検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第9回

甲子園への試練

1932

更新⽇:2017年6月27日

学校スポーツは広告ではない

背広左から2人目が隅山野球部長(1932年卒業アルバム)

野球部創部の直前に発行された「東邦商業新聞」23号(1930年2月28日)で下出義雄(以下義雄)は、「学校スポーツは決して売名策であってはならない」と強調しています。「我が校の運動精神」という見出しの署名記事で、「運動競技の優秀をもって一種の学校広告となし、人気取りとなし、売名策として激励しているものの如きは、根本に於いて精神を異にし、方法を異にしているということをご了解の上、吾々を信頼し、真に人格完成の上から奨励を願いたいと存じます」と訴えています。

義雄があえてこうした考えを表明した背景には、この時期、小学校、中等学校、大学を問わず、全国的に野球人気が過熱状態となり、文部省が規制の動きを強めていたことへの配慮があったと思われます。校主の下出民義は貴族院議員、義雄は名古屋市体育協会副会長でもありました。

文部省は1932(昭和7)年4月1日、鳩山一郎文部大臣名で「野球統制令」(以下、統制令)を出しました。無秩序な野球への規制に乗り出したのです。「野球ノ統制並施行ニ関スル件」という文部省訓令第4号 であり1932年3月28日官報に掲載されました。中等学校野球の管理は府県の体育団体に一括され、学校間の対抗試合も厳しく制限されることになったのです。

中京商業学校の野球部史である『中京高校野球部四十五年史』も過熱した野球ブームの弊害ぶりを振り返っています。電鉄会社や地方新聞社が、営利目的で中等学校の野球試合を頻繁に開催し、全国的に名の知れた人気チームは日曜や祭日ごとに各地の大会に招待されるようになりました。中京商業も60回以上に及ぶ試合をこなさなければならない状態だったといいます。

統制令の出される2年前に船出した東邦商業野球部。義雄は「学校スポーツは広告ではない」としながらも、「出来た以上はやらねばならぬと」(「東邦商業新聞」25号)と腹をくくったのです。強い野球部育成の責任者として初代野球部長を任されたのが隅山馨(すみやまかおる)(1894~1984、以下隈山)でした。

託された強い野球部づくり

練習に取り組む野球部(1932年卒業アルバム)

隅山は愛知一中を1914(大正3)年に卒業し神戸高商に進みました。同じように愛知一中、神戸高商に進んだ義雄の4年後輩で、伊藤忠商事勤務を経て1929(昭和4)年、35歳の時に教諭として東邦商業に奉職しています。

翌年には教務主任に任命されましたが、5月の野球部発足に伴い野球部長にも就任しました。『追憶の記』(東邦会)で隅山は、「教務主任の実際の仕事はほとんど森常次郎先生にお願いして、私は野球部に没頭しました」と書いています。

隅山が義雄から野球部長を託されたのは、義雄とともに、愛知一中に自由の校風を確立し、生徒たちに勉強と運動を徹底させた名物校長・日比野寛の教えを受け、義雄が隅山を信頼して事を任せられる後輩であると信じていたからでしょう。

隅山は1936(昭和11)年には、日比野が創立し、義雄が経営を引き継いだ金城商業学校(名古屋育英学校・育英商業学校を改組)の校長を任されたほか、1941年には義雄に続く第3代東邦商業校長に就任。1965年には東邦学園短期大学の初代学長も務めています。

素人野球部長の熱血指導

創部当時の思い出を語る岡田さん(奥)と祖父江さん(手前)

野球部初の公式試合はこの連載第8回で紹介したように、第16回全国中等学校優勝大会愛知予選(夏の甲子園予選)での1回戦敗退でした。対戦した名古屋商業戦で東邦のマウンドに上がったのは3年生の加藤。1年生の時、児童ボールで下出副校長ら先生チームを5回0点に抑え込んだ6回生の加藤源幸さんです。加藤さんの球を受けた捕手は4年生の岡田。連載第6回で紹介した、就職先を求めて満州国に向かった5回生の岡田貢さんです。

『東邦商業学校東邦高等学校野球部史』(1994年刊、以下野球部史)に収録された「野球部創部当時の思い出」の中で、岡田さんと、この公式戦初陣にセンター2番打者として出場した3年生の祖父江義文さんが、隅山の熱血指導ぶりについて語っていました。

野球では素人とはいえ、学生時代はボートの選手だった隅山は何事も徹底しなければ気が済まぬ気性で、部員たちを厳しく指導しました。練習は日が暮れて、ボールが見えなくなるまで続けられ、ボールが見えなくなるとランニングに移りました。足の遅い捕手の岡田さんは隅山と競争させられ、勝つまで続けさせられたそうです。

バッティング練習で隅山はマスクをつけずに捕手の後ろに立ち、顔面に打球を受け鼻骨が折れ曲がり、その痕跡は後まで治ることはありませんでした。

積雪だった日曜日の朝。岡田さんも祖父江さんも「きょうは練習は休みだ」と決め込んで朝寝をしていると、隅山から「野球場は雪は降っていない。早く出て来い」と呼び出されました。自転車で駆けつけると内野はきれいに除雪されていました。隅山が率先し、早朝から出てきて下級生たちとともに雪かきをしていたのです。隅山はそのために風邪をひいて、2日ほど休むはめになってしまいました。

隅山は東邦学園短期大学後援会発行の『邦苑』3号(1982年3月1日)への寄稿で、ボートとの関わりについて次のように書いています。

「私は中学2年の秋頃から、直接校長先生からボートの選手になることを命ぜられまして、毎日熱田の海まで行って、猛烈な練習をしましたが、翌3年生の夏、琵琶湖のボート・レース(全国大会)へ出場の後、心臓脚気となり、それがさらに悪化して2年間休学しましたが、そのお陰で健康に注意するようになりまして、87歳の今日まで行きています」

この寄稿が掲載された2年後、隅山は90歳の生涯を終えました。

立ちはだかる甲子園3連覇に挑む中京商

卒業アルバムに掲載された隅山の激励文

創部2年目の1931年夏。第17回全国中等学校優勝大会愛知予選も鳴海球場で7月23日から開催されました。野球部は合宿での猛練習を経て挑み、1回戦は名二商(現在の名古屋市立西陵高校)に11-5で快勝しました。

2回戦の相手は中京商業。東邦はヒット6本と中京商の5本を上回ったものの9失策を重ねて0-5で完敗しました。2試合とも加藤さんはサード、祖父江さんはライトを守りましたが、5年生として最後の夏だった捕手岡田さんの名前はメンバー表にはありませんでした。

中京商は愛知予選から東海大会を経て夏の甲子園に初出場。勝ち進んだ決勝戦で嘉義農林(台湾)を破り初優勝。1932、1933年と連覇し球史に残る夏の甲子園3連覇を達成しました。

岡田さん、祖父江さんの「野球部創部当時の思い出」によると、隅山はこの創部2年目の夏、予選前の合宿中に子どもを亡くしました。死に目にもあえず、葬式をすませた翌日のグランウンドには悲しみをこらえた隅山の姿がありました。岡田さん、祖父江さんは、野球部員たちが隅山からいろいろな面で強い精紳的な感化を受けたことを語っています。

義雄も『追憶の記』で、「野球部の指導の任にあたられた隅山先生は明けても暮れても炎天に立ち、寸刻も腰を落としたこともなかった。熱意と努力は永久に忘れられない」と書いています。

岡田さんら5回生(1932年3月卒)の卒業アルバム。卒業生たちに囲まれた隅山の記念写真の下に、隅山の激励文がありました。「常に冷静に、快活に、清新に、男性的にてあれ」。

 

過去は毎日しぼる汗に瀧と流れせしめよ

朝日新聞に掲載された中京商業の人気ぶりのイラスト

創部3年目の1932年夏も東邦は、第18回夏の甲子園愛知予選は2回戦で中京商業に2-10と7回コールド負けを喫しました。野球部史には、鳴海球場で行われた中京商業対東邦商業戦を見ようと、球場に入れなかったファンが一般住宅の屋根の上から観戦している様子を朝日新聞に掲載されたイラストをとともに紹介しています。

甲子園への道は創部4年目の1933(昭和8)年もまた2回戦で途絶えました。7月25日、鳴海球場での1回戦は尾張中学に16-1と5回コールドで圧勝したものの2回戦で、第16回大会での初陣で敗退した名古屋商業にまたも5-8で敗退しました。5回に連続四球と失策で一挙に7点を奪われたのが致命傷となりました。

「東邦商業新聞」46号(1933年7月15日)には4年目の甲子園予選に挑戦する野球部の熱い思いが伝わってくる記事が掲載されていました。

「男性的なる哉 夏! 炎天下に鍛ふる東邦健児の肉体」という見出しで各運動部の活動ぶりをまとめた記事です。以下は野球部の内容です。

「汗と涙にまみれてここ数か月、今や我等が若き命をかける朝日大会(夏の甲子園大会は朝日新聞社主催)が目前にせまりつつある。ここに於いて、7月9日より16日まで、学にも優なる我が東邦ナインは、試験中にも第1次合宿練習をなして、スタデイ、スポーツの両道に悠々たるを示し、試験終了とともに本格的合宿練習に移って、東海大会に精根をつくさんとするものである。過去は我等が毎日しぼる汗に瀧と流れせしめよ。未来に生きてこそ我等が若きチームの発展があるのだ」

4度目となる夏の甲子園挑戦で涙をのんだ東邦商業。しかし、甲子園での初出場、初優勝で隅山が部員たちと歓喜の涙にむせび、義雄とともに喜びを爆発させるのは翌春1934(昭和9)年のことでした。

(法人広報企画課・中村康生)

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