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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第37回

コラム⑤ 東邦野球部 栄光への再出発

1948

更新⽇:2018年7月15日

新制野球部の主将だった鶴田辰夫さんに聞く

「野球がやれる喜びが原動力になった」と語る鶴田さん

第100回高校野球選手権大会出場をめざす球児たちの熱い夏が真っ盛りです。18回目の夏の甲子園出場をめざす東邦高校にとって、旧制東邦商業学校から新制東邦高校に生まれ変わった1948(昭和23)年の第30回大会での再出発当時は、指導者も野球用具も十分にそろわない苦難の時代でした。この年に東邦高校に入学し、名門野球部の復活という重い責任を背負ってキャプテンを務め、卒業後は硬式野球部OB会の初代会長も務めた鶴田辰夫さんに、野球部再出発当時の思い出を語っていただきました。

 

 鶴田辰夫(つるた・たつお)さん
東邦商業野球部が創部された翌年の1931年11月26日生まれで86歳。南山中学を経て1948年4月に東邦高校に入学。1951年3月卒業後は日本通運名古屋支店に入社し、野球部創部に参加。軟式野球部が硬式野球部となった2年目の1962年には監督として、都市対抗野球全国準優勝に導きました。永年に及び高校野球、社会人野球審判も務め愛知県高野連理事なども歴任。自宅は名古屋市天白区植田西。

雑草刈りから始まったグラウンドづくり

1949年の市電通学定期券(池下~名駅)の路線図

私たちは新制東邦高校に入学した最初の1年生でした。2年生はおらず、旧制東邦商業学校を卒業生したばかりの先輩たちが3年生に編入学していました。東邦高校卒業年次としては当時の3年生が第1回、1年生だった私たちが第2回になりました。

卒業名簿によると第2回卒業生は47人ですが、入学時ははるかに少なく、途中入学みたいな生徒たちで何とか埋まっていった感じでした。学制移行の混乱期だったのでしょう。私も父親の転勤で神奈川県の旧制横須賀中学から名古屋の旧制南山中学に転校。卒業と同時に新制に変わった東邦高校に入学しました。中学時代の親友が、「おまえ、ここ(南山)の野球部に入っても優勝は無理。東邦に行った方がいいぞ」と勧めてくれたこともありましたし、2年先輩で、後に東邦高校の野球部監督になられた近藤賢一さんと家が近所で、一緒に草野球をやっていて、誘ってもらったこともあります。
硬式野球部も1年生と3年生を合わせて15人ほどでのスタートでした。車道の赤萩校舎は練習をするには狭いので、まずは八事にある学校のグラウンド整備から始めました。雑草の原っぱを広げて、マウンドをつくりました。草むしりが面倒になり、火をつけたらものすごく燃え上がって大騒ぎになったこともありました。
あらゆる物資が不足していた時代で、野球用具も〝ないないづくし〟でした。バット2本、ボール数個で公式戦に出たこともありました。縫い目の破れたボールを不器用な手つきで、縫い合わせるのも日課でしたし、折れたバットもテープをぐるぐる巻きして使いました。
今から思えばよくやったと思います。それでも毎日が夢中でした。もちろん、伝統ある東邦野球部の名前を消してはならないという強い思いはありました。

初の甲子園予選は成章に1-2で敗退

日通名古屋監督時代は都市対抗野球大会準優勝も

学制改革に伴い甲子園の野球大会名も中等学校大会から高校野球大会に変わりました。私たち野球部が最初に挑んだのは1948年7月に鳴海球場で開幕した第30回全国高等学校野球選手権大会愛知予選。1回戦では成章高校と対戦し1-2で敗れました。こちらはチームの形を整えるのがやっとで、入部してすぐレギュラーになれるほどの寄せ集めの戦力で、その後も苦戦が続きました。翌春のセンバツにつながる秋の大会には不参加でした。
2年生からキャプテンになりましたが、夏の第31回大会愛知予選も1回戦で名古屋文理高校(現在の名城大学附属高校)に0-3で敗退しました。優勝して甲子園に出たのは享栄です。
監督は1年生の時は山中英俊先生、2年生からは甲子園経験もある安田(旧姓田島)章先生でしたが、安田先生は復員して母校教員になったばかり。八事のグラウンドには1週間に1回来るか来ないかでした。
そんな状態ですから、八事のグラウンドでの練習は選手だけでやりました。日大に進学していた近藤賢一先輩が、夏休みで帰省した時に指導してもらうか、1934(昭和14)年の第16回選抜大会で全国優勝した時のメンバーで、日大を経て社会人野球の愛知産業でプレーをしていた久野欽平さんが時おり顔を出してノックをしてくれる程度で、やはり指導体制が確立していなかったのは致命的でした。
そういうわけですから、練習はほとんどが選手任せ。野球に関する情報もないなかで、自らの努力でひたすら練習をして力をつけるしかありませんでした。

金田投手の享栄にコールド負け

「金田との対戦は忘れられない思い出」と語る鶴田さん

この当時の愛知県下の高校野球は、瑞陵、享栄、犬山高校などが甲子園を争っていました。享栄にはプロ野球の国鉄(現在のヤクルト)や巨人で活躍した金田正一投手がいました。
3年生だった1950年の第32回大会愛知予選の2回戦で、東邦は金田と対戦しました。1回戦は南山高校を7-5で下して挑んだ享栄との対戦でしたが、0-9で7回コールド負けを喫しました。キャプテンの私はレフト4番の右打者でしたが打てませんでした。高校生ばなれした速球とドロップ(落ちるカーブ)にチーム全体で8三振を奪われ完敗しました。
この当時、享栄は国鉄八事球場で練習していました。私たち東邦は授業が終わると市電で車道から今池、大久手を経て八事に向かいましたが、途中の安田の電停から金田ら享栄野球部が乗り込んできました。金田たちは半増坊で降り、東邦は八事まででしたので、市電の中では互いに顔見知りでもありました。
金田は三振を奪う数も多くすごい投手でした。しかし、一方で四球も多かった。打ちに行っても打てないし、ストライクも打てないが、立っていれば四球を選べるピッチャーでした。結局、この年の夏、甲子園への出場切符をつかんだのは優勝候補の享栄商業ではなく瑞陵高校でした。

野球部史上、最弱だった時代

「東邦高校」として初の甲子園出場を喜ぶ野球部と下出貞雄校長

東邦高校の野球部が戦後、戦力が整い始めたのは私らが卒業するころでした。先輩たちの尽力もあり、有望な新人たちが次々に入って来るようになりました。そして、戦後初めて甲子園の土を踏んだのは2年先輩の近藤さんが母校監督に就任してからの1959(昭和34)年春。3回目の全国優勝した1941(昭和16)年以来、18年ぶりのことでした。近藤監督時代の東邦は5回も甲子園出場を果たしました。
私たちの野球部時代は、伝統ある東邦の野球部史の中で、一番弱体だった時代だったかも知れません。ただ、こういう時代があったればこそ、栄光ある東邦野球部の伝統が守り継がれたのだという自負もあります。同期部員の中には投手だった桜井隆光君のように頑張ってプロの中日に入団した選手もいます。
戦後の何もない時代に、何であれだけ夢中になって野球をやったのかよく分かりません。多くの少年たちがまだ簡単にはグローブも買ってもらえない時代に買ってもらえたうれしさもあったかも知れませんが、好きな野球をやれる喜びが原動力になっていたのでしょうね。

日通を定年退職後も審判は10年もやりました。おかげ様で野球人生を全うでき、悔いはありません。世代もすっかり変わってしまい、OB会でも知っている皆さんの顔ぶれも少なくなりましたが、東邦高校野球部を率いる森田泰弘監督、愛知東邦大学野球部の横道政男監督の健闘を祈っております。

(法人広報企画課・中村康生)

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