検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第3回

105歳2回生も医師

1925

更新⽇:2016年12月15日

元岡崎市民病院小児科部長

82歳当時の斉藤さん

森常次郎教諭の教える化学が好きになり、1回生の近藤博さんに続いて医師になった東邦商業卒業生が2回生にもおり、健在でした。岡崎市に住む105歳の斉藤正さんです。

斉藤さんは小児科部長も務めた岡崎市民病院を1975(昭和50)年に65歳で定年退職。その後、岡崎市内で開業し、地域の医療に貢献しました。現役は引退しましたが、「サイトウ正クリニック」の看板は、夫婦で医師である長男の吉人さん、晶子さんに引き継がれています。途切れがちな記憶を、吉人さん夫妻にサポートしてもらいながら、斉藤さんは東邦商業時代の思い出をたどってくれました。

足助町から東邦商業へ

斉藤さんも利用した市電の車道停留所

 1911(明治44)117日生まれの斉藤さんは豊田市足助町出身。父親の吉三郎さんは地元で木炭の製造販売業を営んでおり、上質の炭を名古屋の料亭などに売り込むなど手広く商売をしていました。

 当時の西三河山間部では、尋常小学校から上の学校に進む子どもたちはほんのわずかな時代でしたが、斉藤さんが東邦商業に進学することになったのは吉三郎さんの勧めでした。名古屋の情報に明るかった吉三郎さんが、名古屋経済界では名前が知られていた下出民義によって東邦商業が開校したことを知ったからでした。

 1924(大正13)41日に行われた入試の前日。足助から乗り合いバスで名古屋入りした斉藤さんは、試験手続きのため中区の中京法律学校を訪れました。しかし、東邦商業はすでに赤萩に新校舎が完成し、試験も新校舎で行われることを知らされました。斉藤さんはその足で赤萩に向かいました。田んぼを埋めた一角に、2階建ての新校舎1棟が立っていることを確認した時はほっとしたそうです。

 開校期の記録集である『沿革細史』によると合格発表は42日に行われ、160人の志願者中97人が合格しました。

化学が大好きに

1929年当時の東邦健児団(ボーイスカウト)

 試験管や薬品を入れた箱を小脇に抱え、眼鏡を光らせながら教室から職員室に戻ってくる化学担当の森教諭。斉藤さんも森教諭の教える化学が好きになりました。「森先生は受け持ち(担任)だった。熱心でいい先生だったよ。僕も一生懸命に化学を習った」。90余年前の記憶を思い起こしながら斉藤さんはうれしそうでした。

 斉藤さんは1学年上の近藤さんが、医師をめざして、森教諭に励まされながら頑張って勉強していたことを知っていました。吉三郎さんの仕事の関係で斉藤さんも近藤さんの出身地である安城市で暮らしたことがあり、親しみがあったのかも知れません。「近藤さんは優秀だった。彼が医者になると言っていたことで、僕も最終的に医者になろうと思ったんだ」と語る斉藤さんでしたが、斉藤さんの医師への道は紆余曲折をたどりました。

 斉藤さんは東邦商業を1929(昭和43月に卒業。浪人して東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)で学び薬剤師となりました。しかし、親類の勧めもありさらに昭和医学専門学校(現在の昭和大学医学部)で学びました。医師免許を取得したのは1942(昭和17)年3月。太平洋戦争の開戦で戦局は一段と厳しさを増していた時代でした。斉藤さんも招集されて軍医としてラバウルに従軍。大戦末期には本土からの支援物資が届かず、苦難の中で終戦を迎えました。復員で勤務した岡崎市民病院がやっと本格的な医師人生のスタートとなりました。

 斉藤さんは東邦商業時代、袋町通(中区錦)にあった親類宅から赤萩まで歩いて通学しました。熱田にも親類宅があり、熱田から市電を利用して学校に向かう時は栄町で乗り換えて車道で下車していました。当時、東邦商業の生徒たちがよく利用した車道停留所の写真を手にした斉藤さんは、「そうです。この停留所でよく乗り降りしたんです」と懐かしそうでした。

 斉藤さんは1993(平成5)年に発行された『真面目の大旆~東邦学園七十年のあゆみ』に「草創期の学園生活」という一文を寄せていました。82歳の時です。入学当時の思い出に続いて、恩師たちの授業の様子とともに、校主である下出民義や大喜多寅之助校長の講話による道徳教育が行われたことが紹介されています。

 斉藤さんによると、斉藤さんが2年生となった1925(大正14)年ごろから、東邦商業の部活が芽生えました。陸上部、蹴球(サッカー)部、篭球(バスケットボール)部の発足。部活だけでなく、夏の知多半島での水泳合宿、東邦健児団(ボーイスカウト)の結成。斉藤さんは「次第に部活が活発となり、かくして学園創立の目標達成へのハード、およびソフト面の諸条件が必要、かつ充分に整えられていった」と書き残していました。

 自身が書いた文章を追いながら、斉藤さんは「ボーイスカウトは早くから出来ていましたよ。下出(義雄)さんが熱心だったから」と懐かしそうでした。

見つからなかった母校

東邦商業があった当時から
様変わりした千種駅周辺

 斉藤さんは20年前の1997(平成9)年に、妻義子さんに先立たれましたが、医師である吉人さん、晶子さん夫妻がそばにいることもあり平穏な暮らしを続けて来ました。吉人さんによると、「ぜひもう一度、母校のあった赤萩周辺を見てみたい」と口にする回数が多くなったそうです。

 年齢とともに募る父親の思いに応えようと、吉人さんは201612月、斉藤さんを車に乗せて岡崎から名古屋に向かいました。東邦学園が赤萩から名東区に移転したことは知っていましたが、斉藤さんの青春の思い出を呼び戻す痕跡が残っていると思ったからでした。

 「すぐ近くに鉄道病院があった」「車道に市電の停留所があったよ」。斉藤さんの断片的な思い出や旧住所を頼りに、吉人さんはJR千種駅周辺で、「東邦商業」の面影を探し回りました。しかし、街はあまりにも大きく様変わりしていました。斉藤さんにとって思い出が詰まった母校の痕跡にたどりつくことができませんでした。

 「父はずっと前から、赤萩に行ってみたいと言い続けていましたが、私も時間が取れずなかなか実現できないでいました。父も、もう我慢できない感じだったので私も決断したのですが残念でした。何の手がかりもなく、幽霊を探すようでした」。老いた父親の願いに応えられなかった吉人さんは残念そうでした。

筋金入りの「真面目」

2回生の斉藤さんと長男吉人さん、晶子さん夫妻

 斉藤さんに、「東邦商業に入ってよかったですか」と聞いてみました。「東邦はいい学校だった。先生も同級生もみんな真面目だった」。斉藤さんの答えに躊躇はありませんでした。「下出民義さんとは直接話したことはないが見たことはある。大人しい人だった」とも語りました。

 斉藤さんから、東邦商業の校訓が「真面目」であることを聞かされていた晶子さんが「お父さんは筋金入りの真面目です。いかに〝真面目〟を掲げた東邦の校風にあっていたかが分かります。私たちもずっと、〝勉強せなあかん〟と言われ続けてきました。校風がしっかりと身についていたんでしょうね」。晶子さんが目を細めながら補足してくれました。

(法人広報企画課・中村康生)

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