検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第38回

東邦保育園児の歓声が聞こえた 

1950

更新⽇:2018年8月10日

高校生と園児たち

東邦高校の運動会で遊戯を楽しむ園児たち(1953年アルバム)

東邦高校4回生の後藤正人さん(清須市)が入学したのは1950(昭和25)年4月ですが、5月には、赤萩校舎の一角に「東邦保育園」が開園しました。

後藤さんの卒業アルバム(1953年)には、運動会で、高校生たちに見守られながら輪になって遊戯を楽しむ園児たちの写真が掲載されています。

東邦保育園は開園から9年後の1959(昭和34)年3月に閉園しますが、保育園児が参加する運動会はそれまでずっと続きました。1957(昭和32)年11月4日付「東邦新聞」は、10月31日に開催された運動会の記事の中で、「大男に混じって保育園児による遊戯、球入れもなかなかの色添えであった」と紹介しています。

「借り物競争」では園児を一人連れてきて一緒に走る、園児から帽子を借りてくる、保母さんと手をつないで走るなどのプログラムも組まれ、校庭は爆笑と歓声に包まれました。

後藤さんは、「東邦保育園は、高校生や中学生たちの教室からは離れた校舎に設けられていて、生徒たちが日常的に園児と接することはなかったが、園長代理のような男性職員がいたような気がする」と記憶をたどってくれました。

下出貞雄が語った保育園の意義

運動会で訓示する下出貞雄校長(1955年アルバム)

東邦保育園は東京の「民主保育連盟」の補助を得て開設されました。「民主保育連盟」は、敗戦直後の1946(昭和21)年10月、荒廃した焼け跡の中から、新しい保育施設をつくることを目的に、「婦人之友」記者などを務めた羽仁説子を代表に組織されました。

連盟規約では、「目的」として、「乳幼児を完全に守り、正しく教育するに必要な新しい保育施設を作り広めることに務め、保育にあたるものの教養を高め、その社会的地位を守ることを目的とする」と宣言しました。

連盟機関紙「民主保育ニュース」16号には、「地方の動き」として、神奈川、山梨とともに名古屋で開園して間もない東邦保育園の動きが掲載されていました。

<東邦高等学校の一部を開放して、東邦保育園が5月に開設された時、人々はいぶかった。なぜ幼稚園にしないのかと。県教育委員である園長S氏は、「まず、幼稚園と保育園の違いを分からせることが目下の重要な仕事ですよ」と言われる――>

「S氏」と紹介された園長とは下出貞雄校長のことです。貞雄は、昔からのしきたりが古い名古屋では、保育の内容でも厳しいしつけが求められること、家庭の負担が大きい幼稚園に比べて、保育園は、経済的困窮者が行くところという目で見られていることを指摘。子どもを保育園に預けて女性が働くことがまだまだタブー視されている中で、まず、そうした偏見から変えて行くことこそが重要で、そこに東邦保育園を開園した意義があることを訴えていました。

記事は、東邦保育園開園にあたっては、東京都北区の労組が主体となった「労働者クラブ保育所」から主任保母として岩本愛子さんが転出してきたこと、岩本さんが、早くも名古屋弁を覚えて「新しい発展に苦心している」ことも紹介されています。

定員の120%に及んだ措置児

1952年アルバムにも収められていた運動会の園児たち

岩本さんはその後結婚し、出産のために東邦保育園を退職しました。代わって1952(昭和27)年5月から、主事(園長代理)には下出貞雄の求めで、佐藤宗夫さんが就任しました。後藤さんが記憶していた「園長代理のような男性職員」とは、この年28歳の佐藤さんのことでした。

佐藤さんは後に伴侶となった保母の操さんと一緒に、東邦保育園の運営に全力投球しました。佐藤さんの著書『ほほえみにつつまれて~佐藤操追悼集~』(1985、メルヘンハウス出版部)には、東邦保育園が果たした、名古屋の保育運動における先駆的な取り組みの数々が紹介されています。

この当時は、市町村が措置(行政処分)として、保育に欠ける児童の入所を決定する仕組みでした。東邦保育園(東邦高校)は、交通アクセスの良い千種橋のそばにあり、福祉事務所から懇願される形で、東、千種、中の3区から措置委託された児童が定員の120%に達するほどでした。

母親たちが働かなくては生活が苦しい時代。福祉事務所に保育所入所を申し込みに行き、「定員に空きがない」と断られると、「働かなければ食べて行けないから」と子どもを置いていく母親もいました。福祉事務所からは「預かってほしい。措置委託するから」という依頼が相次ぎ、受け入れは定員の60%ぐらいという時代にその倍も受け入れることになったのです。

佐藤さんが赴任した当時の東邦保育園では、乳幼児用の施設がなかったため、保護者会は公立保育園開設運動を進めていました。保護者の要望を受けて名古屋市への陳情が続けられ、市立東保育園が開園したのは1952年8月。公立の東保育園が出来たことで、低所得層の措置児を中心とした東邦保育園児の3分の1ほどが、公的援助が受けられる東保育園に移りました。東邦保育園では名古屋では初の長時間保育も開始されました。

名古屋の保育運動の先達として

綱引きをする園児たちと見守る下出サダ(下出義雄夫人)

佐藤さんは、私立保育園の団体では全国初となる名古屋私立保育連盟(私保連)の組織化も実現させました。下出貞雄から、「幼稚園は私学協会があって団結しているのに、保育園は団体を持たないから助成されない。保育園の団体を作ってはどうか」との助言を得たのがきっかでした。下出貞雄は私保連幹部となる人たちを説得してくれ、結成式ではその必要意義を説いてくれました。

佐藤さんは全国組織(後の全国私立保育園連盟)作りにも奔走し、初代組織部長に就任。操さんも、東区の保母会の結成、名古屋私保連保母会結成の中心となりました。

『ほほえみにつつまれて』の中で佐藤さんは、1959年3月に閉園した東邦保育園について、「名古屋の保育運動の先達としての役目を充分果たして幕を閉じた」と振り返っています。そして、「私たち夫婦が東邦保育園で学んだものは保育運動であったし、新しい保育をめざしての保育内容の芽生えでした。下出さんや東邦保育園の存在がなかったら、私たち夫婦の人生はそれぞれ変わっていたはずです」「東邦時代は、下出さんから託された園を精一杯守り通して来た私たち夫婦の人生の輝かしき1ページでもありました」と記しています。

園児たちが「東邦保育園」を誇りに思う時が必ず来る

運動会は東邦高校の名物イベントでした(1955年アルバム)

『ほほえみにつつまれて』には、東邦保育園の元保母さんたちが、がんのため56歳で生涯を終えた操さんの死を悼みつつ、東邦保育園時代の思い出を寄稿しています。その抜粋(要旨)です。

▽未熟な保母がほとんどだった東邦保育園に、ベテランの保育者として赴任して来られた「こんちゃん」(操さんの旧姓が近藤)を私たちは待ちかまえるように迎えたことを覚えています。リズミカルに弾きこなすオルガン伴奏、スケールの大きい遊戯の誘導と広がり、子どもたちに豊かな感動を起こさせる紙芝居の読み聞かせ。子どもたちの感情を機敏に捉えて発展させる保育指導。その見事な保育技術を、私は吸収したいと努力しつつ、良き師を得たと感謝しておりました。

▽真夏の炎天下、野外で公開保育をしながら保育所作りの活動を、東邦保育園の保母たちが頑張ったことも忘れる事ができない実践行動でした。午前中の保育をすませ、東区から港区の大手まで駆けつけ、テントを張って臨時保育所を開設。タンバリンやカスタネット、鈴を鳴らしながら子どもたちを集め回りました。こうして地域に保育所の必要性を訴えていきました。

▽東邦保育園は東邦高校内にあって、校長先生が園長先生でした。保母は8人で、その中5人は学校の正面玄関を左にいった小さな部屋を借りていました。真ん中に机を置いて、回りにみんなが座ると一杯になるような狭い所だったのですが、ガスが来ていたので其処で食事を作ることができました。寝るのは用務員室の2階の部屋でした。みんな「園児たちが、成長して、東邦保育園を卒業した事を誇りに思う時が必ず来る」と本気で思っていました。

×    ×    ×

東邦保育園の閉園が決まった時、下出貞雄は佐藤さんに、東邦高校の事務局職員としてのポストを用意しましたが、佐藤さんは辞退し、操さんととともに中川区に保育園(「みどり子どもセンター」)を開園しました。1986(昭和61)年には操さんの遺志をついで、その跡地に「みどり子ども図書館」を開園し2001年からは講演活動などで、絵本の楽しさを語り続けて生涯を終えました。

東邦保育園は、女性が安心して働ける保育環境を整えようという下出貞雄の「パイオニア魂」の実践でもありました。そして下出貞雄は、東邦保育園を去った佐藤さんを、「小さくても教育経営者」と喜び、物心両面で応援しました。

(法人広報企画課・中村康生)

 

この連載をお読みになってのご感想、情報の提供をお待ちしております。

法人広報企画課までお寄せください。

koho@aichi-toho.ac.jp

 

一覧に戻る

学校法人 東邦学園

〒465-8515
愛知県名古屋市名東区平和が丘三丁目11番地
TEL:052-782-1241(代表)