検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第5回

帝大にも挑んだ籃球部

1928

更新⽇:2017年5月17日

籃球部の創部

屋外コートで練習する籃球部(1928年、1回生卒業アルバムから)

東邦商業では1925(大正14)年ごろから部活動が活発化しました。開校3年目で、まだ3年生が最上級生だった時代です。「愛知県統計書」によると1925年度の生徒数は192人(1年生31人、2年生88人、3年生73人)しかいませんでしたが、陸上部、蹴球(サッカー)部、バスケットボール部、水泳部が相次いで創部されました。

バスケットボール部はこの当時、籃(らん)球部、籠球部(篭球部)とも呼ばれました。「籠」も「籃」も「かご=バスケット」の意味ですから、かごにボールを入れるゲームとして始まったスポーツであることに由来したのでしょう。

 

籃球部創部には2回生斉藤正さん(岡崎市在住)の同級生である藤波日出哉さん、林伊佐武さん(元東邦会会長)も加わりました。藤波さんは初代主将の1回生・肥田鍋嘉さん(卒業後は東邦電力に勤務)から引き継いで2代目主将を務め、部を盛り立てました。ボーイスカウトの班長であったこともあり統率力があったようです。

藤波さんは卒業を前にした1929(昭和4)年、「東邦商業新聞」17号(2月10日)に、「学園を巣立つスポーツマンを訪ねて」という記事で紹介されていました。藤波さんは創部のころの思い出を、「出来たばかりのチームが、新しいゴールにボールを投げ込み、籃球部の歴史が始まった」と語り、誕生したばかりのチームが初代主将の肥田さんのいる東邦電力と鶴舞公園でゲームをしたことを紹介し、「淡い思い出です」と懐かしそうに振り返りました。

東京帝大とも対戦

籃球部主将だった藤波さんが紹介された「東邦商業新聞」17号

「東邦商業新聞」は籃球部が創部4年目の1928(昭和3)年、浜松高等工業学校(静岡大学工学部の前身)や帝国大学(現在の東京大学)など上級学校を相手に試合経験を積んでいた様子を伝えています。

10号(1928年6月23日)に掲載された「対浜松高工籃球戦」の記事は、全国バスケットボール選手権大会東海大会での記事です。体力では劣りながらも東邦商業の選手たちの堂々たる戦ぶり伝わってきます。試合は名古屋中学校(学校法人名古屋学院)のインドアコートで行われ、前半は東邦が18-13で終えましたが、後半は4-12でリードを許し22-25で敗れています。以下は記事です。

「浜高工と東邦は体力において大いなる相違がある。結局、後半のスコアはこの相違を明瞭に物語るものである。パスやシュートははるかに東邦の方が上である。特に胸のすくようなクロージングシュートの姿態は体格の堂々たる浜高工には見られなかった。上に飛び上がってばかりいるパスも改善しなければ、浜高工は結局田舎チームにとどまり、恐らく中学チームにも勝つを得ざるに至るであろう」「いくら頑張っても中学程度のチームでは、体力において高等専門学校のチームにはまされない。勝つには今一段と、あの観衆の胸をすかせるパスとシュートの練習が必要である」

大会は常勝軍である八高の優勝に終わりましたが、浜松高等工業学校チームとの試合でチームを引っ張ったのも5得点をあげた5年生の林さん、4得点のキャプテンの藤波さんでした。

13号(10月1日)には、東京帝国大学との対戦記事が載っていました。夏休みを利用して犬山で合宿中の帝国大学籃球部は東邦商業と試合を行い、東邦が3-74で大敗したという記事です。名古屋でなかなか対戦相手が見つからないでいる中、東邦商業籃球部が申し入れを快諾し、YMCAコートでの対戦に臨みました。

「東邦チームはベストベストメンバーで対戦し、火の出るような戦いを続けた。さすがは東都において六大学リーグ戦に早、商、立の三大覇者に肉迫している帝大チームのこととて、74対3で帝大が大勝した。帝大チームは最後の1秒まで真面目に元気に戦い、スポーツマンシップの発露は東邦チームに偉大なる感化を与えずにはおかなかった」。

 

籃球部の豆機関車

赤萩校舎の運動場近くを走る機関車(1932年、5回生卒業アルバムから)

「東邦商業新聞」には新聞部の記者たちが足でネタを集めるコラム記事も随所に登場します。「運動後の紅茶」というコラムもその一つです。15号(1928年12月1日)の同コラムは「親分のお通り」という記事です。「籃球コートのそばを中央線の汽車が通る。そのたびごとに、練習中の籃球部員たちは練習を中止して、『親分のお通り』だと言う。『何が親分なんだい』と聞けば、『奥村君と鬼頭君が豆機関車なら本物の機関車は親分です』とすましたもの」という短い記事です。

この記事は14号(11月1日)に掲載された同コラムの「豆機関車」という記事の続報でした。「お天気がよければ東邦商業の運動場に2台の豆機関車が現れてシュッシュッ、シュッシュッと盛んに無軌道に走り回る。豆機関車は籃球部の奥村三七夫君に鬼頭高正君である。鬼頭君はシュッシュッ、シュッシュッと言う他に、試合となると目をくりくりさせて活躍するので有名である。二台の機関車よ!コートの外に脱線しないように走れ走れ!」。

鬼頭さんの名前は6回生(1933年3月卒)の名簿にあり、コラム欄で紹介されたのは入学したばかりのあどけない1年生の時でした。この当時の赤萩校舎のグランド東側に沿って、千種駅から大曽根駅に延びる国鉄(現在のJR)中央線が走り、蒸気機関車に牽引された列車が行き交っていました。

14号の「運動後の紅茶」には「怪物の出現」という記事もありました。「近頃、夜な夜な、否、夕な夕な、運動場に怪物が現れ、無気味な音を立てて或いは速く、或いはのろく、ふらりふらりと走り回る。あれはオートバイと言うものだそうな――」。

陸上部、籃球部、蹴球部の練習に加え、野球部も創部への胎動も始まっていたこのころ、東邦商業のグラウンドには、手狭ながらも和気あいあいの風景があったようです。

あこがれは燕のユニフォーム

燕のユニフォーム姿の籃球部員(1932年、5回生卒業アルバムから)

 

籃球部を指導したのは新聞部顧問でもあった後藤保吉教諭でした。毎日、放課後から日没でボールが見えなくなるまで猛練習が続き、部員たちは手探りで制服を探し着替えなければならないほどでした。7回生の廣田豊さんは『東邦学園創立75周年記念誌・真面目の系譜』の中で、「2年生の時、学級担任であった後藤保吉先生(明治大OB)に説得されて入部したが、部長だった先生の指導は極めて厳しく厳格であった」と、入部した1930(昭和5)年当時を書き残しています。

後藤教諭はコーチに極東オリンピック大会に出場経験があるなどの明治大OBたちを招き、洗練された技術と懇切な指導で選手たちを鍛え上げました。チームは廣田さんが入部した1930年から1940(昭和15)年まで愛知県中等学校リーグ戦(東邦商業、名古屋中学、愛知商業、中京商業、惟信中学、熱田中学の6校が参加)で連続優勝。1931年には東海籠球選手権大会で、1回戦で八高を破り優勝し、1940年まで選手権を獲得しました。1931年、1933年、1935年、1939年には明治神宮大会に出場し1933年には準優勝。1938年には全国男子中等学校籠球大会でベスト4に輝きました。

東邦商業籃球部の正選手のユニフォームには燕(ツバメ)の模様が入っており、新入部員たちは燕のユニフォームを着て試合に出るのがあこがれでした。

竹の輪で復活した戦後バスケット部

戦後のバスケットボール部復活当時を語る後藤さん

東邦商業学校籃球部の歴史は戦後、新制の東邦高校バスケットボール部に引き継がれました。バスケットボール部を復活させた部員の一人で東邦高校4回生の後藤正人さん(83)(愛知県清須市)がその当時を語ってくれました。

後藤さんの入学は1950(昭和25)年4月。新制高校発足3年目でしたが、バスケットボール部は戦時中に休止されたままでした。伝統部復活の話が持ち上がったのは後藤さんが3年生の時。選手集めが進められ、中学時代まで野球をやっていて、バスケボール経験のない後藤さんでしたが、身長が高いということで声がかかりました。

しかし、部員は何とかかき集められたものの、練習場所もなければ用具もない状態でした。後藤さんによると、部員たちのアイデアで、講堂2階席最前列前の手すりに竹の輪を作ってひもで縛り付けてシュート練習をしたそうです。文字通りの竹かんむり「籃球」の復活でした。

卒業が迫っていた後藤さんが出場した試合は南山高校との1試合だけでした。「審判が、『東邦のチームは出来たばかりで、多少の違反があるかもしれないが大目に見ます』と言ってくれた。確か8-58で負けましたが、私はセンターから2回シュートを決めて、8点のうち4点をあげましたよ」。後藤さんはバスケットボール部復活当時の思い出を苦笑まじりに話してくれました。

(法人広報企画課・中村康生)

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