検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第46回

急増する生徒と変わる風景

1960

更新⽇:2018年12月21日

生徒数10年で3倍強に

鉄筋5階建ての2号館が完成した赤萩校舎(1960年)

中学校から高校への進学率は戦後、急激に伸び続けました。文部科学省の学校基本調査によると1950(昭和25)年度の42.5.%は1965(昭和40)年度に70.7%、1974(昭和49)年度には90.8%に達しました。

とりわけ、団塊世代ともいわれる第1次ベビーブーム世代(1947年~1949年生まれ)の中学生たちは1963年度から1965年度にかけて高校に押し寄せました。愛知県下の高校生の4割、名古屋市内の6割を収容している私立高校にとっては、受け入れ態勢の問題が突きつけられることになりました。

東邦高校志願者も増加の一途をたどりました。学園50年史によると、1957(昭和32)年度に志願者は1000人の大台を大きく突破し1422人。1962(昭和37)年度には2000人、1963(昭和38)年度には3000人突破と増え続け、1964(昭和39)年度には3903人と愛知県内では最高の志願者数を記録しました。

多くの高校で生徒収用数の増加が迫られました。東邦高校の在校生数も、1955年度に947人でしたが、1965年度には2985人と10年間で3倍強に膨れ上がっていきました。

東邦高校初の鉄筋コンクリート校舎である1号館(4階建て)が完成したのは1957(昭和32)年4月。1960(昭和35)年6月15日には屋上に「東邦学園前」のネオンサインも輝いた2号館(5階建て)が完成しました。

騒音の中での建設ラッシュ

進む地下鉄工事(1959年7月発行の東邦新聞32号より)

1958(昭和33)年4月入学の古橋徳一さん(名古屋市昭和区)や、大堀道之さん(知多市)ら12回生が入学当時には、栄から池下に伸びる地下鉄工事が始まっていました。運動場を横切って進む工事。「運動場が半分しか使えなくなりました。ただ、校庭端での工事でしたから、騒音はそれほど苦になりませんでした」と古橋さんは振り返ります。

50年史には、「運動場を斜めに横切って板囲いが行われ見るも無残な状況になった。栄~池下間延長工事であったが、本校付近は同時に行われる国鉄中央線立体交差と千種駅改装工事が重なって、沿線では最も大規模な工事の一つであった」と記されています。

新校舎建設、地下鉄工事、そして中央線千種駅の現在地への移転、複線化工事。東邦高校の周辺は建設ブームの様相を「東邦新聞」が伝えていました。

 

▽新校舎建設に着工 22号 =1956(昭和32)年11月29日

創立以来30余年、たくさんの先輩たちが学んできた現在の校舎は、毎年の生徒数の増加のため、その収容能力も限界に達したのと、校庭の南側が名古屋市高速度鉄道の敷地として収用されることに決まったこともあって、この機会に本格的な学園の統合拡充計画を立て、飛躍的発展を図るべく、かねてから関係者の手で構想が練られてきた。

学園の敷地としては現在地の他に、いくつかの候補地があげられ、理想的な学園としての条件を満たすために、あらゆる角度から検討が加えられた末、結局、現在の場所が最適地に選ばれ、ここに鉄筋コンクリート4階建て高層本建築を新築する構想がまとまり、すでにその第1期工事に着手した。

第1期工事は、鉄筋コンクリート4階建て300坪、総工費約2300万円、小原建設会社の手により、目下昼夜兼行で工事が進められ、完成予定は来春3月。

 

▽運動用地にかかる高速度地下鉄 27号=1958(昭和33)年1月25日

名古屋地下鉄が今、工事を進められているが、東邦高校の運動場もその用地にかかっているとのことで、市交通局に聞いてみた。

第2期工事(栄町~池下間)は昨年12月から行っているが、まだ本校の工事は始まらない。2期工事がすっかり終わってしまうのは順当にいって、(昭和)35年4月になる模様である。

工事は栄町から新栄町までは割合、邪魔な建物もなくスムーズにいくそうだが、新栄町から特に千種駅(本校の横に移される)付近は、地形が悪く、現在は中央線が通っているが、昔は川であって、千種橋を境に、東は地形が上昇し、橋の付近は非常なくぼみが出来ているので、多量の地下水がたまっているようで、全くの困難を極め、一番の山となるのが千種駅の工事とのことで、我々としてはあまりありがたくない話だ。

それにこの工事中は鉄板の打ち込み、土砂の運搬、エンジンの音で、相当の騒音が予想され、特に千種駅の下を通るので工事期間が長く見積もってある。それに、運動場に幅37m、両側に歩道がついて49mの弾丸道路ができることになるのだが、体操の時間などには大きな影響を及ぼすと見られる。

 

▽工事に伴う騒音 学園の周囲を観る 32号=1959(昭和34)年5月19日

地下鉄工事、中央線の複線化で工事ブームになり、これまで問題にならなかった騒音問題、道路不備等が大きくクローズアップされてきた。工事の進行状態は、地下鉄工事は今、池下~栄町間の工事で、本校の周囲はずい道(地下道)の工事に重点が置かれているということで、完全に完成するのは来年の3月末、全線開通は5月末とほとんど違わない。

又、中央線の複線化は、地下鉄工事の千種駅設置とタイアップして、前の城東病院の所にスマートな駅が建ち、その囲りが完全な立体交差の様式になるそうです。

 

▽学校側の不手際か? 校舎増築問題計どらず 33号=1959(昭和34)年7月21日

4階建ての鉄筋コンクリート校舎を建てたものの2000人を擁する東邦学園には通用しない。新館東にある日通倉庫の立ち退き問題も、巨額な補償金に学校側も首がしまる思い。何故、地下鉄工事に際しての運動場明け渡しの時、市側へ日通立ち退きに一役買ってもらわなかったが惜しまれる。

現在の東邦はあまりにも不潔であり、環境の悪いことは市内でも指折りと言わなくてはならない。もちろん校舎ばかりに気をとられ、教育内容が低下してはさらに困る。だから、現状からして、少なくても日通の立ち退きを早く解決し、2000人もの東邦生が、少なくとも清潔な教室で、勉学に励むことのできるようにしてもらいたい。

地下鉄開通で傘いらずの通学

地下鉄千種駅ホームの「東邦学園」案内プレート

東邦高校の通学アクセスに大きな変化をもたらしたのは1960(昭和35)年6月15日の地下鉄東山線の栄~池下間の開通でした。生徒たちは名古屋駅から4駅目の千種駅で下車し、地上に出ればもう東邦高校の運動場でした。

これまで知多市から名鉄電車で名古屋に出て、市電で20分以上かけて車道で下車して、赤萩校舎まで歩いて通学していた大堀さんは、「それはもうめちゃくちゃ便利になりましたよ」と振り返ります。「地下鉄駅から地上に出ると体育館の真ん前。体育館の中を通って教室に向かうと雨の日でも傘いらずでした」と語ります。

誕生したばかりの千種駅ホーム壁面には「東邦学園前」の案内プレートも掲げられ、東邦高校と東邦中学校の下車駅であることが乗降客にPRされました。

大堀さんによると、地下鉄駅千種駅構内にはパン屋もオープン。「ジャムとかクリームとか4種類くらい中から選んで塗ってもらえる食パンが大人気で、休み時間には地下鉄の上まで東邦高校の生徒たちの行列が続きました。こんなおいしいものがあったのかと思いました。毎日、きょうは何を塗ってもらおうかとわくわくして並んでいました」と大堀さんは懐かしそうでした。

東邦高校の通学アクサスの便利さは翌年さらにアップしました。国鉄(現在のJR)中央線千種駅が北に400mほど移転し、地下鉄と接続した新駅が1961(昭和36)年9月1日から開業を始めたのです。これによって東邦高校生たちの通学エリアは飛躍的に拡大され、名古屋市内の学校では群を抜く便利さとなりました。

 

東邦音楽部が先導した淑徳の星ヶ丘への移転行進

東邦高校音楽部に先導された淑徳生たち(淑徳60年史より)

地下鉄東山線の開通は、通勤、通学で画期的な便利さをもたらした一方で、愛知淑徳高校・中学校のように、予想もしなかった移転に迫られた学校もありました。

千種区池下町にあった愛知淑徳学園でも、東邦高校と同様に生徒徒急増期に対応して新校舎建設計画が進行中でした。『創立六十周年記念 愛知淑徳学園史』(以下、淑徳60年史)によると、学園校地が地下鉄東山線の車庫用地として名古屋市から買収計画に応じるよう求められたのは、第5期工事として鉄筋4階建て校舎の建設準備がほぼ終わった1957(昭和32)年5月のことでした。「まさに晴天の霹靂だった」と淑徳60年史は学園の衝撃を紹介しています。

学園では「百年の計」の判断で、池下校地を手放し、現在の星ヶ丘にある桜ヶ丘校地への移転を決断しました。学園では1948(昭和23)年に高等学校設置基準が制定された際、新制高校の認可条件として、生徒一人あたり70㎡の校地の確保が必要となったため、現在地である桜ヶ丘(千種区田代町瓶杁)に5万4596㎡の丘陵地を校地として購入していたからです。

東山線が池下駅まで開通する前年の1959(昭和34)年3月31日、学園では移転式が行われました。淑徳60年史によると、この日は「淑徳晴れ」と言われる上天気でした。小林素三郎校長に引率された生徒たちは、思い出の池下校舎を後にして、校旗を先頭に桜ヶ丘まで堂々の行進する移転式に臨みました。

移転式の行進隊列は60人近い東邦高校音楽部員たちが吹奏楽演奏をしながら先導し、愛知淑徳学園の新たな門出を祝いました。東邦高校にとって、パレード2日後の4月2日には18年ぶりの甲子園である第31回センバツ大会での初戦応援が迫っていましたが、部員たちは淑徳生たちと池下から星ヶ丘までの約4.5㎞の行進を先導しました。

 

蒸気機関車の煙が教室に

流れこむ黒煙(1963年10月発行の東邦新聞50号)

難航していた日通倉庫の明け渡し交渉が解決し1963年3月、待望の3号館が完成しました。5階建ての2号館東側に背を並べる形で3号館が完成したことで、赤萩校舎の木造校舎はほとんど姿を消していくことになりました。校舎と中央線との距離が接近したことで、新たな問題も起きました。黒煙や騒音問題です。

東邦新聞は中央線を走る蒸気機関車から教室に流れこむ煤煙問題も取り上げ、国鉄千種駅長にインタビューをしていました。SLファンにとっても興味深い内容です。

 

待ち遠しい中央線の電化 煙に悩まされる生徒 50号=1963(昭和38)年10月26日

煙いなあ、ああ臭い――。我々の教室でよく聞かれる言葉である。これは説明するまでもなく、皆さんよくご存じの本校東側を走る中央線の蒸気機関車からモクモク吐き出される煤煙である。このようなことは、東の風が吹いている時に起こる現象で、そのたびごとに窓際の生徒は立ち上がって窓を閉めに行く。その間、先生は授業を進めることが出来ないような状態である。

そこで千種駅ではこの煙に対して、どのような対策を立てているのか、国鉄中央線千種駅の駅長さんに聞いてみました。

――本校に煙が入ることについては国鉄の方では何か対策のようなものはないのでしょうか。

煙が授業中、教室などに充満して授業に差し支えがあるということは非常に申し訳ないと思っています。現在のところは、客車のディーゼル機関車を除いて、65台の列車は蒸気機関車なので、吐き出す煙が東の風によって、ほとんど東邦高校の方へ流れて行ってしまいます。

しかし、もうすぐ千種~大曾根間の貨物列車が全部、守山の方に行ってしまうため、この千種駅は自然、客車専用駅となり、蒸気機関車の量もグンと減る予定であります。完全な電化となる国鉄第3次5か年計画に基づき、昭和45、46年ごろになれば、煙もほとんど、見えなくなるでしょう。それに、来年3月(少し遅れるかも知れない)には、複線化が予定され、貨物車はサッポロビール~千種駅間の専用列車だけになるわけです。

また、来年には現在のプラットホームが千種橋の所まで延ばされて、今年の10月から着工予定の、錦通りの架道橋が出来上がれば、上り線の煙は絶対といっていいほど、東邦高校に迷惑はかからなくなるでしょう。

――本校から上がる煙を見ていますと、時々煙の量が違っていたりしますが、そういうことはどうでしょうか。

上り本線と下り本線の列車の煙を見てもらえれば分かるように、上り線の方が煙の排出量がずっと多いようです。それは、発車してからしばらく行った所が坂になっているため、発車する前から余分に石炭をたいていなければならないためです。その点、下り本戦の場合はほとんど無力でも坂を滑りおりて、後は平地ですから、それほど石炭を必要としないので、煙の量も自然少ないわけです。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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