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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第10回

甲子園初出場①

1934

更新⽇:2017年7月7日

感激に校舎が揺れた

甲子園での初陣に挑む東邦商業(アルバムから)

東邦商業学校野球部は創部から5年に満たない1934(昭和9)年春、ついに甲子園初出場を果たすとともに一気に頂点に駆け上がりました。第11回選抜中等学校野球大会(センバツ)で、0―1で迎えた延長10回裏、2-1の逆転サヨナラで浪華商業(大阪)を下し奇跡的とも言える初優勝を飾ったのです。東邦はこの大会から戦争で中断される直前の第18回大会(1941年)までセンバツに連続8回出場し3回の優勝を重ね、夏の甲子園にも2回出場を果たしました。83年前の1934年は、東邦野球部の第1次黄金時代が幕を上げた年となりました。

東邦のセンバツ初出場では、出場校選考に大きな影響を与える愛知八中等学校野球リーグで東邦は中京商、享栄商に続く3位に終わりました。「出場は微妙ではないか」。東邦関係者の期待と不安が入り混じる中で開催された大阪毎日新聞社での選考委員会では中京商、享栄商の出場決定は早々決まりましたが東邦についての決定は遅れました。

野球部長の隅山馨は待ち続けた朗報が飛び込んできた時の感動を、「一度挫折しかけたチームを昨年8月に再組織し、せっかくやり直すならば天下のひのき舞台である甲子園に出場したいと一同、深く決意していただけに、決意が水泡に帰するのではないかと心配した。選抜の光栄に浴し非常に感激し、ベストを尽くしてやるというほかこの際言葉がないほどでした」と振り返っています。(『春の甲子園に於ける初陣の優勝を顧みて』=1934年9月、東邦商業学校)

10回生(1937年卒)の加藤義谷さんは『東邦』(東邦学園生徒会発行)の第6号(1964年4月)に、やがて3年生になろうとする春、野球部に甲子園初出場が決まったことを知らせる通知が届いたときの感動を「全校生の感激に校舎が揺れ動いた」と書きました。

活躍した兄を偲ぶ

優勝旗を手にした河瀬と立谷(アルバムから)

第11回大会の出場校は20校。東海地方が「野球王国」と言われた時代を象徴するように東邦商業とともに、中京商業、享栄商業、岐阜商業、静岡商業の強豪校の名前が並びました。出場選手には1回戦で堺中学を相手に17三振を奪う快投を見せた京都商業の沢村栄治(元巨人)、呉港中学の藤村富美男投手(元阪神)、中京商業の野口明捕手(元中日監督)、和歌山中学の宇野光雄(元国鉄、大毎監督)ら後にプロ野球で活躍した選手たちもいます。

東邦商業のセンターで主将の河瀬幸介(8回生)とエースの立谷順市(10回生)はいずれも関西出身で、甲子園をめざそうと「野球王国名古屋」の東邦に入学してきた選手たちでした。『東邦商業学校東邦高等学校野球部史』(野球部史)には2人の弟がそれぞれ兄たちの思い出を書き残しています。

河瀬の弟澄之介さんは2006年に80歳で他界していますが、奈良市に住む長男の宗一さん(59)が東邦野球部の大ファンだった河瀬家の人たちの思い出を語ってくれました。

 

8回生(1935年3月卒)の卒業生名簿によると河瀬の実家は兵庫県武庫郡本山村(現在の神戸市灘区)。宗一さんによると、祖父虎三郎さんは生地関係の事業で成功した資産家で、8人の子供のうち2番目が長男の河瀬、下から2番目が澄之介さんでした。東邦が甲子園に初出場した時、東邦商業5年生の河瀬は19歳、澄之介さんは8歳の小学生でした。

野球部史に寄せられた澄之介さんの文章によると、野球が何よりも大好きだった河瀬は大阪の中学校から東邦商業に転校しました。野球部史の記録には1933(昭和8)年3月22日の対中京商業戦から1番センターでレギュラー出場しています。

虎三郎さんの名古屋の親友宅に寄寓した河瀬は野球に熱中。ほとんど神戸の実家には帰らず、澄之介さんには兄と一緒に生活した記憶があまりなかったそうです。それでも、たまに神戸に帰ってきた時は長男らしく皆にお土産を買ってきてくれ、弟や妹たちにはやさしい兄でした。

家族の中で東邦の野球に最も熱中したのが虎三郎さんで、試合があるたびに神戸から名古屋に応援に出かけるほどでした。東邦のセンバツ出場が決まった時は家中が大騒ぎとなりました。虎三郎さんは全試合8日間の連続切符を6枚続き番号で購入。母親は6人座れる長さ3mほどの座布団を作りあげ、ぐるぐる巻きした座布団を家族交代で担ぎながら甲子園に通ったそうです。

河瀬家は灘中学校のすぐ近くにありました。東邦商業の練習が灘中校庭で行われた時は、河瀬家は大きなやかん2つに冷たい麦茶を入れ、大箱いっぱいの菓子パンとともに運び込みました。そして虎三郎さんは選手たちの宿舎である若狭屋旅館に、陣中見舞いとして毎日牛肉2貫目(7.5㎏)贈り、食べ盛りの選手たちを応援しました。

母校に届いたアルバム

応援に使われた虎三郎さんの扇子(アルバムから)

河瀬は東邦商業を卒業後、慶応大学に進み東京6大学リーグでも活躍しましたが、1944年11月、ニューギニアの北西部のビクア島で戦死しています。野球部史に寄稿した澄之介さんは、「東邦商業は甲子園に初出場して優勝するという偉業を成し遂げましたが、兄幸介が主将を務める栄誉を担うことができたのは、短かった兄の人生での最も幸せな出来事だっただろうと思っています」と書き残しています。

虎三郎さんは甲子園での感動の記録を一冊のアルバムに残していました。1934年3月28日から閉会式までの8日間の東邦商業の野球部に関する記録を収めたアルバムが、澄之介さんから東邦高校に贈られたのは1988(昭和63)年4月5日のことでした。学園倉庫に保存されていたアルバムを開くと、最初のページに「栄冠東邦に輝く」という河瀬が優勝旗を受け取っている表彰式の写真が掲載された新聞の切り抜きが張ってありました。「昭和9年月7日午後4時」という虎三郎さんの書き込みがあり、この日(大会8日目)の入場指定席券、「東邦」「優勝」と書き込んだ紙片も張られていました。ページをめくると優勝旗を受け取る瞬間の河瀬の表情を捉えた写真がありました。甲子園球場近くの若狭屋旅館でくつろぐ東邦の選手たち、勝ち進む東邦についての新聞記事、スポーツ誌の特集記事からの切り抜き、名古屋に凱旋後の校主下出民義、校長となった下出義雄らと選手たちとの記念写真なども収められていました。スタンドから声援し続けた虎三郎さんの「虎」の字が見える日の丸の扇子も張られていました。

澄之介さんは灘中学、甲南高校から大阪大学に進学。日本光学(現在のニコン)と並ぶ光学機器メーカー東京光学(現在のトプコン)の技術者として同社初の一眼レフカメラ「トプコンR」を開発しています。光学機器の世界では著名な澄之介さんでしたが、東邦高校がセンバツで4回目の優勝を勝ち取った1989(平成1)年春、澄之介さんも甲子園の東邦応援席から兄の母校への声援を送り続けました。

 

 

不屈の精神を永久ならしめよ

初優勝を伝える「東邦商業新聞」51号1面

奇跡的な東邦の甲子園での初出場、初優勝での感動を書きつづり、母校の新聞に投稿してきた卒業生もいました。「東邦商業新聞」51号(1934年5月12日)には2回生(1929年卒)の山田敏雄さんの投稿が2面に掲載されました。(要旨を抜粋)

ああ、とうとう我が校が優勝したか、ダークホースとして初出場の東邦商業、我が校が。享栄、中商を尻目に見て。勝った、勝った、勝った。我が校がしかも優勝だ。又よく中商、享栄2校の仇を討ち取ったのだ。

我が心は躍り、目には嬉し涙がいっぱいにあふれている。無意識に又泣きたい様な気もした。否、実は泣いた尊い涙が両頬をつたわった。

諸君!卒業生の僕としてこんなにうれしい事は今初めてだ。僕は出場の始めから我が校優勝を神に祈っていた。その甲斐が今現れたのである。何がして我が校をかくならしめたのか。それは他ならぬ輝く東邦商業の不屈の精神だ。創立以来、綿々として伝わるその精神だ。創立日尚浅く、未だ歴史を有せざる野球部にして、かくあらしめたのだ。おおこの不屈の精神を永久ならしめよ。ああ輝く東邦商業よ!前途盛々光栄あれ。

戦場に散った主将とエース

甲子園歴史館の第11回選抜中等学校野球大会パネル

立谷順市の弟唯夫さんも野球部史に「我が兄を偲ぶ」という一文を寄稿していました。唯夫さんによると、兵庫県淡路島の尋常高等小学校のエースだった立谷は1931年に京都で開催された全国少年野球大会に出場しチームを準優勝に導きました。優勝決定戦の相手は一宮中学で下出義雄副校長が観戦しており、立谷は義雄に声をかけられて東邦商業に入学しました。硬式野球部創部には慎重だった義雄でしたが、有望な小学生選手獲得のため、創部翌年には自らスカウト活動に乗り出していたことになります。

甲子園での立谷について伝える新聞の中には「立谷君の父君は1週間前から仕事など手につかぬと、本職のミシン業を打ち捨て、勝利祈願の神参りやら応援団回りやら全く席の温まらない熱心ぶり」という記事もありました。記事は、立谷の試合日には淡路島から200人の応援団が駆けつける計画があることも紹介していました。

東邦商業から専修大学に進んだ立谷も東都大学野球リーグで活躍。1943年に卒業とともに、名古屋の東邦ガスに入社しましたが、間もなく応召。1944年3月、南方戦線のブーゲンビル島で戦死しましています。

甲子園球場内の甲子園歴史館には春・夏甲子園大会の歴代優勝校紹介のパネルコーナーがあります。東邦が初出場、初優勝を飾ったセンバツ第11回大会の紹介パネルには、大会歌「陽は舞いおどる」が誕生したこと、アドルフ・ヒトラーのドイツ「総統」就任、満州国での帝政実施という第2次世界大戦に向かう緊迫漂う欧州、アジアのニュースと、日本のニュースとして「大日本東京野球倶楽部」(現=読売ジャイアンツ)結成というプロ野球誕生の動きを紹介しています。

河瀬と立谷が戦場に散ったのは東邦商業の甲子園初舞台の年から10年後、翌年には終戦を迎える大戦末期でした。

法人広報企画課・中村康生

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