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TOHO
INTERVIEW

2015.09.10

【第10回】風化させたくない東邦商業20人の戦災悲劇。同じ防空壕で6日前には東南海地震に遭遇

東邦辰巳会代表

岡島貞一さん

東邦商業学校1945年3月卒

岡島貞一(おかじまさだかず)

名古屋市西区出身。終戦直前の1945年3月、東邦商業学校を1年繰り上げで卒業。豊橋市の愛知大学を卒業後、名古屋の繊維会社に勤務。同期生が他界し少なくなるなか2014年から東邦辰巳会代表。87歳。

 太平洋戦争末期の1944年12月13日、三菱重工名古屋発動機製作所の大幸工場で、勤労動員中だった東邦商業学校の生徒・教員の計20人を含む300余人が空襲の犠牲になりました。東邦商業の生徒たちは1941年4月に入学した4年生が中心でした。同期生たちが集う東邦辰巳会代表の岡島貞一さん(第19回卒業生)にお聞きしました。

――「東邦辰巳会」とは、同期生の皆さんが、辰年(昭和3=1928年)生まれと巳年(昭和4=1929年)生まれであることに由来するわけですね。

 ただ、私は卯年(昭和2=1927年)生まれです。小学校1年生の時に大病し、1年遅れました。地元である名古屋市西区の上宿(かみじゅく)尋常小学校(現在の名古屋市立城西小学校)を6年で卒業して、昭和16(1941)年に13歳で東邦高校の前身である東邦商業学校に入学しました。学校は東区赤萩町にあり、中央線千種駅の近くでした。春日井とか多治見とか中央線沿線からも通学していました。2年生からは学校から4km以内は徒歩厳守になりましたが、ラグビー部の練習が八事のグラウンドであり、自転車利用を認めてもらいました。

――入学した1941年は、12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった年ですね。

 そうです。2年生になると空襲警報が出されようになり、1942年4月18日には名古屋が初めて米軍の空襲を受けました。飛来したB25 が名古屋城近くに爆弾を落としたのです。授業中、市役所の方向からドン、ドンという高射砲の発射音が聞こえてきました。「何だろう」「演習をしているのだろうか」とみんな不安になりました。自転車での帰り道、市役所付近までくると、すぐ北側の国立病院(現在の名古屋医療センター)付近が燃え上がっており騒然としていました。その後、激しさを増していく名古屋空襲の始まりでした。

――戦局の悪化とともに勤労動員された生徒たちの悲劇も相次ぎました。東邦商業でも1944年12月13日、東区大幸町にあった三菱重工名古屋発動機製作所大幸工場で生徒18人と教師2人が空襲で犠牲になりました。

 犠牲になったのは私たち4年生の仲間たちが中心です。私たちは3年生の時から勤労奉仕に駆り出され、勉強どころではなくなっていました。港区で田植えもしましたし、造兵廠(しょう)と呼ばれるあちこちの兵器工場や飛行場造りにも動員されました。東邦商業の恩師2人を含めた20人が犠牲になった三菱重工は現在のナゴヤドーム付近にあり、飛行機エンジンを製造していました。東邦商業のほか八高生や県立愛知工業学校生など他校からも多くの生徒たちが動員されており、空襲での犠牲者は300人を超しました。昼夜交代勤務で、この日私は夜勤(午後5時から午前7時まで)でしたので、空襲があった昼前は家で寝入っていました。夕方、工場に入ると食堂には棺がいっぱい並んでいて、あちこちの木には、爆風のすさまじさを物語るように作業衣が引っかかっていました。やがて警報が鳴り響き、矢田川の方に逃げました。軍需工場ということもあり、情報が管理され、級友たちの何人が犠牲になったのか分かりませんでした。

――同級生は何人くらいいたのですか。

 学年は5クラスあり、1クラス60人弱でしたから学年では300人近くいました。犠牲になった級友や恩師の名前は、東邦高校校庭の「平和の碑」の隣に立てられた慰霊碑に刻まれていますが、近所同士で仲の良かった仲間が何人もいます。家が砂糖屋さんだとかで、卒業したら家業を継ぐつもりだった級友も多かった。残されたクラス単位の集合写真の、ゲートル姿のまだあどけない一人ひとりの顔を追うたびに胸が痛みます。あの日、私が昼の勤務でしたら、慰霊碑には私の名前も刻まれていたかも知れません。

――空襲6日前の12月7日には、「隠された震災」とも言われた東南海地震が発生しています。三重県尾鷲市沖を震源としたマグチュード7.9、最大震度6と言われる巨大地震で、死者・行方不明者1223人が出たにも関わらず情報は公にされませんでした。

 私も三菱で勤労奉仕中にその大地震に遭遇しました。旋盤で飛行機部品を削る作業中に頭上の電線が大きく揺れ続け、出荷前のプロペラシャフト製品が音を立ててバタバタと倒れていきました。警報が鳴り響く中を級友たちと防空壕に飛び込みました。防空壕の中で、「これが空襲だったら大変だな」と励まし合っていました。それから6日後、まさか同じ場所で、300人を超す尊い命が奪われる悲劇が訪れるとは夢にも思いませんでした。

――戦後70年は岡島さんたちにとって、東邦学園から巣立って70年でもあります。愛知東邦大学の学生たちに学園OBとしてメッセージをお願いします。

 大学の歴史はまだ14年ですが東邦学園としてのルーツは同じです。両親や親族が東邦学園出身者だという皆さんもおられるのではないでしょうか。私たちが東邦商業学校の生徒だったころ、教室での会話といえば、誰々が予科練に志願したとか戦争の話ばかりでした。勉強どころではなかった私たちの体験は二度とあってはならないことです。学生の皆さんにお願いしたいのは、機会がありましたら、ぜひ東邦高校校庭の「平和の碑」を訪れてみてほしいことです。「1944年12月13日」の悲劇を風化させてはならないと思います。

東邦高校校庭にある「平和の碑(いしぶみ)」を訪れた岡島さん

「東南海地震の情報は全く入って来ませんでした」と語る岡島さん

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