検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第4回

「東邦商業新聞」の発行 

1927

更新⽇:2017年5月8日

昭和前期に発行された中等学校新聞

5冊に製本されて残っていた「東邦商業新聞」

この連載でしばしば記事を引用している「東邦商業新聞」は1927(昭和2)年5月から1940(昭和15)年10月まで、日本が太平洋戦争に突入していく前夜とも言える昭和時代前期の13年間にわたって発行されました。全国の大学でもすでに学生新聞が発刊されていましたが、旧制中学校や実業学校など中等学校での新聞発行は知られておらず、「東邦商業新聞」が唯一ではないかと見られます。

保存されている「東邦商業新聞」は第10号(1928年6月23日)から「廃刊の辞」が掲載された111号(1940年10月26日)までですが、欠号や破損ページもかなりあり、全部が保存されているわけではありません。タブロイド版(一般紙の半分)で、散逸を防ぐために5冊に製本され、長い間、東邦学園の関連施設に眠っていました。

1929(昭和4)年1月12日発行の第16号に掲載された、新聞部顧問の後藤保吉教諭が書いた「学生新聞としての本紙一大飛躍」という記事では当時の学生新聞を取り巻く事情が紹介されています。大学では「帝国大学新聞」、「早稲田大学新聞」や慶応大学の「三田新聞」、明治大学の「駿台新報」などが発行されていました。しかし、中等学校が発行する新聞は「東邦商業新聞」だけでした。

ボーイスカウトや小学生の記事

慰問袋を贈ったボーイスカウトの記事が掲載された「東邦商業新聞」10号

後藤教諭は、「東邦商業新聞は、限られたる一校の学生、生徒の新聞を目標とせず発展してきた」と強調。さらにこれからも目標を「一般中等学生読者」に置くことで「一大飛躍をなすであろう」と宣言しています。そのうえで、「全国数万のスカウトを読者とし、さらに本年より創設の学童文芸欄も小学校児童方面に歓迎せられて発展を遂げる」と指摘。そして、運動部の活躍を紹介する運動欄の充実が「一段と光彩を添える」と書いています。

副校長だった下出義雄(1934年1月から校長)は、神戸高等商業学校(神戸大学経済学部の前身)、東京高等商業学校専攻科(一橋大学の前身)で学びましたが、紙面には下出の思い入れも色濃く反映されました。

後藤教諭は「一面本紙は、教育評論、社会評論に力を致し、下出義雄氏の如き実業家として、教育家としても令名ある特別寄稿者を持って社会一般に寄与するところもけだし大なるものであろう。経済記事の報道の正確敏速よりも、民衆の経済的方面開発に努力を集中し、立派なる民衆の経済教育として他に比類なからしめる」と書いています。

新聞部員たちも、誕生間もない運動部の活躍ぶりなどを意欲的に取材し記事を書き続けました。月2回の発行でしたが、後藤教諭には「週刊」も射程に入っていたようです。

陸上部員も自ら執筆

校庭で練習する陸上競技部(昭和2年当時)

第10号は8面(ページ)構成ですが、1面と2面分のページは破れちぎれ、残っていません。3面には、東邦商業のボーイスカウトが慰問袋を集めて、名古屋の陸軍歩兵六連隊に入隊した兵士たちに贈ったところ、丁重な礼状が届いたという記事が、ボーイスカウトの4人の写真とともに紹介されています。

5面は運動面で、陸上競技の東海選手権大会で、6種目で選手権を獲得した東邦商業陸上部員の4人の活躍ぶりが紹介されています。この連載の第3回「105歳2回生も医師」で登場していただいた岡崎市の斉藤正さんと同級生で、陸上競技部員だった恒川誠一さんが「T.S生」の署名で記事を書いていました。

東海選手権大会は4月28、29の両日、名古屋高等商業学校の校庭で開催されました。現在の地下鉄・桜山駅そばの名古屋市立大学医学部付属病院がある所です。5000mに出場した恒川さんも見事優勝。

「かくしていよいよ私の活躍の時は来た。2、3日前からの腹痛なお癒えず、悩まされつつも、母校の栄光のため必勝を期して力走また力走。遂に五千米選手権獲得に漕ぎつけた時、腹の痛みも忘れていた」

当人が書いただけあって臨場感の伝わってくる記事です。斉藤さんは「恒川君も本当に真面目な人間だった」と懐かしそうに、級友の印象を語ってくれました。

文芸欄では卒業生の東京生活報告

右端に「開会に辞 鬼頭利之」の垂れ幕が見える小学児童雄弁大会

6面は文芸欄で、東京の私大で学生生活を始めたばかりの1回生、鬼頭利之さんの投稿記事が紹介されていました。鬼頭さんは明治大学専門部に進学。7面に掲載された卒業生名簿での住所は「東京市麹町区三番町薩摩館」とありますから、現在の千代田区三番町という都心で学生生活をスタートさせたようです。鬼頭さんは「芝生にありて古巣の歌をきく」という文章を寄せています。記事の抜粋(要旨)です。

 

懐かしい母校の新聞を出掛けに受け取った私は、ポケットに入れたまま、郊外電車にて村山の公園へ参りました。今、私の座っている四方は、気持ちの良い芝生です。東京の町の中では容易に小鳥の声を聞くことは出来ません。三面記事の豊富さを誇る街を離れてただ一人郊外へ、緑の空気と小鳥の和やかな歌を求めて来た私は只今、新聞を読み終えて大きな感激に打たれています。

古巣を巣立った私は再び古巣で生活することはできない。が、古巣の有様はどんなであるかとのぞきに行くことは出来る。此れが遠隔の地にある私の唯一の心慰めであります。かつて校庭に植えたバラはもう散って、今はツツジが咲き誇っていることであろう。諸先生、諸君の健在と御発展とのみを祈りて。(昭和3年6月3日)

 

鬼頭さんが郊外電車で訪れたのは現在の西武池袋線・西武球場前(当時は武蔵野鉄道・村山公園駅)であると思われます。都民の水がめとして埼玉県に村山貯水池が完成。公園としても人気が高まり、新聞には「明日の日曜は、新緑の村山貯水畔へ」という広告も登場するほどでした。鬼頭さんもひょっとしたらこの広告を見たのかも知れません。

鬼頭さんは東邦商業時代、弁論部で活躍しました。1回生の卒業アルバムに掲載されている名古屋市議会議事堂で開催された東邦商業主催の小学児童雄弁大会の記念写真には、中央に座る和服姿の校主下出民義や副校長の下出義雄、参加者たちの後ろに、「開会の辞 鬼頭利之」と書かれた垂れ幕も写っていました。

1954(昭和29)年に発行された東邦商業、東邦高校の同窓会である「東邦会」発行の『同窓会名簿』によると、鬼頭さんは南区に実家がある名古屋にUターンし、「林業日本新聞社名古屋支局」に勤務していました。

1回生の「卒業生名簿」を特集

卒業茶話会で笑顔満開の1回生たち(昭和3年)

7面では1回生として入学した98人のうち、5年の学びを終えて母校を巣立った63人の進路を、「第1回卒業生名簿」(5月1日調査)として特集しています。このページも破損がひどい状態ですが、判読していくと、33人が銀行や企業などに就職していることが分かりました。他に家業を継ぐなどの自営が4人、進学が6人。「受験準備中」(医師になった近藤博さん)や「病気療養中」の卒業生もいます。

就職先企業で目立つのは金融関係です。百五銀行名古屋支店、名古屋銀行本店、愛知農商銀千種支店、日本貯蓄銀行本店、明治銀行本店、村瀬銀行東支店、名古屋銀行中市場支店、第一銀行名古屋支店、三菱銀行名古屋支店、百五銀行津本店、日本貯蓄銀行泥江橋支店、明治銀行西支店、福寿火災保険、東京海上火災保険。現在、就活中の学生たちがあこがれそうなブランド力のある名前がズラリと登場します。

金融以外でも愛知電気鉄道、愛知石炭商会、三井物産、東邦電力、大同製鋼、東邦瓦斯、名古屋中央放送局など有力企業が目立ちます。愛知石炭商会は、東邦邦商業の創設者で校主であった下出民義が、大阪での小学校教員から志を一転して実業界に入り、名古屋に来て1889(明治22)年に29歳で創立した会社です。

上級学校への進学では名古屋大学経済学部の前身である名古屋高等商業学校に2人(坂柳太一さん、松本次郎さん)、明治大学2人、日本大学、中央大学各1人と、東京の私大専門部や予科に4人が進学しています。

 

目立つ40歳代での「永眠」

卒業した1回生63人のその後ですが、1954年の『同窓会名簿』によると19人が「永眠」していました。17歳で卒業したとすれば43歳のはずです。本来なら働き盛りの年代であるのに、3割に及ぶ「永眠」は多すぎます。永眠した1人である永田卓司さんは卒業後、三井物産名古屋支店東築地材木引渡場に勤務しましたが、『追憶の記』によると、応召され、南方に向かう途中の輸送船が、玄界灘で魚雷に沈められ戦死しています。19人の中には永田さんのような戦争の犠牲者が数多くいたに違いありません。

東邦会の最新名簿である2013(平成25)年版で、1回生では唯一生存扱い(死亡未確認)だった西尾市の長谷恒一さんのお宅に電話を入れてみました。三男の修利さん(69)によると、長谷さんは2002(平成14)年10月に92歳で亡くなっていました。

長谷さんは東邦商業を卒業して名古屋中村区広小路通の三井物産ビル内第一通商に勤務。修利さんは、「父は東邦商業時代にいろんなスポーツをやったそうですが、小柄だったこともあり、選手として活躍するまでは行かなかったようです。晩年は東邦高校の甲子園での活躍を本当にうれしそうに見守っていました」と話してくれました。

(法人広報企画課・中村康生)

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