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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第7回

赤萩道場の伝説剣士

1935

更新⽇:2017年6月7日

剣道部の誕生

熱気あふれる赤萩道場で練習に励む剣道部(1935年)

剣道部は1928(昭和3)年に創部されました。同年の「東邦商業新聞」15号(12月1日)によると、11月1日午後、下出義雄副校長の方針により、誕生(創部)を祝う「入門式」が厳かに行われました。大講堂に入門の生徒及び職員、一般生徒の有志が入場し、厳粛なる空気の中、下出副校長が訓話。師範として迎えられた加藤六郎講師らが剣道の型を披露して式を終えました。

連日続く気迫あふれる稽古は「赤萩道場」と呼ばれるようになり、剣道部はやがて黄金時代と呼ばれる全盛期を迎えていきます。1935(昭和10)年から1938(同13)年にかけての有力な大会で12回優勝。最も権威があるとされる全日本中等学校剣道大会でも1939(同14)年大会で初優勝、翌年と併せて2連覇を果たしました。1940(昭和15)年は12の大会に出場して全勝、全国制覇の年となりました。100人余だった入門式当時の部員は250人を超す一大運動部に成長していました。

硬式野球部も1934年から1941年にかけ甲子園の選抜大会で3度の優勝に輝いており、東邦商業が全国に輝いた黄金時代でした。そして剣道部からは伝説の剣士も生まれました。11回生の杉浦末治さんと原勇さんです。

「杉浦君の出身国府小学校は、大変剣道が盛んであり、又、強い豆剣士がたくさん出た。剣道が飯より好きな彼は、剣道を本当に修業できる学校はここよりないと東邦商業へ進学した」。杉浦さんらを指導した近藤利雄教諭は『追憶の記』(東邦会発行)の中で杉浦さんの思い出を綴っていました。

「生来小兵ながら精かん無類の彼は早くも3年ごろから東邦の名先鉾として名を挙げるようになった」「彼があるが為に、東邦は県下、近県は申すもおろか、あらゆる全国大会に負けたことなく、その優勝旗は広い校長室を埋めた」

杉浦さんの出身校である国府尋常小学校(愛知県豊川市の市立国府小学校の前身)の校史によると、同校は昭和初期、男子は剣道、女子は排球(バレーボール)を奨励し、剣道部は全国学童大会で優勝するなど何度も日本一に輝き、全国にその名をとどろかせました。

同校卒業者名簿によると、杉浦さんは「昭和9年3月20日」に高等科を卒業しています。東邦商業卒業者11回生が卒業したのは1938(昭和13)年3月ですから、杉浦さんは1934(昭和9)年に2年生に編入したものと思われます。

 

熱気の赤萩道場

15回生の村松廣人さん(名古屋市千種区)によると、村松さんが入学した1937(昭和12)年、剣道部は5年生の杉浦さんが主将、原さんが副将でした。村松さんは赤萩道場の熱気あふれる練習ぶりを『東邦商業剣道部思い出文集』(1995年、東邦剣友会)に書き残していました。

「八高の試合で優勝戦に破れ、翌日の練習で杉浦先輩の強烈な体当たりで転倒し、脳震盪を起こして人事不省に陥った。その日の稽古の激しさも忘れることはできません。幾多の先輩の構築した輝かしい歴史と伝統、そして向かうところ敵なしの東邦剣道部の黄金時代に、鍛錬された我が身が今日あるを思えば又、感慨一入りであります」。

村松さんに電話でお話を聞くことができました。間もなく94歳を迎えるという村松さんは、「文集にも書いたように、先輩たちには本当に厳しく鍛えられました」。村松さんは強烈な印象として焼き付いている赤萩道場の熱気の中での体験を思い出してくれました。

杉浦さん、原さんのもとに、5年生の時、京都武徳会からそれぞれ三段、二段の免許状が届きました。「東邦商業新聞」87号(1937年12月15日)は「卒業を前にして、初めて無段より三段、二段へと一躍躍進を遂げたものであり、全国中等学校生徒の中に在学中三段を許された者は殆ど類がないほどで称賛の的となっている」と称えています。

「嗚呼杉浦君!」

後方左から杉浦さん、1人おいて原さん

杉浦さんは剣道部を指導していた近藤教諭の働きかけで卒業後も母校に教員(剣道師範)としてとどまりました。近藤さんは当時、柔道とともに正課科目であった剣道部の授業も担当しながら、自らも剣士として全国剣道大会青年部での優勝に輝くなど活躍を続けました。しかし、間もなく応召されて名古屋歩兵連隊に入隊し、ガダルカナルの戦地に向かいます。

出征兵士たちの行進に加わった杉浦さんたちを名古屋駅に向かう桜通で見送った元校長の隅山馨さんは、『追憶の記』に寄せた「戦争でなくなった先生方の思い出」という一文で次のように書いていました。

「先生くらい元気に私達に手をあげ、笑いをいっぱいにたたえて出かけた人は前後に見たことはありません。私は少なくとも杉浦先生だけは無事に帰られると信じました。しかし、ガダルカナルで転進の時、脚部に重傷を負った杉浦君は、戦友の出発の勧めを静かに断って動こうともしなかったそうです。戦友達が海岸に達したとき、杉浦君と数名の同士が洞窟で自爆したものすごい音を耳にしたそうです。嗚呼杉浦君!」

多かった特待生

向き合う原さん(左)と杉浦さん(『赤萩道場の歩み』より)

17回生の後藤重三郎さん(91)(東京都杉並区)も剣道部黄金時代の1938(昭和13)年に入学し、1年生の時から剣道部に入りました。杉浦さんには正課授業でも剣道の指導を受け、杉浦さんの出征の時は名古屋駅まで見送った一人です。150人を超した部員でしたが、大会に出場する正選手は限られていました。後藤さんは各学年から10人ほどが選ばれる学年選手には選ばれましたが「正選手たちとの実力差は大きかった」といいます。

正選手は高等科出身が多く、ほとんどが授業料免除の特待生だったと言います。「野球部と同じで剣道部の特待生選手たちも学校の名前を高めるため、勝ち続けることが求められた。年齢的に離れていることもあってか、杉浦さんは大人びて、荒っぽく見えた」と話しています。

三島由紀夫と対峙した原さん

三島事件を伝える1970年11月25日の各紙夕刊

原さんは戦後、警察予備隊を経て自衛官となりました。15回生の村松さんは、原さんが、その後、自衛官として、社会に衝撃を与えた大事件に関わっていたことを教えてくれました。1970(昭和45)年11月25日、作家の三島由紀夫が憲法改正を訴えて自衛隊決起の演説をした後、割腹自殺をした「三島事件」のことで、原さんが50歳の時でした。

三島が自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで自衛官たちに演説した後、割腹自殺するまでの過程で、陸上自衛隊東部方面総監部業務室長で、一等陸佐だった原さんは、日本刀で切りつける三島と木刀で対峙していたのです。

原さんは、拘束されている益田兼利総監を救出しようと現場指揮をとりました。その時の状況は裁判記録をもとにした書籍などでも紹介されています。日本刀で切りかかる三島に対して、自衛官では原さんだけが木刀で立ち向かいましたが、三島の刀で木刀が切り落とされ、総監室からの一時撤退を余儀なくされました。

事件の第4回公判(1971年5月24日)の証人調べで原さんは、「私が総監をみるのと、三島さんが斬りかかってきたのが同時だった。腰を落とし、刀を手元のほうに引いており、本当に私どもの方に斬りつけてくるとは思わなかった」と証言。検事の「被害者として事件をどう思うか」という質問に対しては、「私は警察予備隊以来、民主主義下における部隊はかくあるべきだと信じ、歯を食いしばってやってきた。それを誇りにも思っている。いかなる理由があろうとも、暴力によってこのような事件を起こされたことはまことに残念でなりません」と答えています。

「真面目」をモットーに

剣道部の活躍を伝える「東邦商業新聞」83号

東邦会の同窓会名簿に記載されていた原さんの自宅は埼玉県志木市。電話番号はすでに使われていない番号でした。自衛隊OB組織である埼玉県隊友会に問い合わせましたが、原さんは隊友会に入会しておらず、埼玉県志木市の原さんの住所に近い会員も原さんの所在は知りませんでした。旧陸軍士官の親睦団体で陸上自衛官の入会者もある偕行社にも入会していませんでした。

原さんも『東邦商業剣道部思い出文集』に寄稿していました。

「私は東邦生時代の5箇年間(昭和8年4月~昭和13年3月)、それまで病弱であった体を鍛えるべく、剣道部に席を置き、専ら心身の鍛錬に努めた。当時日本は、昭和の動乱期に入り、戦争への道をまっしぐらに進み始めていた。しかし、生徒である私たちは、巻脚絆(ゲートル)が義務づけられたものの、東邦の校訓である『真面目』をモットーとして、その本分を尽くしておれば非常時局といえどもまずは平穏であった。ところが、剣道部に入部した私たちはそうはいかなかった。授業後の稽古はことのほか厳しく、道場においては、誰も彼もが必死になり、竹刀を振りかぶっていた」

戦争への足音が強まる中、原さんが4年生だった1936(昭和11)年には陸軍青年将校らによるクーデター未遂である「2・26事件」が起きました。国は国民の精神高揚のため武道を奨励し、全国各地で青少年を対象にした剣道大会が華々しく開催されました。東邦商業の剣道部もこうした時代の中で、上級生の打ち下ろす重い竹刀に激痛を走らせ、痣をつくり、豆をつぶしながら練磨を重ねることで黄金時代を築き上げていきました。

激動の時代を体験した原さんですが、『東邦商業剣道部思い出文集』のための原稿を書いいていたころは、穏やかな日々を送っていたようです。「残り少なくなった歯の幾つかを抜歯した。その後、ようやく激痛も去り、腫れもひき、老人とは残酷なものだなあ!と苦笑していた矢先のことだった」。間もなく75歳を迎えようとしていたころでした。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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