語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス
第102回
戦争と球児たち③
1945
更新⽇:2025年1月27日
プロ野球戦没者「鎮魂の碑」に刻まれた東邦商業出身の2人

東京ドームが建設される前の場所にあった後楽園球場脇に、「鎮魂の碑」が建立されたのは1981年4月でした。1988年3月、東京ドーム完成にともない、碑は東京ドーム脇の現在地(21番ゲート前)に移設されました。戦場に散ったプロ野球選手たちを悼むため、鈴木龍二セ・リーグ会長(当時)が、下田武三コミッショナー(同)をはじめ有志たちの協力を得て建立しました。
刻まれている戦死者名は76人ですが、東邦商業出身の2人の名前もあります。岡田福吉(黒鷲、大和)と前川正義(阪神)です。岡田は一宮第二小学校出身。東邦商業では1934、1935,
1936年の甲子園選抜大会に出場しました。岡田は早稲田大を経て1940年に黒鷲に入団。同年末に1回目の召集で2年間の軍隊生活の後、1943年に球団名を継いだ大和軍に復帰しました。しかし、同年シーズン終了後に2回目の召集となり、1944年12月21日、中国北部で戦病死しました。享年27でした。
前川は東邦商業1941年優勝メンバーで、阪神に入団した1942年、シーズン終了を待たずに召集されました。正確な没年月日、死没場所は不明です。
碑には3度の出征で戦死した沢村栄治(巨人)の名もあります。沢村も出場した第11回選抜大会決勝で東邦商業と対戦した浪華商のエース納家米吉(法政大、南海)、戦前最後となった1941年第18回選抜大会決勝で東邦商に立ち向かった一宮中のエース林安夫(朝日)、そして、信州まで遠征してきた東邦商と戦った小諸商・渡辺静の名前もありました。
学生野球「戦没野球人」にも4人の東邦出身者

東京ドーム内の野球殿堂博物館入り口にある「戦没野球人」モニュメントには167人の名前が掲げられています。中等学校の選抜大会(春)、選手権大会(夏)出場、大学リーグ戦出場(東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟、旧関西六大学野球連盟、旧関西学生野球連盟)、社会人の都市対抗野球大会出場の戦没者たちです。
東邦商業球児だった4人の名前もあります。出身大学が戦死を確認した河瀬幸介(慶応大)、池田一夫、長坂信一、服部一郎(いずれも法政大)です。河瀨、池田、長坂は1934年の第11回選抜大会出場メンバーで、プロ野球戦没者の岡田福吉とも一緒にプレーしました。服部は2回目優勝の第16回大会(1939年)の二塁手でした。
河瀨は慶応大卒業後間もなく陸軍に入隊し、高射砲兵として満州からニューギニアに転戦し1944年11月に戦死しました。モニュメントに名前はありませんが、河瀨とともに、第11回選抜大会で東邦のエースだった立谷順市も専修大学に進み、東都大学リーグで活躍。1943年、卒業とともに名古屋の東邦ガスに入社し応召。1944年3月28日、南方戦線のブーゲンビル島で戦死しました。立谷の実弟である立谷唯夫さんが、東邦野球部史に、兄への思いを寄稿しています。
立谷は淡路島の志筑尋常高等小学校(現在の淡路市立志筑小学校)出身。野球部投手として全国少年野球大会(京都)で準優勝し、東邦商業に入学しました。東邦ガスから兵庫県の篠山連隊に入隊し、熊本の予備士官学校を卒業。南方に出征前、淡路市の伊弉諾尊(いざなぎ)神宮の夫婦楠の下で最後の記念写真を撮りました。シャッターを押したのが唯夫さんでした。唯夫さんは この時の胸中を「淡路祖霊会報」(1961年4月21日)に寄稿しています。
< 陸軍見習士官、堂々たる凛々しいスポーツマンの面影躍如、この希有の野球青年、前途洋々たる身を以って、遠くブーゲン島のジャングルの中に将校斥候として戦い散華する。無常なる哉。愛惜の念肺腑をえぐる。英魂永に後を継ぐ郷土の青少年の上に御加護賜らんことを>
原爆の犠牲になった戦前最後の野球部員

東邦商業野球部の戦前(1945年8月15日前)最後の部員が広島に投下された原子爆弾の犠牲になっていました。部員名簿に19回生(繰り上げにより1945年3月に4年生として卒業)として名前が残る堀江宏です。東邦商業の生徒たちが勤労動員されていた1944年12月13日、三菱重工名古屋発動機製作所では堀江と同じ19回生17人が空襲の犠牲になりました。19回生同期会である「東邦辰巳会」発行の文集『思い出』に、堀江の写真が載っていました。写真の下には「野球部 堀江宏君(昭和20年8月6日、特幹兵として兵役勤務中、広島にて原爆死)」という短い説明文がありました。
「東邦学園50年史」は、戦争末期の動きを「青少年の軍人志願要請」として、「終戦に先立つことわずか3か月前の20年(1945年)5月19日に4名の生徒が海軍特別幹部練習生として大竹海兵団に入隊しているのは、当時の戦局の緊迫した状況を示す一つの印象的な記録である」と書かれています。
文献資料によると、「海軍特別幹部練習生」の教育機関で、広島県大竹町(現在の大竹市の一部)にあった大竹海兵団では、練習兵として第1期600人(1942年9月1日~1943年7月1日)、第2期800人(1943年7月1日~1944年5月10日)、第3期940人(1944年5月25日~1945年4月15日)、第4期940人(1945年5月25日~。在団教育中に終戦)の計3280人が教育を受けました。堀江は3期もしくは4期の練習兵だったと思われます。
名古屋市出身の作家城山三郎は同人誌に書いた戦争小説『生命の歌』を一般誌に掲載するにあたり、自身が特別幹部練習生だったことについて書いています。
<昭和20年の春、海軍特別幹部練習生という制度が発足、全国から16、17歳の若者が大量に集められた。海軍の中堅幹部を養成するとの名目であったが、あとから考えれば、航空機と艦艇のほとんどを失っていた当時の海軍に、大量の「中堅幹部」など必要なかった。実体は、本土決戦用に若い特攻要員を集めておく、ということであった。服装その他は予科練(飛行予科練習生)とほぼ同じ。ただし、訓練課程はかなり凝縮し、一種の促成栽培となった>(光文社『生命の歌』、常盤新平氏の解説より)
東邦商業19回生の入学者は296人で卒業生は224人。東邦会卒業者名簿(1998年発行)には、堀江宏の名前が「永眠欄」の中にありました。
2024年12月10日、東邦高校中庭では80年前の空襲で犠牲になった19回生らを悼む「慰霊の日」献花式が行われました。東邦辰巳会会員では唯一参列した岡島貞一さん(名古屋市西区)は、「堀江宏」の名前を知りませんでした。1クラス60人弱で5クラスあり、学年で300人近い同期生たち。ラグビー部員だった岡島さんと野球部員だった堀江が交わる機会はなかったようです。1927年11月1日生まれで、病気で1学年遅れた岡島さんは97歳になりました。
初代野球部長の追悼

東邦野球部史には1934年の第11回選抜大会優勝の記念写真が収められています。前列左2人目から野球部長隅山馨、副校長の下出義雄、校主下出民義。中列左端が立谷、右端が優勝旗を手にした河瀨、後列左端が岡田、1人おいて長坂、右端が池田です。
東邦野球部OB物故者たちの追悼会が、OB有志たちによって1967年6月11日に営まれました。初代野球部長だった隅山馨(校長、東邦短大学長などを歴任し1984年没)は、ともに東邦野球の黄金時代を作りあげた初代理事長である下出義雄の遺品の巻紙に書き上げた追悼文を、万感の思いを込めて読み上げました。(抜粋)
<諸君はわが東邦野球部が発足して以来、選手又は補欠選手として本校のモットーたる真面目そのままに、春の光に背き、秋の紅葉を余所に、火の出るような猛練習を続け、数々の大会に優勝の誉を勝ち取ったのみならず、春の甲子園大会に於いては三回にわたり、全国制覇をしてわが東邦の名を全国に轟かす大きな役割を果たされたのであります。誠に諸君の功績は偉大であり、その技術とスポーツマンスプリットは永久にわが国の球史を飾るものであります。
然るに諸君は痛ましくも或いは病に倒れ、或いは戦場に花と散って、今は空しく幽明境を異にしておるのであります。嗚呼悲しいかな私は諸君の一人一人に尽きぬ思い出があります。また諸君の死につき、私は責任の一斑を感じて反省に苦しんでいるのであります。諸君の霊よ、私たちのこの悲しき追悼の誠を受けとらえたまえ。又、東邦選手時代のあの華やかなりし優勝の思い出にしばし沈ってくれたまえ。私はここに衷心より諸君の死を悼み、冥福を祈ってやみません>
捕虜収容所でのプレーボール

小諸商業から朝日軍に入団し招集された渡辺静は、1945年6月6日に出撃、沖縄の空に散りました。「白球にかけた青春」には、小諸商業野球部時代の球友代表として丸茂秀雄さんが思い出を寄稿していますが、丸茂さんはこの中で、終戦時に中国の捕虜収容所で再会した東邦商業出身の玉置玉一との奇跡的な出会いを書いています。
<昭和20年8月15日、私は北支で終戦。鄭州の収容所にいたとき、捕虜の身でありながら思いもかけぬボールを握ることになりました。大隊対抗の軟式野球戦だったのです。私の所属する山砲隊は連戦連勝、決勝戦で高射砲隊と相対することになりました。ところが、その高射砲隊の投手が、あの東邦の名投手玉置君(戦後プロ入り、現在会社経営)。実に4年半ぶりの再会でした。
試合は一進一退。1点を争う接戦でしたが、結果は玉置君の高射砲隊に凱歌があがりました。だが、敗れたとはいえ、実にさわやかな気持ちでした。好きな野球がまた戻ってきた、その喜びでいっぱいでした。
復員後、渡辺君が沖縄で特攻隊として戦死したとの知らせを聞きました。いまでもあの東邦戦を思い出すたびに、いまは亡き渡辺君がその脳裏を離れません。好漢惜しむらくは、戦後のプロ野球の担い手として活躍してほしかったです>
× × ×
東邦商業が甲子園3連覇を飾った1934年から1941年は東邦野球の黄金時代とも呼ばれました。一方でこの時代には「職業野球」が生まれ、元東邦球児たちも加わってプロ野球の礎が築かれていきました。しかし、戦争は拡大の一途をたどり悲劇的結末を迎えました。戦後80年。改めて犠牲になられた元東邦球児の方々のご冥福をお祈りします。合掌。