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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第2回

夢を応援する教師

1924

更新⽇:2016年12月13日

公立学校に負けるな

1928年当時の職員室

 1回生の松本次郎さんが入学後間もなくして仲良くなった一人が坂柳太一さんでした。松本さんと坂柳さんはともに東邦商業を卒業後、名古屋高等商業学校(名古屋大学経済学部の前身)に進学。松本さんは大同製鋼に勤務し、坂柳さんは商事会社に就職しましたが後に退社し、下出義雄校長の招きで母校教員に就任しました。戦争末期、教員が次々に応召され学校運営が困難を極めた時期には校長代理も務めました。

 「オイ、物理化学の先生は富山薬専の出身だとさ」。1924(大正13)年4月。新装なった東邦商業の南西角にあった2年生の教室では、松本さんや坂柳さんら生徒たちは、新任の先生のうわさ話で盛り上がっていました。最初の物理の授業に現れた先生が富山薬専(富山大学薬学部の前身)出身の森常次郎教諭でした。

 「私が森常次郎です。若い諸君と心を一にして懸命に勉強して公立学校に負けない実力を身につけましょう。物理や化学は商業学校の生徒には、直接には役立たぬ様に思われがちな科目ですが、これからは科学の知識がなければ何事も判断が出来かねない時代になる。諸君はここに思いを致して、一緒になって愉快に研究しましょう」。

 1900(明治33)年212日生まれで24歳。三重県なまりがかなり強い森教諭のあいさつでした。松本さんは「まだ学生臭い、装飾しないお人柄がすこぶる魅力的に感じられた」と『追憶の記』に、書き残しています。

 森教諭の授業は始業の鐘とともに寸秒の差異もなく始まり、終鈴が鳴っても、休憩時間がなくなるほど熱心に続けられました。松本さんによると、お陰で商業学校の生徒たちにとっては不得意科目になりがちな物理や化学も人気科目になっていったそうです。

 松本さんは、「特に化学の実験の時間などは、実験される先生の周囲に輪を作って愉快に学べた。全く先生の学問に対する真摯な態度が、さすがのわんぱく坊主どもを沈黙させてしまった」とも振り返ります。

医師になった1回生

森常次郎教諭

 森教諭は上級学校進学希望者たちのための時間外指導にも熱心でした。名古屋高等商業学校に進学希望だった松本さん、坂柳さん、医師志望だった近藤博さんらは親身になって指導してもらいました。とりわけ医学部をめざす近藤さんに対する指導について松本さんは、「全く遅くまで、親身も及ばぬお世話をされている情景に接すること度々で、先生のモットーは〝頑張れ〟であった」と『追憶の記』に書いています。

 1回生の卒業は1928(昭和3)3月ですが、近藤さんは、名古屋大学医学部の前身である名古屋医科大学に1932(昭和7)年に入学しています。名古屋医科大学の入学資格には「高校卒か愛知医科大学予科修了」とあり、近藤さんの入学までブランク4年は、この条件を満たすためだったのでしょう。ただ、実際にどの学校を経由したかの記録は探せませんでした。

 近藤さんは戦後、生まれ故郷でもある安城市で開業しました。『安城市医師会史』にその足跡が記されていました。

 1936(昭和11)年3月に名古屋医科大学を卒業。名古屋大学医学部斉藤外科(第1外科)に入局して日赤名古屋病院に勤務。1940(昭和15)年に応召、上海第二陸軍病院診療主任、中尉として勤務しました。1946年(昭和21)年に復員。静岡県袋井市民病院院長を経て同年11月に安城市に近藤医院を開設しました。

安城市医師会の理事、副会長を務めたほか、同市南明治公民館館長、同公民館青年学級主事も務めました。医師としてだけでなく、地域の若者たちのために尽くした近藤さんでしたが1975(昭和50)年に療養生活に入り、1984(昭和59)99日、73歳の生涯を終えていました。

田舎道を歩いて

医師への夢を実現させた近藤さん
(『安城市医師会史』より)

 近藤さんは酒もたしなまず、奥さんとともに茶道を愛しました。東邦商業学校の校訓である「真面目」の教えを忠実に実践したかのように、医師仲間からは「誠実で物静かな真面目な先生」と慕われ続けました。東邦商業で鍛えられた「ソロバン」が役立ったのか、安城市医師会では長く会計担当の理事を務めました。生涯を終える2年前に発行された『安城市医師会史』に近藤さんは心境をつづっていました。

 そして今、私は一筋の田舎道を歩いている。この道は舗装されていない自然の道である。道の両端は雑草が生い茂っているが、中央の人の通る所は草が少ない。この道を歩いていると、土の柔らかさと暖かさが体に伝わってくる。この道を今、私は残照に向かって、大空を仰ぎながら、静かに、何も考えずに歩いている。

 ひとり歩き、自然の道、周囲の素晴らしい景観、ただひたすら風の流れに流されながら歩く。

 昭和50年夏、突如として解離性大動脈瘤に襲われた。幸いにも周囲の暖かい善意に見守られて、死線を突破して現在に至っている。発病以来己(すで)に5年以上になる。胸中に時限爆弾を秘めているのだから、何時爆発するかも知れない。之は天のみ知ることで私とて予知できぬことである。発病以来、療養生活を続け、仕事を大いに減量して、静養の時間を主体にしている。お陰で自分の時間を、我が人生のうちで最も長く楽しめるようになった。宿痾(持病)と共生しながら私の人生航路はどうなって行くであろうか。

三菱空襲で殉職した恩師

森教諭、村松教諭の名前が刻まれた東邦高校の慰霊碑

 73歳で逝った近藤さんですが、東邦商業で近藤さんの医師への夢を応援した森教諭は44歳という若さで生涯を閉じました。1944(昭和19)年1213日、三菱発動機大幸製作所が爆撃を受け、同僚で教え子でもあった村松俊雄教諭(3回生)と生徒18人とともに殉職したのです。森教諭は、このころは春日井市に薬局を開業、東邦商業には講師として勤務していましたが、戦時中は生徒たちを引き連れて三菱発動機に通っていました。夢に向かって羽ばたこうとする多くの教え子たちを応援し続けながら迎えた無念の最期でした。

 『追憶の記』(東邦会発行)で、旧職員の小川久通さんは「森常次郎先生を憶う」という追悼文を寄せ、次のよう結んでいます。

 「先生は太平洋戦争になってから、少年航空兵や海軍特攻隊へ生徒に志願する様にと、時々校庭の教壇に立って声をからして、熱心に奨励し勧誘に努められた。面影は唯今でも私の念頭から離れぬ思い出であります。先生が空襲のため、勤労学徒と共に一瞬にして幽明境を異にされました事は夢かと疑った位でした。嗚呼!」

 村松教諭は1930 (昭和5)3月卒の3回生ですが、静岡県の袋井商業から東邦商業2年生に編入しました。名古屋高商(名古屋大学経済学部)に進みましたが、「東邦商業新聞」100号(1939年)に収録された座談会では「東邦で4年間、高商で3年間勉強しましたが、印象に残るのはこの学校に在学当時のことだけです」と語っていました。

(法人広報企画課・中村康生)

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