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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第103回

コラム⑰ 下出義雄の読書熱

1949

更新⽇:2025年3月6日

「裸と裸で語りたい」

『産業之日本』1949年9月号への寄稿

東邦学園の初代理事長で東邦商業学校校長を務めた下出義雄の著作などを集めた『下出義雄論説集成』の編纂作業が進められており、近く、風媒社(名古屋市)から発刊されます。編纂者は愛知東邦大学地域創造研究所の中部産業史研究部会メンバーだった森靖雄氏(研究所顧問)、朝井佐智子さん、真野素行氏です
下出義雄は戦後間もなく、大政翼賛会活動に関わったとして第一次公職追放を受けました。戦時下では大同製鋼社長、衆議院議員など多忙な日々を送りましたが、『下出義雄論説集成』には戦後、落ち着きを取り戻した日常生活の中で綴ったエッセーも収められています。『産業之日本』(名古屋経済研究所発行)1949年9月号に掲載された「裸の心を持つ人」という寄稿です。義雄はこの中で、文学への思い、かねてからの夢だった書店を開店したことも紹介しています。
<裸文学が終戦後の日本に煩乱(はんらん)した。その善悪は兎も角として世相の方向はそれによっても分かる。書をひもとくといふと妙に暑苦しい話になるが、私の生来の読書癖が嵩じて敗戰もまだ実感の生々しい時に大津町通に書店を開いた。自己の趣味に投じたというよりも、人を益する処の大きい、又美しい仕事だと考えたからである。その意味であらゆる方面の専門書籍を並べてみたが、いわゆる裸物だけはどうしても並べる気持にはならない。裸のもつ美しいものが出版されたら眞先に並べようと思つてゐる。
私の家は海辺にある。白砂青松でもないが、此の頃の暑さに、都会よりの避暑客がおしかける。居ながらにして避暑気分の味はえる私も達者である。海辺に豆を撒いた様な裸を見ていると、人間の最も美しい姿に会った様でうれしい。廣小路のあの綺羅を飾った濃い口紅と、白い顔よりも黒い裸の方が健康的でよろしい。人間は裸になった時が一番正直だといふ考へは六十の今になっても変わらない。
裸の人間と言っても着物を着ていない人ではない。裸の心を持った人である。暑い時には裸になる人が多いが、心の奥まで裸になる人は少ない。裸と裸で語り度い>

「大津書店」の開店

下出幸雄氏が書いた下出家所在地

下出義雄は「裸の心を持つ人」の中で、戦後すぐに名古屋市中区の大津町通に書店を開いたと書いています。朝井さんの、下出家関係者への聞き取りなどから、義雄は書店のほかに喫茶店も経営しいていたことが分かりました。
聞き取りをしたのは、下出紀子さん(義雄の長男貞雄の妻)、下出幸雄氏(義雄の弟隼吉の長男)。書店は松坂屋北側の大津通り沿いに開店した「大津書店」でした。1948年の電話帳にも記載があり、名古屋が空襲による焼野原から復興途上の1946、1947年ごろの開店と見られます。
幸雄氏の記憶によれば、書棚には人文系、社会科学系の専門書が目立ったといいます。「少し立ち読みをしたのが城山三郎です。名古屋電灯と名古屋電力のゴタゴタを書いたものが置いてありました」と語っています。
「全国書店名簿」(日本出版物小売業組合全国連合会発刊)の1955年版、1960年版に「大津書店」(名古屋市中区南大津通2-13)が掲載されていました。代表者は1955年版が吉田幸次郎、1960年版が下出貞雄になっています。貞雄は東邦商業学校が1948年に新制高校として再スタートした東邦高校の初代校長に26歳で就任。校長、理事長として1964年に病死するまで学園のかじ取りに邁進しました。
聞き取りで明らかになったのが「喫茶チャイルド」の存在でした。本を自由に手に入れることが出来るようになった義雄が、次に望んだのは本を静かに読める雰囲気でした。店内に流れていた音楽は主にクラシックで、壁には北川民治の絵画作品が多く飾られていました。芸術に囲まれて読書を楽しむ環境づくりを目指した「喫茶チャイルド」でした。

「東邦保育園」設立に備えた「喫茶チャイルド」

幸雄氏を招いた中産研部会(2016年9月)

「チャイルド」の名前には、貞雄が1950年に赤萩の東邦高校内に開設した「東邦保育園」の資金集めの目的もあったようです。
貞雄は上智大学の学生だった1946年当時、下出義雄の別邸や姉である榊文子(東邦学園短大第5代学長)家族が住んでいた知多市長浦で「青空幼稚園」と呼ばれた活動に関わっていました。『長浦のあゆみ』(1998年、長浦郷土誌作成委員会編)によると、長浦では当時、学徒動員から復員し、復学待機中だった貞雄、早稲田大生ら男子学生たちと、長浦に疎開で仮住まいしていた未婚女性ら約20人が「長浦友学会」という相互啓発グループを作り、社会活動や文化活動として「青空幼稚園」活動に取り組みました。
やがて貞雄らは復学し東京に戻り、青空幼稚園はカトリック長浦教会の併設幼児園に引き継がれましたが、貞雄の青空幼稚園との関わった体験が東邦保育園開園につながったと見られています。
幸雄氏は2016年9月23日、愛知東邦大学多目的会議室で開かれた地域創造研究所中部産業史研究部会の研究会に招かれました。朝井さんの司会で、下出隼吉の人物像をめぐって、榊直樹理事長や会員たちの質問に答えました。幸雄氏は7歳だった1931年5月15日に、父隼吉が34歳で死去したのに伴い、迎えにきた祖父下出民義とともに東京を去り、名古屋の南久屋小学校に転校しました。県立愛知工業専門学校(名古屋工業大学の前身)を卒業し、大同工業大学教授を務めました。
父親代わりでもあった下出義雄について、朝井さんが、「晩年はどんな様子でしたか」と尋ねると幸雄氏は「ほとんど公職から去り、わりと早く体が弱くなりました。あまり話はしていません」と記憶をたどりました。幸雄氏は研究会出席の翌年2017年10月18日、逝去しました。93歳でした。

部屋からあふれた所蔵本

長浦を探訪した中産研部会(2018年5月)

下出義雄が大変な読書家だったという思い出を、義雄が亡くなって26年後の1984年、長女である榊文子が東邦短大後援会誌「邦苑」5号(1984年3月発行)に寄稿していました。
<若いころ、学者を志した父は大変な読書家であったが、はたから見ると道楽としか思えぬほどよく本を買った。戦災で焼けた家の二階は元来座敷となるべき幾部屋分を、畳も入れず、廊下も含めて所狭しと並んだ書棚や、入りきらずに積んである雑誌や資料などでふさがり、まるで倉庫のようであった。
後年、知多半島の長浦に移った機会に、小さいながらも「書庫」と称する英国製の洒落たコンクリート造りの建物ができて、書物は大方そこに収まり、あるじの書斎もその中にあったので、もし健康で余生を送ることができたなら、さぞ読書を楽しんだことであろう。
本好きの父は大正の初期、東京で叔父隼吉と下出書店という本屋を作った。記憶は確かでないが、何でも岩波書店の向こうをはって、価値はあるけれども採算のとれる見込みがないため、引き受け手のないような類いのものを進んで出版するという意欲満々の出だしであったらしいが、間もなく当時の金額で1万円という赤字を出して、出資者である祖父(下出民義)の一喝で、たちまち廃業という始末になった。
短い期間に発行されたもののうち幾冊かを私は父の書棚で見たことがあるが、経済や思想関係のものが殆どの中に、珍しく文芸作品として林芙美子の一冊を発見して、彼女が世に出る一役を下出書店が買っていたことを興味深く感じたことをおぼえている>
知多市長浦地区は1930年9月に愛知電気鉄道(現在の名鉄)常滑線長浦駅開業に伴い、別荘地として開発されました。義雄が別邸を持ったのは1931年から1953年ごろと言われています。岐阜から移築した茅葺き木造家屋、土蔵の他に3軒の家屋から成り立っていました。
榊文子と夫の米一郎、子息3人の榊家は戦時中の疎開奨励により1944年4月から1953年12月まで名古屋から長浦に転居していました。

「好きなことが出来る」幸福感

長浦の別邸での下出義雄

朝井さんは地域創造研究所の研究叢書29号『下出義雄の社会活動とその背景』(2018年3月)で、「下出義雄の読書熱~大津書店と喫茶チャイルド」というコラム記事を書いています。義雄が大正期、東京で「下出書店」経営した経緯を調べてきた朝井さんは、「下出書店経営後は、実業畑のみを歩んできた義雄なので、書物への情熱は冷めてしまったのだと感じていた。公職追放前後に、大半の職から離れたあとに、義雄が挑戦したこと、それが書店を経営することであったということは、下出書店を研究してきた身としては少し嬉しくなった」と書き出しています。コラム続きます。
<当初は義雄が本屋の店頭に立つこともあったようである。店番などしたことがない義雄が、慣れないお釣りを数え、若い女性に本を手渡す姿を想像すると微笑ましく感じてしまう。もちろん、義雄が経理や収支に向いている訳ではなく、父・民義のところに出入りしていた呉服屋の番頭に店のほとんどを任せることで、店番からは解放されたようである。商才に長けた人で、とても信頼して店を任せることができたようである。番頭が亡くなった後、朝子女史(義雄の義理の妹)や貞雄氏(長男)が店番をし、最終的には東邦商業の卒業生に番頭として仕事をお願いすることによって、経営を回していたようである>
終戦によって、多くの要職の重圧から解放された下出義雄。朝井さんは、義雄の大津書店、喫茶チャイルド経営について、「肩の荷がおり、やっと好きだった本の世界に浸れる。今度こそ自分の好きなことが出来るという幸福感を味わったのではないか。喫茶チャイルドで一杯のコーヒーと音楽を楽しむ、そんな穏やかなひとときこそ、下出義雄のあこがれだったのではないか」と話しています。

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