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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第6回

3回生の絆

1930

更新⽇:2017年5月29日

世界恐慌と就職難

卒業生の動向を伝える「東邦商業新聞」34号

東邦商業学校2回生が卒業した1929(昭和4)年。ニューヨーク株式市場での株価大暴落から世界大恐慌が始まりました。1930(昭和5)年に卒業した3回生たちの就職先探しは厳しい状況に追い込まれていきました。4回生が卒業した1931(昭和6)年には関東軍により満鉄路線が爆破された満州事変が勃発。5回生が卒業した1932(昭和7)年には「満州国」の建国が宣言され、社会、経済情勢は暗雲に包まれていこうとしていました。

「東邦商業新聞」34号(1932年4月30日)1面に「第5回卒業生就職の状況」という就職係の談話が掲載されました。

「何分にも連年の不景気に加うるに、当地方最大の金融恐慌があったため非常に困難なる状態に陥り、一時は甚だ悲観していたが、下出先生始め、学校と直接間接に関係ある各位の多大なるご援助やら当局の涙ぐましい活動により、4月15日現在、新卒業生の81%はそれぞれ就職して社会人としての第一歩を勇ましくスタートを切ったことは誠に喜ばしい次第である」

 

満州へ、ブラジルへ

「第5回卒業生就職の状況」を紹介した同じ34号紙面に、世相を映し出すかのような2つの小さな記事が掲載されていました。「新興満州国へ進出!」という満州に就職先を求めた2人の5回生を紹介する記事と、「アマゾン入植者吉田泰正君 16日に征途に上る」というブラジルに移住する3回生を紹介する記事です。

満州に就職先を求めた5回生は岡田貢さんと倉地義信さんです。1932年3月25日午後5時15分名古屋駅発下関行き急行で勇ましく出発する2人を、就職担当、運動部関係の教職員たちが見送りました。岡田さんは1930年に創部したばかりの野球部員、倉地さんもボーイスカウトに参加するなどしていたこともあり、見送りには多くの野球部員や学校関係者、家族たちも駆けつけました。

ブラジルに向けて同年4月16日に日本を航路で旅立つことになっていた吉田さんは4月7日午後9時38分、重富実造教諭、瀧川巳三教諭や多数の同窓会員の見送りを受けて名古屋初の列車で東京へ。そして、東京から南アフリカのケープタウンを経由して南米に向かいました。「東邦商業新聞」37号(1932年7月18日)に吉田さんから新聞部に届いた手紙が紹介されていました。

「謹啓。其の後永らく御無沙汰致して居ます。私は今、南アフリカのケープタウン港に安着停泊しています。明5月22日午後5時、目指す目的地南米に向けて出帆致します。何卒紙面を通じて、同窓の諸君によろしくお願い申し上げます。また珍しいことは後便にて。では御機嫌よう。皆様の御健在を祈る」

樺太の日露国境から

卒業4年後に初めて集った3回生たち(「東邦商業新聞」55号より)

さらに「東邦商業新聞」38号(1932年9月30日)には、吉田さんと同じ3回生の樺太からの報告が掲載されています。名古屋の舘本時計店に勤務した加藤(旧姓井上)義一さんが、当時は日本領だった南樺太で、ロシアとの国境に近い敷香(しきか)から新聞部に寄せた「日露の国境より」という手紙です。

加藤さんが手紙を書いたのは9月11日。「紺碧の空を通し、西はシベリア、北はカムチャッカより吹き寄する身にしむ冷気は、最早内地の12月頃の気候です。此処は御国を七百里(2800km)離れて、遠き樺太の日露国境敷香。社命を帯び、唯唯一人強く、正しく、雄々しく、自己の使命を果たすべく奮闘に次ぐ奮闘を以ってし、献身的努力を続けて居ります」。営業職だったという加藤さんが、母校校訓である「真面目」の精神で仕事に打ち込んでいる姿勢が伝わってくる手紙です。

無人の荒野を疾走する自動車の車窓にはアザラシの遊ぶオホーツクの蒼海。見渡す限りのツンドラ地帯。ロシア国から流れてくる国際河川である幌内川で押し流される無尽蔵の木材。「母校を出でてより満2年と有半。日本全土をまたに東奔西走する暇なき旅の生活を続けている私は大方皆さんにお会いする機会の極めて少ないことを嘆じている様です」。加藤さんは極寒の地での体験について筆を走らせていました。

 

「邦友会」に集う

「愛知県統計書」に残された記録では3回生の入学者(1925年)は31人でしたが、編入者らを加えた卒業者(1930年)は56人。1回生から最後の21回生までの東邦商業卒業生総数は3811人。卒業回数別では1回生63人、2回生66人、3回生56人と2桁が続き、4回生の121人以降はずっと3桁が維持され、ピークの13回生は278人でした。13回生の2割しかいなかった3回生の56人は最少でしたが、その分結束力は強く、卒業後も「邦友会」として親交を深めました。

3回生たちは卒業4年後の1934(昭和9)年12月1日、21人が集まって名古屋で忘年会を兼ねた第1回「邦友会」を開きました。恩師である重富実造教諭も招かれました。「卒業以来、全く消息を絶っていた同窓生、四方より集まり久方の談合に懐旧の一夜を過ごして10時半に散会」。「東邦商業新聞」54号(12月8日)は紹介しています。

ただ、会合当日の12月1日に撮影した写真を12月8日発行の54号に掲載するのは時間的に無理だったらしく、年明けの55号(1935年2月18日)に掲載されました。「邦友会」が忘年会に続いて新年会も開催したことの記事に合わせての掲載でした。

正月4日に開かれた新年会には忘年会に参加できなかった加藤さんも駆けつけました。記事は「当夜集まる者は12人。中には樺太、北海道地方出張の井上(加藤)義一君が勇壮な姿で登場。卒業後既に5か年を経て早くも結婚生活に入る者も少なからず」と書かれています。

ブラジルの地で

42年ぶりに祖国に戻った吉田さん

「邦友会」名簿上での吉田さんの連絡先は「守山市」(現在の名古屋市守山区)の兄である吉田正夫さん方でした。正夫さんはすでに他界しており長男の吉田正和さん(80)、妻陽子さん(74)から話を聞くことができました。

東邦商業を卒業した吉田さんは拓殖大学専門部で2年間学んだ後、ブラジルでのアマゾン開拓を目指しました。しかし、開拓は予想以上に困難を極めました。吉田さんはサンパウロでの勤め人としての生活に方向転換します。陽子さんによると、採用された会社とは、拓殖大学時代にサッカーをやっていた縁もあったようです。

サンパウロで生活の安定を得た吉田さんは日本人女性と結婚し家庭を築きました。正夫さんには、「加工して財布に」と蛇の革を、野球少年だった正和さんが高校1年生の時にはグローブを送ってくれたそうです。

吉田さんは1974(昭和49)年4月、42年ぶりに帰国を果たします。弟の帰国を待ちわびていた正夫さんのアルバムには、「泰正帰国 1974.4.9~6.1」の書き込みとともに、赤いシャツにサングラス姿の吉田さんの写真がありました。61歳ころと思われます。吉田さんはその後4回帰国し、90歳を迎える前にサンパウロで永眠しました。

正和さんは「叔父は父に似て寡黙でしたがカッコ良かった。大きな夢を追い求めてブラジルをめざしたのでしょうが、経済的に厳しい当時の時代では家を出ざるを得ない二男という境遇もあったのかも知れません」と語ってくれました。

42年ぶり帰国の友を迎えて

還暦を超えた3回生たちの寄せ書き

加藤さんは戦後、名古屋市昭和区で、奥さんの家族とともに新聞販売店の仕事に打ち込み、井上姓から加藤姓に変えました。長男明義さん(故人)の妻妙子さん(68)によると、義父である加藤さんは東邦商業を卒業して時計会社に就職。仕事で必要だったこともあり中国語、朝鮮語を習得するほど勉強熱心だったそうです。

東邦商業雄弁会の後輩で、6回生だった江崎真澄氏(通産大臣などを歴任)とも親交があり、江崎氏の選挙運動を応援したこともありました。東邦高校が1年生投手の坂本佳一さんの活躍で、1977(昭和52)年夏の甲子園大会決勝戦に勝ち進んだ時は満席の球場に何とか入り込んで応援したそうです。

妙子さんによると、加藤さんはブラジルに渡った吉田さんの帰国を心待ちにし、ブラジルに関する経済記事を切り抜くなどして、「邦友会」での懐かしい再会を心待ちしていました。加藤さんは1996(平成8)年12月13日、85歳で永眠しましたが、妙子さんが探し出してくれた遺品の中に、42年ぶりに帰国した吉田さんを迎えて開かれた「邦友会」の際に、16人の同期生たちと、来賓として参加した下出義雄氏夫人の貞さんも書き込んだ寄せ書きがありました。

寄せ書き中央には「1947.4.20」と書かれていますが、吉田さんが42年ぶりに帰国した年「1974」を書き違えたのでしょう。還暦を超えた3期生たちが集った「邦友会」。参加者の山中敏一さんは「吉田君の御多幸と御健康を祈る」と吉田さんへのエールを書き込んでいました。残念ながら加藤さんの遺品は大半が整理された後で、この時の記念写真は残っていませんでした。

苦難乗り越えた足跡

「同窓生群像」で紹介された加藤さん

3回生の加藤さんの写真が「東邦学園65周年記念誌」に、各界で活躍する「同窓生群像」の一人として紹介されていました。「商業3回卒」、中日新聞社の明治生まれの関係者が集う「明友会」の肩書きです。

卒業とともに満州に渡った5回生の岡田さん、倉地さんも学園誌に刻まれていました。1954年(昭和29)年の「同窓会名簿」(東邦会発行)によると岡田さんは名古屋市の丸八証券に勤務しました。野球部員でもあった岡田さんは、『東邦商業学校・東邦高校野球部史』で野球部創部当時の思い出を語っていました。足の遅い捕手だった岡田さんは、当時の野球部長だった隅山馨教諭と競争して勝つまで走らされたそうです。

日本損害保険センター勤務だった倉地さんは『真面目の大旆 東邦学園七十年のあゆみ』の中で、「親子三代・東邦ファミリー」という囲み記事に登場していました。5回生の同窓会である「五邦会」の幹事をずっと務めてきたこと、1年生の時にボーイスカウトで駒ヶ岳にキャンプをした際の思い出を、「下出義雄先生と遊んだことを今でも覚えている」と振り返っています。そして、「私は80歳にしてまだテニスを1週間に2日もやっている。健康であることは明るくて楽しい」と近況を語っていました。

苦難の時代でしたが、東邦商業の卒業生たちは、たくましく時代に立ち向かいそれぞれの人生を切り開いていました。

(法人広報企画課・中村康生)

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