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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第47回

伊勢湾台風と甲子園連続出場

1959

更新⽇:2019年1月10日

5000人超す戦後最多の犠牲者

暴風のため側壁がはがれ飛んだ東邦高校体育館

下出貞雄校長がソ連邦訪問を終えて帰国してから2か月余が過ぎた1959 (昭和34)年9月26日、超大型台風15号(伊勢湾台風)が和歌山県潮岬に上陸し、伊勢湾岸を襲いました。上陸が名古屋港満潮時間とほぼ重なったことで、すさまじい暴風雨とともに3mを超す高潮が押し寄せました。死者・行方不明者は5098人に及び、1995(平成7)年1月17日に阪神・淡路大震災が発生するまで、第2次世界大戦後の自然災害では最多の犠牲者となりました。幸い東邦高校からの犠牲者はいなかったものの恐怖と向き合う体験をした生徒たちも少なくありませんでした。

商業科2年生で硬式野球部員だった久野耕平さん(12回生)の自宅は知多郡上野町名和新屋敷(現在は東海市)の天白川左岸にありました。右岸は名古屋市南区です。深夜、天白川は伊勢湾に近い方から土手が決壊し家屋が次々に水にのまれていきました。

「地区には70軒ほどの家屋がありました。私の家のように堤防に接していた家は何とか無事でしたが、堤防土手から離れて建っていた家が流され70人近くが犠牲になりました」と久野さんは声を落としました。

2階建ての久野さんの家も階段の最上段まで水につかりましたが、かろうじて2階浸水は免れ両親や弟ら家族7人は無事でした。2階から土手にはしごを渡しての出入りとなりましたが、家が大きかったこともあり、親戚たちが次々に避難してきました。家族も含めて17人での避難生活が始まりました。

干潮になれば水は引くものの、満潮になれば水があふれてくる。水浸し状態は天白川の堤防が閉まるまでずっと続きました。電車は約1週間後に一部動き始めたものの完全復旧ではありませんでした。翌春の甲子園センバツ大会につながる秋季県大会はすでに9月24日に開始されていました。大会がいつ再開されるかは分からいものの、久野さんは、前年に開設された東山総合運動場の管理事務所(合宿所)に寄宿させてもらい、朝はここから東区赤萩町の東邦高校への通学を続けました。

屍の被災地を自転車で学校へ

斜線が浸水地帯(生徒会誌『東邦』2号の特集記事より)

伊勢湾台風が襲来した9月26日は土曜日でした。翌27日の日曜日、赤萩校舎には下出校長を始め教職員が続々と集まってきました。名古屋市南部を中心に被害の甚大さが判明してきました。週明けの28、29日は臨時休校とすることが決まりました。

久野さんと同じ商業科2年生だった大堀道之さんの自宅も伊勢湾が目の前に広がる知多市にありました。海辺の家屋は壊滅状態で、大堀さんの家もあと100mのところまで水が迫りましたが、かろうじて難を逃れることができました。

大堀さんは月曜日の28日、交通手段がないなか、自転車で28㎞先の東邦高校を目指しました。音楽部(吹奏楽)のレギュラーメンバーで全国コンクールを控えていたこともあり、「部としても練習を休むわけにはいかないはず。何としても駆けつけなければ」と思ったそうです。

「野球部の久野さんも同じ思いだったと思います。野球部や音楽部など伝統のある大所帯の部では、全国大会が近づくと、レギュラー部員は、レギュラーになれなかった部員の分まで絶対に頑張らなければならないと思う。だから私は、そうすることが当然のような気持ちで学校に向かいました」と大堀さんは語ります。

名古屋市南区に入って大堀さんが見た光景はまさに地獄絵でした。柴田町、大同町は一面水没地帯と化していました。至る所で家屋が流され、家畜の死骸が浮いていました。天白川にかかる千鳥橋の欄干脇は遺体収容所と化し、人間の死体が山積みされていました。

大堀さんは自転車をこぎながら、さらに恐怖の体験をしました。後ろから遺体を山積みした軽自動車が迫って来たのです。「大府にあった飛行場跡に設けられた火葬場に運ぶ途中だったのでしょう。あたかも材木を運搬するように死体をひもで縛っているんですが、茶褐色の手足が硬直してはみ出しているんです。狭い道路でしたから、触らないよう思わず後ずさりしました」。

帰宅自転車にロウソクを積んで

伊勢湾台風の体験を語る大堀さん

大堀さんは、水浸しの道では自転車を背負って進み、約6時間かけて千種駅そばの学校にたどり着きました。居合わせた教員たちは「よくぞ知多から来られたな」と驚きながら、大堀さんの無事を喜んでくれました。

大堀さんは早朝3時に家を出ての自転車通学をしばらく続けました。実家は衣料品、生活雑貨販売の店を営んでおり、帰りには大須の問屋でロウソクを仕入れて荷台に乗せて運びました。被災地では停電が続き、地域の人たちにとってロウソクの明りは生活に欠かせなかったからです。

「ロウソクは必需品でした。仏壇用の小さなロウソクではすぐなくなるが、大きなロウソクなら1本あれば一晩が持ちました。幸い、心配してくれた大須の伊藤伊三郎商店という有名な問屋が、毎回、一箱に10本入ったロウソクを10箱分用意しておいてくれました。1箱手に入れるのも大変な時でしたので本当にありがたいと思いました」。大堀さんの大須経由での帰宅は半月近く続きました。

その後、担任だった山田敏雄教諭が見かねて「うちに泊まれ」と声をかけてくれました。大堀さんは大久手(千種区)に間借りしていた山田教諭の家から通学させてもらいました。山田教諭は朝の通学時だけでなく、毎日、大堀さんの吹奏楽の練習が終わるまで待っていてくれ、オートバイの後ろに乗せて帰ってくれました。奥さんと一緒に暮らしていた二間のうち、一間に寝泊まりさせてもらっての生活が10日ほど続きました。

大堀さんは、「私だけではなく、先生や職員の方々それぞれが、様々な形で被災した生徒たちを励まし、応援してくれていたのだと思います」と振り返ります。

被災現場でボランティア活動

土のう造りのボランティア活動をする東邦高校生たち

伊勢湾台風では多くの高校生や大学生たちが被災地区に乗り込んでボランティア活動に参加しました。愛知県や名古屋市からの要請もあり、東邦高校でも延べ947人の生徒らが救援奉仕活動にあたりました。

東邦学園50年史に記録されている「生徒の救援活動一覧表」によると、ボランティア活動は9月27日から11月3日まで行われました。関わった作業別では、輸送運搬169人、土のう、石のう造り514人、防疫236人、その他28人で、10月8日には301人が土のう、石のう造りに参加しました。

久野さん、大堀さんと同じ商業科2年生だった古橋徳一さん(名古屋市昭和区)がこの時のボランティア体験を語ってくれました。

「生徒たちは名古屋城北側の名城公園に集められました。自衛隊のトラックに乗って、南区で石灰をまく活動をしました。初めてヘリコプターに乗って、弥富とか蟹江の方にも行きました。作業には1週間くらい従事した気がします」。

やはり商業科2年生で、生徒会長も務めた小中健次さんも東邦学園75年史に体験を寄稿していました。

「通信網、交通網のマヒで情報が入らないため、腰まで水に浸りながら南区の白水地区へ安否を尋ねて行きました。南区役所の庭に並べられていた多数の水死体の姿が今でも忘れられません。私達も被災地での土のう造りや、消毒作業に参加しました。また、募金活動や記念誌の発行などをしました」

特例措置でセンバツ甲子園連続出場

甲子園連続出場を喜ぶ久野さん(左から2人目)ら野球部員たち

伊勢湾台風が去ったあとも浸水が引かない地区では野球などできる状態ではありませんでした。このため、秋の高校野球愛知県大会は中断されたままで、野球関係者や世間では、「愛知県からのセンバツ出場は見合わせるべきでは」という空気が強まっていました。

しかし、愛知県高野連は11月11日の理事会で、中断されたままの県大会の締めくくりとして各地区代表校による試合を行うことを決定。同21、22日に名古屋地区は東邦高校、東三河地区は豊橋商業、西三河地区は岡崎高校、尾張地区は滝実業、知多半田地区は半田農業の5校によるトーナメント大会が初冬の刈谷球場で行われました。そして東邦高校が決勝戦で豊橋商を4-3で破り優勝。結局、この結果をもとに東邦にとっては2年連続10回目となる1960年春の第32回選抜高校野球大会への出場が決まりました。

久野さんは、自宅が復旧する年末まで帰宅できず、ほとんど東山総合運動場の管理事務所で寝泊まりし続けました。久野さんが、アルバムに収められた野球部時代の写真の中から、苦笑まじりに、「高野連からセンバツ出場決定の知らせがあった時の写真です」という写真を見せてくれました。実は高野連から正式に下出校長あてに電話連絡があった後、部員たちがふざけながら受話器を上げて耳にあてて撮った記念写真でした。受話器を手にしているのは同じ2年生だった投手の日比野直行さん。日比野さんの肩に手をかけている左が久野さんです。

第32回大会で東邦は、1回戦は大鉄高校(大阪・現在は阪南大学高校)と対戦し6-3で勝利。第1、第2試合とも延長戦となったため第3試合であるこの試合は5回から大会初のナイターとなりました。久野さんは3番レフトで出場し、5打数3安打3打点に加えてホームスチールも決めました。しかし、やはり雨中のナイターとなった2回戦は3-5で慶応高校(神奈川)に惜敗しました。

「本来なら、センバツ出場は愛知、岐阜、三重、静岡代表による中部地区大会を勝ち抜かなければならなかったが、伊勢湾台風被害の特別措置ということで変則的な愛知県大会だけで出場が決まった。台風では大変な思いをしましたが、東邦野球部にとっては幸運だったかも知れませんね」と久野さんは苦笑まじりに語りました。

(法人広報企画課・中村康生)

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