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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第36回

下出貞雄の「パイオニア魂」と長浦

1946

更新⽇:2018年7月9日

下出家別邸があった長浦

長浦を訪れた中産研のメンバーたち

6・3・3制の教育体制がスタートした1948(昭和23)年。4月に東邦高校、東邦中学校の校長に26歳という若さで就任した下出貞雄はこの年10月には、日本が初めて体験した教育委員選挙に出馬し愛知県教育委員に最年少当選を果たしました。さらに、1950年5月には「東邦保育園」を開園。女性たちが働く環境がまだ十分に整っていなかった時代にあって、まさに先駆的な挑戦でした。

新しい時代の教育に意欲的に取り組んだ下出貞雄の〝パイオニア魂〟の原点と足跡を探そうと、愛知東邦大学地域創造研究所の中部産業史研究部会(中産研)の11人が、貞雄が青年時代の一時期を過ごした愛知県知多市の長浦地区を訪ねました。中産研では下出民義、義雄らの社会的活動についての研究を続けており、2017年度には「下出民義父子の事業と文化活動」「下出義雄の社会的活動とその背景」の研究叢書2冊を刊行しました。

長浦地区は1930(昭和5)年9月に愛知電気鉄道(現在の名鉄)常滑線長浦駅が開業したのに伴い、別荘地として開発されました。下出義雄も間もなく別邸を設けました。

中産研による長浦地区探訪調査は、先行調査を行った会員の青山正治さん(元大同大学教授)の案内で2018年5月12日に実施されました。貞雄の甥である榊直樹・東邦学園理事長(愛知東邦大学学長)も加わり、私(中村康生)も会員の一人として参加しました。

「青空幼稚園」の実践

長浦教会で田中さん(手前)から話を聞く中産研メンバーたち

貞雄はまだ上智大学の学生だった1946(昭和21)年当時、長浦で「青空幼稚園」と呼ばれた活動に関わっていました。青山さんの調査によると、長浦郷土誌作成委員会が編集した『長浦のあゆみ』(1998年)にその足跡が記録されていました。

長浦には当時、学徒動員から復員し、復学待機中だった貞雄、早稲田大生ら男子学生たちと、長浦に疎開で仮住まいしていた未婚女性らの約20人が「長浦友学会」という相互啓発グループを作り、社会活動や文化活動に取り組んでいました。その中で、「社会に役立つ活動をしよう」と始まったのが「青空幼稚園」活動でした。

保母資格のある女性会員らが先生を務め、会員たちの応援奉仕による保育活動では、男子会員たちも東山動物園への遠足付き添いなどで協力しました。1946年4月の開園時の園児数は19人。その後29人~39人と園児は増えました。

活動は最初、文字通り青空の下で行われましたが、やがて大同製鋼の社員寮である「鉄心寮」(現在は「出光長浦寮」)の2階食堂も教室になりました。友学会の会長でもあった貞雄は、仲介役として使用許可を取ったり、退任した保育教員者の補充のため、名古屋市立保母養成所への後任派遣要請にも同行するなど交渉役を担当しました。

やがて貞雄らは復学などで東京に戻りました。青空幼稚園は1950(昭和25)年3月に4回目の卒園式を最後に、カトリック長浦教会の併設幼児園(現在の長浦聖母幼稚園)に引き継がれました。橋渡しをしたのが貞雄の姉である榊文子(下出義雄の長女で榊理事長の母)でした。

青山さんは「貞雄さんは青空幼稚園の開園や運営のノウハウと関わった。東邦保育園を開園したのもこの時の実践体験があったからだろう」と話します。さらに、幼稚園活動に加えて、友学会で、演劇などの文化事業も含めた社会教育活動を展開したことが、教育委員選挙への関心を高め、立候補の決断に大きな影響を与えたものと思われます。

園児体験者の思い出

田中さんが3歳の時のクリスマス会。後中央の和服は下出貞雄

訪れたカトリック長浦教会では、教会関係者や、古くからの信者である田中英昭さん(73)が、自身が「青空幼稚園」の2期生として3歳前から3年7か月通った当時の思い出を語ってくれました。

田中さんが通園していた当時の青空幼稚園は、正式には「愛児園」と呼ばれていました。田中さんが後に発行してもらった「卒園証書」は1951(昭和26)年3月26日付で、「第38号」という卒園番号もついていました。

田中さんによると、当時の長浦には大同製鋼に勤務する人たちのほか、大学関係などの文化人や大手企業関係者らが別荘を構えていました。空襲を避けて移り住んだ人たちもいました。田中さんと同じ2期生には、榊理事長のすぐ上の兄である榊裕之さん(豊田工業大学学長、東大名誉教授)がいました。

「ヒロちゃんとはずっと遊び友達でした」。懐かしそうに振り返りながら、田中さんは3歳の時の愛児園でのクリスマス会の写真を見せてくれました。クリスマスツリーのすぐ左には、長身の和服姿の貞雄の姿がありました。田中さんは1944年9月生まれですから1947年12月のクリスマスということになり、貞雄にとっては東邦高校、中学の校長就任の前年です。

青空幼稚園には、榊理事長の長兄である榊佳之さん(豊橋技術科学大学学長、東大名誉教授)も通いました。佳之さんと裕之さんはともに、榊理事長に「青空幼稚園」時代の思い出をメモで寄せてくれました。裕之さんは「海岸での遊びが多く、雨天時、大同製鋼の鉄心の広間で遊んだ記憶がある。幼稚園は下出貞雄さんなど、長浦に縁の深い大学生たちが始めたらしい」と振り返っていました。

県教育委員に最年少当選

教育委員選結果を伝える中部日本新聞(1948年10月7日)

公選による教育委員会制度は、戦後の民主化政策の一環としてアメリカの制度をモデルとして導入されました。第1回選挙は1948年10月、全国の都道府県と名古屋市など5大都市ほかで行われ、教育委員会が発足しました。下出貞雄は愛知県教育委員選挙(定員6人)で15人の立候補者の一人として選挙戦を戦い抜き、最下位ながら最年少当選を果たしました。任期は、得票数で上位当選の3人が4年、貞雄ら4位以下の当選者3人は2年でした。

中部日本新聞(10月7日)に掲載された選挙結果では、数え年を採用していたため貞雄も「28歳」となっています。満年齢は27歳になったばかりでした。

 

189,428票 榊原孫太郎 社長 56

137,570 票 神野太郎  社長 46

135,882 票 大渓贇夫  学校経営 49

108,175 票 稾貞治    会社員 41

91,607 票 永井鉄夫   県教育会館教養部長 42

58,081 票 下出貞雄   学校長 28

記事では、「最高点の榊原氏は知多郡町村長会、PTA、教組が全面的に推し、一師関係者の支持を得て、尾西、尾北に進出。神野氏は東三で地の利を得て、町村会その他各種団体がこぞって支援。大渓氏は私立学校、宗教関係が推し、藁氏は碧海郡町村会、実業界方面の支持が強く、永井氏は名教組、一師関係の支援があった。下出氏は大渓氏には及ばなかったが私立学校と大同系の支持があり、これらが有利に導いたものと見られる」と6人の獲得票の流れを分析しました。

「一師」とは愛知教育大学の前身である愛知第一師範学校の略。選挙結果には教員組合や教員票が大きな影響を与えました。貞雄は私立学校関係票と父義雄が社長を務めた大同製鋼の支援票が後押ししたようです。

新聞に掲載された貞雄の当選の弁です。「これからの教育は新時代にふさわしい青少年を育てることが第一である。今までの教育は、あまりにも大人の世界に独占されすぎていた。私は青少年の心を心として、教育行政に進歩的役割を果たすことを念願としている。この選挙に枕を並べて落選した進歩陣営の人々の代わりを私がやりたい」。

貞雄陣営の選挙戦を支えたのは東邦商業OBたちでした。中部日本新聞紙面で紹介された喜びにわく貞雄の選挙事務所の写真で、貞雄の手を握って祝福しているのは衆院議員になったばかりの江崎真澄(6回生、東邦会初代会長)です。選挙管理委員会への立候補届け出の推薦人には東邦商業2回生の林伊佐武(林物産社長となった東邦会第2代会長)の名前もありました。

県下を巡る遊説を振り返って貞雄は、「卒業生や在校生の父兄の方から直接激励を受けたのは大変心強くうれしかった。(下出家)3代にわたる教育への情熱が深く根を下ろしているのをしみじみと感じ、教育の喜びを改めて味わった」と振り返りました。

 貞雄は1950(昭和25)年4月に副委員長として承認されたものの10月で任期を終えました。

東邦保育園の開園

教育委員当選で江崎真澄の祝福を受ける下出貞雄と東邦保育園運動会

貞雄は教育委員の仕事を続けながら1950年5月には赤萩校舎内に「東邦保育園」を開園させ、働く女性たちを応援しました。教育委員選挙でも社会教育に全力で取り組む決意を明らかにし、「社会・家庭・成人教育ノ重視」という政策メモを残していました。

東邦保育園は1947年に制定された児童福祉法に基く児童福祉施設であり、財団法人下出教育財団(現在の学校法人東邦学園)によって、1950年4月30日の理事会で設置が決まり、定員70人でスタートしました。残された写真には、園長として園児たちと運動会を楽しむ母親の下出サダ(下出義雄夫人)の姿も見られ、保育園の運営でもサダの応援が大きな力となりました。

「我々は新しい社会のパイオニアとなるべきではなかろうか」。「東邦新聞」13号(1953年10月)に貞雄が寄せた記事です。(記事前半は連載第35回で紹介)

<創立者が日本の資本主義発達のパイオニアであったならば、この社会制度の末期に住む我々は、この新しい社会のパイオニアとなるべきではなかろうか。民主教育をかつての皇国教育とすりかえて、お題目だけ唱えている官製教育でなく、どんどん実践に移すのが私学東邦の、現在の、そしてまた今後の教育であらねばならぬ。我々は過去の人が成し得なかった、真に役立つ人材、商業技術に優れるとともに、どんな職場にいても世界の平和を願い、そのことが自分のためにも、他の人のためにも最後の幸福をもたらすことを知る人間を作りあげたい。

東邦学園の歴史は今日も明日も絶え間なく、これから刻み込まれて行くであろうが、こうした新しい時代にふさわしい意欲に燃えた〝前方をみつめる人々〟の養成に明け暮れ、学園自身も明るい前途に向かって進むであろう>

新しい時代に挑む若き下出貞雄の〝パイオニア魂〟が伝わってきます。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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