・名東の100年』(郷土出版社)という本に収められた1967(昭和42)年1月に撮影された「市電が走った千種橋」という写真を見つけました。屋上に「東邦学園」の看板が見える東邦高校の校舎が写っていて、千種駅との位置関係がよく分かります。この写真の説明には「市電が通ったのはこの年(1967)2月までであった。東邦学園も昭和46年には名東区平和が丘へ移転した」と書かれています。

 この写真にある千種橋すぐ北の千種駅は現在と同じ場所ですが、1961(昭和36)年に移転するまで、400mほど南にあったのが旧千種駅です。千種橋からは、蒸気機関車が煙を噴き上げて発車する旧千種駅の風景を撮影でき、鉄道ファンたちにとっては人気の撮影スポットでした。

(法人広報企画課・中村康生)

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