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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第40回

GHQ体制と生徒会

1948

更新⽇:2018年9月11日

占領軍の申し子として

生徒会で立って発言する仁田さん。左は新海さん(1952年アルバム)

東邦学園は1953(昭和28)年に創立30周年を迎えました。「東邦新聞」13号(10月30日)の1面には「祝 東邦学園創立三十周年」の協賛広告も掲載されました。東邦商業2回生の林伊佐武さんが社長の「林物産」を始め、卒業生たちが関わる6社の社名広告です。

協賛広告すぐ上の「天・地・人」といコラムに、戦後の生徒会発足をめぐるエピソードが紹介されています。東邦学園「50年史」によると、1948(昭和23)年に「高校・中学合同の生徒会発足」とありますから、生徒会が誕生して6年目の時に書かれたコラムです。以下抜粋です。

<わが生徒会は占領軍の申し子として産声をあげた。戦時中の軍国主義教育をやめて、生徒に自主的に物事を考えさせる教育の一つとして生徒会が重視され、本校においても占領軍の強力な指示の下に設立された。平岡先生を初代生徒会顧問に迎え、第1期の生徒会役員選挙が行われたが、役員に当選したのは主に下級生で、下級生役員の下に上級生がはたして協力するだろうか、下級生は上級生を指導していけるだろうかと関係者一同はやきもきしたが、運営は極めて円滑で、関係者も安堵の胸をなでおろしたという――>

第1期生徒会の会長を務めたのはこの「東邦新聞」13号発行の前年(1952年)3月に卒業した3回生仁田(にった)英夫さんでした。顧問に就任したのは後に校長(1965年1月~1970年7月)を務めた平岡博です。仁田さんも、平岡もすでに故人ですが、それぞれ、当時を回想する記録が残されていました。

愛知軍政部の講習会

運動会で仮想行列する新聞部(1952年アルバム)

仁田さんは生徒会誌『東邦』2号(1960年3月5日)に「生徒会発展に寄せて」という題で思い出を寄稿をしていました。仁田さんは終戦翌年の1946(昭和21)年4月に東邦中学(旧制)に入学。そのまま新生高校となった東邦高校に進みました。6年間の東邦学園での学びを終えたのが1952(昭和27)年3月でした。

サンフランシスコ平和条約の調印も1952年9月であることから、仁田さんは、自分たちが東邦中学・高校に在学した時代について、「政治史の角度からみると〝占領の時代〟であった」と書いていました。そして、生徒会誕生を、「占領の時代の民主化ブームを象徴する出来事」として受け止めました。

仁田さんは、生徒会誕生が、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の後押しがあったことを思わせる事例として、「生徒会の初代顧問となられた平岡先生が、県主催の会に出席され、生徒会の会則ひな形や、議事の進め方のパンフレットを手渡され、米人のガイダンスを受けられたという」と書き残しています。

仁田さんの指摘した「米人のガイダンス」とは、GHQの地方における占領教育政策を担う愛知軍政部担当官による講習会のことです。愛知県立旭丘高校の愛知一中時代からの100年史である『鯱光百年史』には、1948年7月23日に、「愛知軍政部による自治会講習会が県下高等学校、中学校、小学校の生徒、教官を富士中学校(名古屋市東区)に集めて開かれ、生徒会の骨格となる内容が半ば強制的に指導された」と記されています。

GHQは日本の学校に、アメリカ流の校内自治組織・生徒会を根付かせようと、全国で同様な講習会を開催していました。千葉県では1948年11月に、GHQによって関東各地の高校生たちが集められ、生徒会の仕組みや自主的な活動の在り方が教えられました。(「毎日新聞」2017年2月5日長野県版)

愛知軍政部講習会に出席した平岡は「50年史」にその決意を回想しています。

「生徒を正しく指導していくには、まず、生徒会を育成することだと考えて、教務主任をやめ生徒係の仕事を進んで引き受けた。生徒会規約も最初、私が作り、講堂で生徒大会を開くまでにこぎつけて活動が始まった。苦しかったが新しい息吹の時代でした」

鑑賞映画も生徒が決定

「東邦新聞」13号の映画広告(1953年10月30日)

仁田さんは、「米人ガイダンスの内容は平岡先生しか知らないものの、生徒会規約の母体となったGHQ作成のパンフレットは理想的な色彩を強く持っていた」と振り返っています。

仁田さんから生徒会長を引き継いだ同期生の新海(旧姓小山)明敏さんも同じ『東邦』2号に「生徒会創設期の想い出」として、動きだした生徒会活動の事例を挙げていました。

新海さんによると、校内に於ける諸行事の大部分は生徒会自身によって企画、運営されました。例えば映画鑑賞は、生徒会によって、選定、交渉、鑑賞という手順で行われました。戦前なら、東邦商業学校に限らず旧制中等学校の生徒たちが、映画館に一人で入ることすら厳禁でしたから、生徒たちには画期的な出来事でした。

学校生活での風紀上での取り締まりも生徒会が行いました。長髪問題で生徒会が開催されてその是非が論議され、決定に基づき、生徒会によって服装点検も行われました。「野球部の黄金時代を築こう」という合言葉のもとに、7校リーグ戦が開催された大須球場に繰り出して、全校一丸となって応援しました。厚生部門ではパンの販売までも生徒会が引き受けて担当したそうです。

新海さんは「生徒会の自治活動は学校側から一切干渉されることなく、自由に、しかも、のびのびと活動できたことも特筆されよう。当時の生徒会顧問には初代平岡博先生、二代には林(後に浅井に改姓)静雄先生と、組織の発足から育成に大変な努力を払われ、我々青二才どもをどこまでも信頼され、指導された功績は誠に偉大なものであると思っている」と回想しています。

上級生の反発

東邦時代の想い出を語った石原さん

仁田さんは、在学中に生徒会長のほかに弁論部長、そして1951(昭和26)年に創刊された「東邦新聞」の新聞部長も務めました。卒業後は早稲田大学を経て帝国石油、石油連盟に勤務しました。東邦時代の話を聞かせてもらおうと、同窓会名簿の載っている東京都武蔵野市の自宅に電話をしました。しかし、電話に出た奥さんによると、仁田さんはすでに2007(平成19)年12月19日に亡くなっていました。74歳でした。新海さんは愛知大学を経て名古屋市職員となりましたが、同窓会名簿に記載された岡崎市の自宅電話は通じませんでした。

2人と同級生で3回生の石原啓治さん(84)(名古屋市千種区)から話を聞くことが出来ました。石原さんは愛知大学を卒業後、愛知県庁に7年間勤務した後、父親の家業を継ぎました。「中学、高校と東邦で学んだが、新進気鋭の下出貞雄校長のもとで、いろんな新しいことをやった。自由奔放な時代でもありました」と振り返ってくれました。

仁田さんが、中学3年生で会長に当選した1948年度当時、東邦学園は中学部と高校部合わせて443人以上の生徒がいました。終戦、学制の切り替えで、高校2年生、中学2年生は在籍せず、中学生357人(1年生85人、3年生272人)に対し高校生は86人(1年生49人、3年生37人)だけでした。人数は「50年史」に掲載されている東邦中学、高校回数別卒業生数のため、実際の在校生数はこれを上回っているはずです。

役員選挙で中学部の生徒当選するのは当然の成り行きでした。しかも、立候補した中学3年生たちは、仁田さんを始め、ほとんどが弁舌さわやかな弁論部員で占められていました。

石原さんは、「上級性である高校部の生徒たちからは反発がありましたよ。講堂の檀上で理路整然と主張を訴える仁田君には相当ヤジも飛びました。上級生たちには、〝中学生のくせに生意気な〟という思いは当然あったわけですから」と苦笑しました。

長続きしなかった「干渉されない生徒会」

仁田さん、新海さんの名前も登場する「東邦新聞」5号

しかし、学校側から一切干渉されることのない生徒会活動は長くは続きませんでした。コラム「天・地・人」の記事後半は、GHQの生徒会育成の方針が、1950(昭和25)年6月の朝鮮戦争勃発でアメリカの反共政策が強化されたことなどを背景に、「高校生の生徒会活動は、占領軍、政府にはあまり歓迎されなくなったようだ」と筆を進めています。「日本の高校生は有形無形に加わる生徒会への圧迫を一生懸命はね返している。考えてみると東邦の生徒会も一肌が脱がねばならぬ時期に来ているようだ――」。

中学生執行部が躍動し、「占領軍の申し子として産声をあげた」とも言われた生徒会のその後の歩みは、1955(昭和30)年代に入っていく東邦高校の歩みとともに順次紹介していくことにします。

仁田さん、新海さん、石原さんら東邦高校3回生たちの卒業アルバムには、生徒会執行部として会議を仕切る仁田さん、新海さんの姿がありました。さらにクラブ活動を紹介する新聞部のページには、仁田さんと新海さんも登場する1951(昭和26)年10月16日の「東邦新聞」5号の記事も紹介されていました。1951年に創刊された「東邦新聞」で、保存されているのは創立30周年記念号でもある1953年の13号以降です。

アルバムに掲載された5号紙面は、残念ながら、日付が「昭和12年10月16日」という誤植がありますが、1951年9月23日に旭丘高校で開催された全国高等学校新聞連盟(高新連)東海総局の第1回名古屋地方大会での熱い論戦の様子を紹介。「劈頭(へきとう)火を吐く本校代表の質問」の見出しで、新海(小島)さんが「93校に招待状を出したのに21校しか参加しておらず、どうしたら多数校が参加できるか論議すべき」という動議をめぐり、仁田さんも加わった東邦高校と旭丘高校との間で「十数回猛烈な激論が戦わされた」と報じられていました。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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