検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第8回

野球部誕生への足踏み

1928

更新⽇:2017年6月15日

生徒チームに打ち込まれた“下出投手”

東京高商時代の下出義雄(前列左から2人目)

1928(昭和3)年10月1日「東邦商業新聞」13号に「先生チーム惜敗」という見出しの小さな記事が載っていました。「9月20日、東邦商業学校の校庭では、先生チーム対野球部1、2年チームの一大野球戦が挙行された」という仰々しい書き出しです。

記事は、「児童ボールでもボールの一種に相違なく、応援の生徒は先生チームに超大なる応援をなすという盛況であったが、先生チームの打撃、相続いて三振、惜しくも11-0で5回コールドゲーム。近く第2回戦ある由」とあります。

先生チームは「惜敗」ではなくコールド負けでした。先生チームの投手は下出義雄副校長ら3人。生徒チームのマウンドに立ち先生チームを完封したのは1年生の加藤源幸さん(6回生)でした。

『東邦商業学校東邦高等学校野球部史』(1994年発行。以後野球部史)によると、下出副校長は愛知一中(現在の旭丘高校)、神戸高商(現在の神戸大学)、東京高商(現在の一橋大)を通じて野球選手として活躍しました。愛知一中時代はテニス部でしたが、練習中に転がってきた野球部のボールを投げ返した肩の強さを見抜いた、「マラソン校長」とも呼ばれた名物校長の日比野寛校長によって野球部に引き抜かれ、レギュラー選手になったそうです。それだけに下出副校長は人一倍野球を愛し、関心を持っていたと言われていました。

東邦商業に硬式野球部が誕生したのは1930(昭和5)年5月。この記事に登場する「野球部」は、「児童ボール」(軟球)を使用した軟式野球部でした。硬式野球をやりたくて入学してきた生徒が多く、教員チームが手が出なかった加藤投手も、軟式野球部が硬式野球部に昇格するや、甲子園を目指すチームの初代エースとして活躍しました。

ひしめく赤萩運動場

1930年当時の運動場(4回生卒業アルバムから)

「先生チーム対野球部」の試合が行われた1928年は第1回卒業生が巣立った年です。全校生徒数は1000人足らずでしたが、赤萩校舎の運動場は蹴球(サッカー)部、陸上競技部のほか、籃球(バスケットボール)部、排球(バレーボール)部、庭球(テニス)部などがひしめき合っていました。この年に発足した軟式野球部は運動場に割り込むのに苦労し、思うような練習はできない状態でした。

部員は1、2年生が多く、練習日も限られていましたが、それでも日に日に活動を充実させていきました。「東邦商業新聞」16号(1929年1月12日)によると、1928年の年末には青年団チームと初めて練習試合を行い8-5で勝利しています。

野球は昭和時代の開幕(1926年)とともに人気が沸騰していました。甲子園大会は旧制中学校や実業学校の球児たちのあこがれでした。夏の大会は1915(大正4)年から全国中等学校優勝大会(大阪朝日新聞主催)の名称でスタート。春の大会は1924(大正13)年に選抜中等学校野球大会(大阪毎日新聞社主催)として第1回大会が名古屋で開かれました。野球熱の高まりの一方で、中等学校が尋常小学校の有名選手を特別待遇で獲得する争奪戦も激しさを増していました。

愛知県では愛知一中が1917(大正6)年の夏の甲子園で初優勝以来4年連続甲子園大会に出場するなど王者として君臨。東邦商業の開校と同じころ、私立実業学校が続々開校し、母校の看板を背負った野球部が甲子園をめざし猛練習を続けていました。やがて、中学校に代わって商業学校など実業学校の活躍が勢いづいていきました。

こうした中、東邦商業では硬式野球部の発足が足踏みを続けていました。ライバル校となる中京商業学校(現在の中京大中京高校)には7年も遅れを取ることになったのです。

鳴海球場の誕生

名鉄鳴海駅近くの自動車学校内に面影を残す鳴海球場跡

中京商業は東邦商業と同じ1923(大正12)年に開校。創立者である梅村清光(1882 ~1933 )は建学の精神として「学術とスポーツの真剣味の殿堂たれ」を掲げました。梅村は創立の年の3月、愛知一中の合格発表日、同校正門に立ち、落胆する不合格者に、中京商業の発足を知らせ、入学を呼びかけました。東海地区を代表する進学校であると同時に野球伝統校である愛知一中を意識し、「強い野球部」の創設を掲げての開校でした。

甲子園球場での野球人気に便乗しようと、全国各地で電鉄会社が球場を建設。愛知県でも愛知電鉄(現在の名古屋鉄道)により、名古屋市郊外(現在の緑区)に鳴海球場が1927(昭和2)年に誕生しました。東京の神宮球場、大阪の甲子園球場に並ぶ大球場建設の気運が高まる中での誕生でした。東海地区の野球熱は一段と高まり、中京商業は1928年、同球場で開催された第13回東海中等学校野球大会で初優勝を飾りました。

中京商に追いつき追い越せ

創部した野球部(後列右から2人目が小島コーチ、4人目が隅山部長)

東邦商業の硬式野球部発足が足踏みしたことについて野球部史は、下出義雄が野球を売名の手段として利用することを意識的に避けようとしたためと分析しています。しかし、現場教職員たちからは、「野球で強いと評判にならなければ生徒募集に不利」という指摘も相次ぎました。

野球部史は1929年度の生徒募集のデータを持ち出しています。東邦商業は募集人員150人に対し志願者は219人(1.46倍)でしたが、中京商業は募集定員250人に対し578人(2.31倍)の志願者がありました。野球部史は、教員たちからの「同種校に遅れをとらないためにも野球部をつくった方がいい」という声に加え、生徒たちからも「硬式野球部をつくりたい」という要望が一段と強まっていたことを紹介しています。

野球部創設を望む声の高まりに応えた下出義雄の決断で、1930年5月、軟式野球部を母体にした硬式野球部(以下野球部)が発足しました。野球部史は、「同年同月同日で全く同じスタートラインから出発した中京商業に対する特別な意識がないとすればうそになる。<中京に追いつき追い越せ>とでもいった思いは、よい意味でのライバル意識として盛り上がり、その練習には一段と熱がこもっていった」と記しています。

初陣の甲子園予選で善戦

東邦商業新聞25号(1930年8月19日)

野球部の指導体制は隅山(すみやま)馨部長、酒井貞雄監督、小島鉄次郎コーチの布陣でスタートしました。主将は5年生で4回生の水野明さんが努めました。初の公式戦は1930年7月25日、鳴海球場で開幕した第16回全国中等学校優勝大会(夏の甲子園大会)愛知県予選。野球部この試合に備え7月19日から25日、20人が参加して合宿を行いました。

東邦商業は3日目の1回戦で、名古屋商業学校(現在の名古屋市立商業高校)と対戦し、2―7で敗れました。名古屋商業学校はCA(Commercial Academy)の愛称で市民に親しまれた伝統校で、1922(大正11)年夏の甲子園にも出場しています。相手が甲子園出場の実績あるチームであったこともあり、野球部史は「創部初の公式戦としてはまずまずの戦績であった」と記しています。

「東邦商業新聞」25号(1930年8月19日)も、「予想を裏切られてファンも驚く戦績」という見出しを掲げて初陣での善戦を称え、以下の記事を掲載しました。

「新進の野球部は初陣であり、その成績を予想し難く、案じられていたコールドゲームにもならず、9回まで堂々と戦ったことは、非常なる心強さを覚えずにはおかなかった。正式に練習し始めて3か月を経ぬ野球部が予想外の好成績であったのは、出場を決定してからの猛練習と、部長始め、コーチ小島氏等の熱心な指導の結果である。下出副校長も出来た以上はやらねばならぬと力を入れているから、近い将来には、(野球部は)他の部と同様優秀なるチームに完成されるものと期待されている」

(法人広報企画課・中村康生)

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