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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第45回

新聞部OBの思い出メモと下出貞雄

1959

更新⽇:2018年12月6日

新聞部正顧問は下出校長

訪ソした下出校長帰国時の「思い出メモ」

東邦高校11回生(1960年卒)の山崎宗俊さん(愛知県大治町)にとっての高校時代は、新聞部とともに駆け抜けた3年間でした。2018年5月に喜寿(77歳)を迎えた山崎さんは高校2年生の孫娘に、「おじいちゃんは高校時代、どんなクラブ活動をしていたの」と聞かれたのをきっかけに、高校時代の思い出をメモとしてまとめました。

パソコン画面と向き合い、山崎さんが、よみがえる記憶の場面、場面を振り返って「思い出メモ」を作りながら再認識したのは、新聞部に入部して間もなく声をかけてもらった校長であり理事長だった下出貞雄の存在の大きさでした。

山崎さんは1957(昭和32)年4月に普通科に入学し新聞部に入部しました。この当時の東邦新聞は2ページ建てで、年に3回ほど発行していました。正顧問は下出校長で、副顧問が大橋彰教諭でした。

部員たちが書いた論説などの記事は、下出校長や大橋教諭が目を通しましたが、検閲というほど厳しいものではありませんでした。ところが、山崎さんが1年生の時に発行された24号(1957年7月8日)に掲載された「原水爆実験に思う」という生徒たちの意見を特集した記事で、山崎さんの記事に待ったがかかりました。「どちらかと言えば実験には賛成したいのです」という考えに、大橋教諭が、「これはまずいだろう」と声を上げたのです。

当時、原水爆実験は遠洋マグロ漁船第五福竜丸がアメリカの実験による〝死の灰〟を浴びたこともあり反対運動が高まっていました。東邦新聞では、原水爆実験について、3年生5人、2年生2人、1年生3人の意見を掲載しました。山崎さんを除く9人は実験に反対でしたが、山崎さんは、恐ろしい戦争をなくすには強い国防力を持つ国による秩序が必要ではといった趣旨の考えを書きました。

「これはいかんだろうなあ。校長の判断を仰がなければ」。困った顔をした大橋教諭は下出校長に判断を委ねました。下出校長は山崎さんの決意を確認するように、「君はこの記事をどうしても出したいんだろう」と声をかけました。「はい」と答える山崎さんに下出校長は「ならばしょうがないだろう。ただ、原水爆実験に対する世論を冷静に直視した特集記事だということが分かるようにまとめなさい」と注文をつけて掲載を認めました。

特集記事は「我々はこの世論をどう思うのか?」のサブ見出し付きで1面左肩を飾りました。山崎さんは、「全員同じ意見を並べるより、よく分からないなりにインパクトのある記事が読まれると思ったんです。下出校長はボツにするとか、こう直せとかについては一切言われませんでした。この特集記事は他校新聞部からも注目され、中日新聞でも紹介されるなど話題を呼んだ気がします」と振り返りました。

日ソ協会愛知県連理事長として訪ソ

「思い出メモ」のファイルを手に新聞部時代を語った山崎さん

山崎さんが作成した「思い出メモ」のファイルには、新聞部で取材した数々の思い出の場面が書き込まれていました。

2年生の時、山崎さんは新聞部長になりました。同級生で副部長だった冨田武彦さんとともに、下出校長から「東山に造ることになった総合運動場予定地を見せてやろう」と声をかけられ、新車のトヨペットクラウンに乗せてもらい、まだ山ばかりだった現在の平和が丘を案内してもらいました。東邦高校出身で大相撲の世界に飛び込んだ代官山関を取材するために、名古屋場所に合わせて、所属する春日野部屋を訪れて、横綱栃錦に歓待してもらったことも記念写真とともにメモに書き込まれました。

3年生春には、硬式野球部の戦後初の甲子園出場を取材。11月には九州での全国大会に出場した音楽部(吹奏楽部)を同行取材しました。

1959(昭和34)年6月3日、日ソ協会愛知県連合会理事長だった下出校長は、ソ日協会の招待で、ソ連・中国訪問旅行に出発しました。山崎さんは冨田さんとよくコンビを組んで取材をしましたが、下出校長の羽田空港での帰国取材は特に忘れられない体験でした。

日ソ協会愛知県連合会は、1957(昭和32)年10月8日、名古屋の丸栄ホテルで設立総会を開催しました。すでに同年6月には東京で日ソ協会が設立され、前年の1956年(昭和31年)に首相として日ソ国交回復を実現させた鳩山一郎が初代会長に就任していました。

同連合会発行の『愛知県日ソ親善運動三十年史』(1979年11月1日発行、以下30年史)によると、会長には徳川家第19代当主の徳川義親が、理事長には下出貞雄が就任しました。

下出県連理事長らの訪ソについて30年史は「ソ日協会より日ソ協会に対して、初めて6名の代表を招待するとの申し入れがあり、愛知県連からは下出理事長が代表に選ばれ、6月3日、神戸港より貨物船でナホトカに向かった。一行は国交回復後間もない勝手の分からないソ連で、入国手続きや乗物などにとまどいながらモスクワに着き、温かい歓迎を受け、グルジア共和国を訪問し、中国を経て7月14日帰国した」と記しています。

山崎さん、冨田さんは川畑真吉副校長に直訴して、羽田空港での帰国取材を敢行。東邦新聞33号(1959年7月21日)1面で帰国特集紙面を組みました。

帰国取材の部員に笑顔で「御苦労様」

下出校長の帰国を報じた東邦新聞33号

「人類の平和に貢献し帰国」「44日間の大旅行を終えて ソ中教育状況を視察」などの見出しが躍る特集紙面前文の一部です。

<我らが東邦高校校長、下出貞雄先生がソ日協会(外務省対外文化連絡国家委員会)からの招きでソビエトへ発たれてから丁度一か月半。去る7月14日、校長先生は日焼けした元気な顔で帰国された。我々東邦新聞部は18日の終業式に新聞発行を控え、切迫した気持ちになりながら、羽田空港に校長先生を迎えることになったのである――>

訪ソ団一行の帰国は予定時間より2時間半も早く羽田空港に降り立ちました。山崎さん、冨田さんはペンを走らせました。<陽に焼けた元気な顔で、片手に風呂敷包みを持った傑作なスタイルでタラップを降りてこられた。校長先生に対して我々は「御苦労様」とアイサツ。校長先生からも我々に「御苦労様」。我々も先生も喜びを顔に出さずにはいられなかった>

新橋の第一ホテルでの家族と一緒の食事に招かれた2人は、下出校長に、さっそく「44日間の訪問を終え、どんな点に利益があったのか」とインタビューで突っ込みました。下出校長は、「無駄と思ったことは一つもない。むしろ、見るもの全部が良く考えさせられた」と訪問の意義を熱く語りました。

 

 

「東京見物していきなさい」と5000円

就職内定についてのメモ。下は冨田さん(左)と

下出校長ら訪ソ団の視察は、ソ連のプロパガンダの一環としての招待だったのでしょう。モスクワ大学見学、フルフチョフ首相が演説した全ソ工業博覧会開会式への参加、スターリン・コルフォーズ農場視察などソ連側が用意したスケジュールに沿って行われました。モスクワでは戦時中に日本から逃避行した女優の岡田嘉子による詩人マヤコフスキー作品鑑賞もしました。

山崎さん、冨田さんのインタビューに下出校長はていねいに答え続けました。

「ソ連の工業は予想外に急速に進歩している。今や世界一の工業国となるのも遠い夢ではない。それだけに、学校系統も理工科が本格的で、校舎こそ本校と同様だが、中に設備されている機械たるや立派なもので生徒はすごく熱心」「訪れた時、学校は試験シーズンで、廊下に立ち、片手に本を持って勉強していた」「服装は自由だそうで、アロハシャツで授業を受け、マンボズボンを着用している者もチョイチョイ見られる」

インタビュー記事は、「彼らは戦争という恐ろしいものを良く理解し、他国との親善を図っている。まだ話せばいろいろあるが、祖国をいつも思い出し、あらゆることに対して、比較検討していた」という下出校長の旅行中の思いを紹介し締めくくられています。

インタビューを終えた山崎さん、冨田さんの労をねぎらうように、下出校長は2人に、「明日は東京見物をしてから帰りなさい」と5000円を渡しました。しかし、原稿の締め切りが迫っていました。お金を受け取ったものの2人は翌日、寄り道せずに名古屋に帰る列車に駆け込み、車内で原稿作りに追われました。もらった「東京見物代」は後日、校長室に返しに行きました。

「東京見物ができたのにもったいないと思われるかも知れませんが、初めて訪れた羽田空港では、不安いっぱいでした。緊張の連続の中での取材を通してたくさんの貴重な体験ができましたのでそれだけで十分満足でした」と山崎さんは振り返ります。

「思い出メモ」には、下出校長が、「帰国して初めて見た顔がうちの生徒とは。本当にうれしかったと、何度も言われた!」とも書き込まれていました。

普通科からの就職

編集長としての最後の東邦新聞に見入る山崎さん

東邦会名簿によると、1960(昭和35)年3月卒の11回生は630人。商業科が10クラス551人に対し、山崎さん、冨田さんらの普通科は2クラス79人だけでした。山崎さんらが入学する前年の1956(昭和31)年には、愛知県の高校入試が小学区制から大学区制に切り替えられました。名古屋市を含む尾張学区、三河学区内の高校をそれぞれ自由に受験できるようになりましたが、志望校受験に失敗し、2次募集で私立高校に入学する生徒たちも相次ぎました。実は山崎さん、冨田さんも県立高校不合格組でした。

普通科生の多くが大学に進み、冨田さんも愛知大学に進学しましたが、山崎さんは病気の母親を抱えた家庭の経済状況もあって進学を断念しました。普通科では商業科に比べ、就職指導が行き届いていなかったこともあり、心配した下出校長は山崎さんを呼び出しました。山崎さんの就職先探しが難航していることを知ると、「この人に、君のことを話してあるので訪ねなさい」と紹介状を渡しました。その縁で山崎さんは愛知マツダを訪れ、子会社として誕生したばかりのマツダオート名古屋に就職しました。

普通科なのでソロバンも出来ないし、簿記も出来ない山崎さんは、志願して営業の世界に飛び込みました。当時の車のセールスは大卒の仕事でしたが、山崎さんは新聞部で鍛えたフットワークを生かして、当時の目玉車種だった「マツダ・R360クーペ」の売り込みに打ち込みました。

庶民にとって、自家用車を持つことがあこがれでもあった時代。自動車会社の営業マンの訪問販売が大喜びで迎えられた時代だったそうです。契約が決まると、お祝いの食事や祝儀を用意して納車を待ちわびる家庭もあったといいます。東京6大学など有名大学卒の社員たちにまじって、山崎さんは販売実績を積み上げ、管理職、役員に上り詰めて、マツダ一筋の会社人生を終えました。

孫娘のために作成した「思い出メモ」には、「好きな人 故下出貞雄校長兼理事長」「下出校長先生(理事長)には感謝、感謝です」とも書き込まれていました。

(法人広報企画課・中村康生)

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