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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第39回

東邦保育園に響いた平和の歌声

1950

更新⽇:2018年9月1日

名古屋青年合唱団の練習会場に

合唱団の思い出を語った堀さん夫妻(守山区の自宅で)

「東邦保育園では夜間、名古屋青年合唱団の若者たちが練習していましたよ」と高校時代の思い出を語ってくれた卒業生がいました。1953(昭和28)年に普通科に入学して1956(同31)年に卒業した7回生、河合清文さん(82)(刈谷市)です。
名古屋青年合唱団は2018年で70年の歴史を刻んだ合唱団です。「日本青年共産同盟(青共)名古屋合唱団」として1948(昭和23)年6月に創立され、1950(昭和25)年1月に「名古屋青年合唱団」と改名しました。以後、「名青(めいせい)」の愛称で、「うたごえは平和の力」をスローガンに活動してきました。
「名古屋青年合唱団団史(1)」(1994年、以下は「団史」)によると、合唱団は1期生を募集するにあたって、交通が便利で使用料が安い練習会場を探していました。利用できることになったのが東区赤萩町の東邦高校でした。国鉄千種駅のそばで交通アクセスもよく都心にも近かったからです。
団史によると、後の1963(昭和38)年衆院選挙で愛知1区から当選した共産党の加藤進氏の紹介で東邦側の了解が得られました。1950年5月から東邦高校講堂を借りて練習が始まり、間もなく、開園したばかりでオルガンもある東邦保育園が練習拠点となりました。
生徒会長を務める一方で、苦学生でもあった河合さんは、今でいうアルバイトのような形で東邦高校の夜間警備をした経験がありました。「夕方になると仕事を終えた若者たちが40人、50人と集まって来ていました」と河合さんは振り返ります。
団史には<「園児用の小さな椅子に恐る恐る腰かけて、「村祭り」「エルベ河」「泉のほとり」などを習った>という団員たちの思い出も書かれていました。

閃光とごう音の8月6日広島

俊子さんら8期生。前列右から3番目にジャンパー姿の堀さんも

名古屋青年合唱団の創設時のメンバーに話を聞くことができました。名古屋市守山区の堀三郎さん(90)、俊子さん(83)夫妻です。
堀さんは大曽根の高等小学校を卒業して三菱電機に入社。1944(昭和19)年暮れに予科練に合格したものの入隊するはずだった東京の飛行場が使えなくなり入隊延期に。名古屋の三菱重工が爆撃されたことで1945(昭和20)年6月に広島県の三菱工作機械工場に養成工としての勤務となりました。
原爆が投下された8月6日朝は、爆心地から6㎞離れた工場で朝7時から作業をしていました。8時15分。ものすごい閃光の後、ドカーンという、工場がつぶれてしまったのではと思わせるほどのごう音に体が揺さぶられました。堀さんがこれまでに体験したことのない大音響でした。
工場の外に出ると、広島市中心地の上空に「きのこ雲」がもくもくと盛り上がっていくのが見えました。堀さんは、青年学校の生徒や養成工らで編成された数班の救援隊の一員としてその日のうちに地獄絵と化した広島市内に入りました。
堀さんたちは8月14日まで救援活動を続けた後、列車で名古屋に向かいました。岡山で降ろされて一泊し、8月15日昼、大阪駅の地下道に並ばされて終戦の玉音放送を聞きました。その日、名古屋の実家に戻り、「これでもう戦争には行かなくてもいい」と思ったそうです。

 

歌声運動で噛みしめた平和の尊さ
三菱電機に復帰した堀さんは、平和のありがたさを噛みしめるように歌声運動に参加し、組合役員にも選ばれました。しかし、社会情勢は急変し組合活動はレッドパージの対象となり、堀さんも解雇されました。「〝レッド〟ではなかったのにパージされた。大好きな歌を歌って文句を言われるのなら、もっとうんと広げてやろう」。堀さんは、運送屋、自動車修理工と職場を変えながら、名古屋青年合唱団の設立に加わり歌声活動に関わっていきました。
東邦保育園での練習では、堀さんがガリ版刷りで、その日覚える歌を書き込んだ「ピース」というチラシが売られ、運営費にあてられました。
俊子さんは1953(昭和28)年11月に合唱団に8期生として入団し、堀さんと出会い、1958(昭和33)年10月に結婚しました。合唱団活動について俊子さんは、「NHK朝ドラの『ひよっこ』で、集団就職してきた女の子たちが寮で合唱を楽しんでいましたよね。まさにあの風景です。カチューシャの歌を聞いたときは、何てすばらしい歌かかと感動しました」と懐かしそうに振り返りました。

開園5年目の東邦保育園

クリスマス会でのさくら組園児と母親たち(左端が俊子さん)

俊子さんは1954(昭和29)年の半年間ほど、姉が東邦高校職員だった友人の紹介で、東邦保育園で保母として働きました。開園5年目の東邦保育園では実質的な園長だった佐藤宗夫さんのもとで100人ほどの園児を預かっていました。年少の「さくら」、年中の「たんぽぽ」、年長の「ぽぷら」の3組があり、最も多かったぽぷら組には40人近い園児がおり、俊子さんの受け持ちは3歳児もいるさくら組でした。
東邦保育園勤務時代について俊子さんは、「幼稚園のスタイルに近い保育園はちょこちょこあるものの、しっかりした保育園はまだ少ない時代でした。自由契約の園児はほとんどが地域の子どもたちでしたが、半分以上は役所から依頼されて来る措置児たち。援助金が出る関係で監査が行われ、その厳しさに驚きました」と振り返ります。
冬は園児たちが登園する前に、朝早くから出勤して、石炭ストーブで部屋を暖かくしておかなければならなかったそうです。
保育園のある教室は1階にあり、2階の教室は高校生たちが使っていました。「2階からバケツの水を降らせるなどやんちゃな生徒もいましたよ」と、俊子さんは楽しそうに語ってくれました。
俊子さんが大切に保管していたアルバムには、親たちと一緒に撮ったさくら組のクリスマス会での記念写真、保育園が使っていた校舎前での1959年10月27日の運動会の写真が張られていました。ぽぷら組は綱引き、さくら組は遊戯の写真です。遊戯の写真の下には「さくら組のりんごはりんごは何でしょう」という俊子さんの書き込みがありました。

7年続いた東邦保育園での合唱練習

ぽぷら組の綱引き(1954年10月の運動会で)

名古屋青年合唱団は1955(昭和30)年からは、指導者に愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)を卒業したばかりの熊谷賢一さんを迎えました。幅広い合唱ファンを受け入れるために、日曜日には「みんな歌う会」を始めるなどして活動の輪を広げました。
熊谷さんは後に、NHK名古屋放送局制作の「中学生日記」の音楽なども手掛けた作曲家として知られることになりました。
団史には<「指が3本入るくらい大きな口を開けて。言葉をはっきり」と、いつも熊谷先生はご自分の口に指を入れて教えてくれた>という団員の思い出も書かれていました。
しかし、熊谷さんの病気による活動の中断もあり、名古屋青年合唱団の東邦保育園での活動は1957(昭和32)年で終わり、その後、活動場所は中区の幼稚園に移されました。
7年間続いた東邦保育園での合唱団活動について堀さんは、「自前の練習場がない時代、あれだけ交通の便利な保育園を使わせていただき本当にありがたかった。校長の下出貞雄先生には感謝の気持ちでいっぱいです」と語ります。
名古屋青年合唱団が東邦で練習をすることになる橋渡し役を務めた加藤進氏は1909年生まれ。下出貞雄より12歳年上です。名古屋市千種区出身で名古屋帝国大学理学部数学科を卒業。八高や名古屋大学で教壇に立ち、愛知県教員組合の副委員長も務めました。国会議員活動のほかに日ソ協会愛知県連合会副会長なども歴任しています。
下出貞雄も愛知県教育委員として教育関係者とのつながりがあったほか、1959(昭和34)年には日ソ協会愛知県連理事長としてソ日協会の招待でソ連・中国を訪れています。加藤氏には「熱心なカトリック信者」としての顔もありました。新しい教育のあり方を求め、カトリック系の旧制南山中学から上智大学に進んだ下出貞雄とは相通じるものがあったのかも知れません。

平和の語り部として

さくら組の遊戯(1954年10月の運動会で)

原爆投下直後の広島で、堀さんは被爆者たちを戸板に乗せては工場に設置された緊急救援所に何度も運び込みました。工場内の講堂では、収容した被爆者たちの看護にあたりました。閃光で焼けた肌に赤チンを塗り、うちわで扇ることしかできませんでした。水、水、水とうめく被爆者たち。しかし、上司の指示がなければ水を与えることもできませんでした。「水をください」「水をくれえ」と叫びながら被爆者たちは次々に亡くなっていきました。
「裏山に遺体を運んで何体か同時に焼きました。無慈悲なことでした」と堀さんは声を落としました。堀さんは、自らも15年後に白血球減少症になり、肺結核を発病し3年間の闘病生活を送りました。
堀さんは平和への願いを込めた歌声運動とともに、愛知県原水爆被災者の会(愛友会)に所属し、被爆体験の「語り部」としての活動も続けています。講演は少なくとも50回以上に及んでいます。白血球の減少で抵抗力が低下し、心疾患や慢性肝炎も発症しましたが、ここ数年は、毎年のように10月に東邦高校に招かれて生徒たちに被爆体験と平和の尊さを語り続けています。
堀さんは、「東邦高校の講堂や東邦保育園の教室を使わせてもらいながら始めた歌声活動は、生きるエネルギーにもなりました。そして90歳を迎えた今も、東邦高校の生徒たちに平和の尊さを語り、耳を傾けてもらっている。東邦学園に不思議な縁、絆を感じます」と語りました。
「本当にそうですねえ」と相槌を打った俊子さんは「私たちの時代に比べたら、今の合唱団のレベルは格段に高い。私たちは合唱団ではなく〝雑唱団〟でしたから。それでも楽しかった」と懐かしそうでした。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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