検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第12回

甲子園初出場③

1934

更新⽇:2017年7月20日

ランニング本塁打の明暗

10回裏、岡田に続き決勝のホームを踏む片岡(アルバムから)

享栄商業との準決勝で延長戦、再試合を制し待望の決勝初進出を果たした浪華商業。初出場ながら京都一商、明石中、海南中を倒し勝ち進んだ東邦商業。第11回選抜中等学校野球大会注目の決勝戦は3月7日午後2時5分に試合が開始され、浪商の納家米吉(5年)、東邦の立谷順市(3年)の両エースの投手戦となりました。
東邦は前半3回まで徹底的にボールを見極め、享栄戦で2日間投げ抜いた納家にさらに球数を投げさせる戦術を取りました。しかし、納家の制球は乱れることなく、東邦は戦術を切り替えたもの試合は0-0で延長戦に突入しました。
延長10回表、浪商の攻撃。2死から納家の大飛球はライト頭上に。東邦の安井鍵太郎(4年)が懸命に追いグラブに収めたと思われましたが転倒。球がこぼれる間に納家は一気にホームに駆け込み、ランニングホームランとなり、この大会唯一の本塁打が記録されました。
球場を揺るがす大歓声。浪商が1点を守り切れば初優勝が決まる10回裏の東邦の攻撃。納家は全力疾走の呼吸も整えられぬままマウンドに上がりました。納家の次打者が初球レフトフライに終わってしまったためです。納家はプレートに立っても肩が大きく揺れるほど呼吸が荒れていました。
東邦は先頭の岡田福吉(3年)が四球で出塁。続く片岡博国(5年)の2塁ゴロを二塁手が無人の1塁へ投げて東邦に無死2、3塁と願ってもないチャンスが転がりこんだのです。そして村上一治(4年)の一打は右中間を破り、岡田、片岡が相次いで生還。劇的な東邦の逆転サヨナラ勝利、初優勝が決まりました。

 

浪華商業000 000 000 1=1
東邦商業000 000 0002x=2

その瞬間、みなが泣いた

優勝旗を受け取る河瀬主将

野球部長の隅山馨は決勝戦前夜、校主である下出民義から「見苦しからぬ試合をせよ」との電話を受けていました。『春の甲子園に於ける初陣の甲子園を顧みて』(以下「顧みて」)に優勝が決定した時の隅山の感極まった思いが書かれていました。
「納家投手の本塁打には全くギャフンと言わされました。しかし、その裏、攻撃に回った時には、選手一同には、健気にも何とか物にしようという気迫がみなぎっていましたので、これはひょっとすると勝つかとの予想を得ました。運も良かったのですが、ランナーを2、3塁に置いての村上の一撃は我が野球部に忘れ得ぬ歴史を作ったものと思います。今から考えればはずかしい様にも思いますが、本田正二郎コーチと抱擁して泣きました。選手たちも皆泣いていました。村上はベンチへ泣き込んで来ました。あの心持はどうしても説明できませぬ」
下出義雄はこの年(1934年)1月18日、副校長から校長に就任していました。学園創立以来、象徴的存在として基礎固めに尽力してきた大喜多寅之助が健康上の理由で辞任。義雄は経営不振の大同製鋼の再建のため1931年6月から社長職にありながらの就任でした。この年43歳でした。
決勝戦の日、「新愛知新聞」によると、義雄は名古屋市中区南大津町の自宅でラジオの実況中継に聞き入っていました。10回表、納家のホームランが生まれた時は、これで浪商の勝ちかと失望落胆。サダ夫人が気付け薬を持ち出したほどでした。ところが、10回裏となるや東邦が猛然と逆襲しての逆転劇。サイレンが鳴り響いたその刹那、両眼から長らくご無沙汰していた涙が雨のごとく流れ出るのを止めることができませんでした。
東邦商業では庶務室のラジオの前に全職員が集まって、中継を一語も聞き漏らすまいと目を鋭いまでに緊張させて聞き入っていました。納家の本塁打が飛び出した時、一同がまゆをひそめて黙り込みました。しかし10回裏、息を殺して聞いている中での村上のヒット、岡田、片岡の生還。サイレンの音。それからはアナウンサーが何を言っているかもう分かりませんでした。職員室に万歳の歓声が上がりました。湧き上がる拍手。ラジオの前で抱き合う教員たちもいれば、神前に手を合わせる教員もいました。学校のサイレンが勝どきをあげるようにけたたましく鳴り響きました。

全国に発信されたマーキュリーの校旗

マーキュリーの校旗とともに東邦優勝を全国に伝えた紙面

河瀬幸介主将の父虎三郎さんが残したアルバムに収められた4月8日の大阪毎日新聞記事に、大会8日目の指定席券が張られた写真記事とは別に、優勝旗授与式の本文記事がありました。主催した大阪毎日新聞社の「奥村本社専務より東邦の河瀬首将へ」という見出しの「東邦の河瀬首将へ」の部分に朱色の線が引かれています。

この当時、キャプテンは「主将」ではなく「首将」と表記されていますが、他の記事でも登場する「河瀬首将」の字には朱色の線が目立ちました。虎三郎さんは、何よりも嬉しい息子の活躍をアルバムに記録し、後日、改めて確認していたのかも知れません。

アルバムには優勝旗を受ける河瀬主将の表情を捉えた大判写真の実物も張ってありました。左下に「Copyright by The Osaka Mainichi」の印があり、虎三郎さんが新聞社撮影の写真を手に入れていたことも分かりました。

記事によると、優勝旗授与式の後、東邦商業の選手一同はセンター方向に行進します。「スコアボードの塔上にそびえ立つ百二十尺(36m)のセンターポール」前に選手たちが粛然と整列。この後、記事は「鳴り響く校歌の奏楽とともに若き胸に迫る最高の感激にふるえつつ、まず白地に染めたマーキュリーに永遠の誇りを込めた校旗を静かに降下、続いて荘重な君が代が奏でられるとともに、誉のナインによって大日章旗がスルスルと降ろされた」と書かれています。

東邦商業学校の校旗には商業の神マーキュリー(メルクリウスの英語名)をあしらった校章が使われました。戦後、新制高校としての出発では、平和への誓いをこめて、鳩とペンを組み合わせた現在の東邦高校校章となりましたが、デザインは東邦商業学校時代のものを継承しています。

この年(1934年)も含めて卒業アルバムに収められている校旗を見ると、写真がモノクロのため色は分かりませんが濃い色地中央に白地のマーキュリーという構図です。ところが甲子園のセンターポールに日章旗とともに掲揚された東邦校旗は白地にマーキュリーが染められたものでした。

同じ日の大阪毎日新聞の優勝決定の記事にはその白地のマーキュリー校旗の写真が掲載されていました。東邦商業の校旗が甲子園から全国に発信されたもちろん初めてのケースでした。

 

「燕」は名古屋へ

名古屋駅に凱旋した東邦ナインを祝福する市民

名古屋へ!母校へ!優勝翌日の4月8日、凱旋する選手たちは大阪発午後1時の特急「燕」で名古屋をめざしていました。列車にはこの日名古屋から大阪に駆けつけ、選手たちとあいさつ回りをすませた下出校長も乗り込んでいました。選手たちは1号車と5号車に陣取っていました。凱旋を祝福するかのように紺碧に輝く琵琶湖を通り過ぎたころ、隅山が選手たちを5号車に集めました。
「名古屋駅では大変な歓迎を受けることになっている。みんな鼻を高くするなよ。ひげの長くなったことはいいが、決してだぞ」と申し渡しました。
「燕」の名古屋到着予定は午後3時46分。枇杷島を過ぎ、名古屋駅が近づいてきたころ、車窓には大阪毎日新聞社機が選手たちの凱旋を空から撮影しようと低空飛行していました。以下は「東邦ナイン晴れの凱旋」という大阪毎日新聞の記事です。
初出場でありながら第11回全国選抜中等学校野球大会に見事優勝した東邦商業ナインは8日午後3時47分名駅着の上り「燕」で帰名した。晴れの優勝旗を迎えるファン関係者のおびただしい群集は駅頭を埋め、「祝優勝」の紅白とりどりの長旗が駅前を圧して、まさに野球狂時代が「夏」から「春」へ移動した盛観――。列車が到着すると母校東邦バンドの晴れやかな凱旋曲がプラットホームに流れる。ファンの歓呼これに応酬して駅頭の歓喜はここにクライマックスを形成する。

50台に及ぶ自動車のパレードが始まりました。紫紺の大優勝旗は黒の制服に身を包む河瀬主将の手にしっかりと握られて駅前から広小路へ。栄町を右折し熱田神宮に奉告。午後6時、赤萩の母校に。選手たちは校庭に整列した全校生徒を前で戦勝報告式に臨みました。この後、講堂では盛大な祝勝会が開かれました。
虎三郎さんのアルバムには、名古屋駅上空から撮影された「東邦ナインの凱旋」を伝える大阪毎日新聞の写真記事が大きく収められていました。そして、アルバムに張られた大会中の「個人打撃率順位」「チーム打撃率」の記事の隣には4月9日「名古屋より乗車」の「燕」特急券が張り付けられていました。改札挟みが入っています。河瀬さんが大阪の中学校から野球王国と言われた名古屋の東邦商業に転校以来、何度も名古屋に足を運んでいた虎三郎さんは、甲子園から凱旋したわが子の雄姿を名古屋でしっかりと見届け、神戸に戻ったのでしょう。

甲子園、祝賀会を詠む

4月9日名古屋発の「燕」特急券

「東邦商業新聞」51号(1934年5月12日)は1面トップ記事で「荘厳なる哉!我らが野球部の凱旋」と野球部優勝を伝えたほか各ページで甲子園初優勝の記事を特集し野球部の快挙を称えました。5面の文芸欄も祝賀紙面です。
勝崎猪之助教諭(子甲)の詠んだ歌です。
いだき合ひて今泣きてゐむ優勝の覇業をとげし東邦ナイン
胸せまりゐたへぬまでのピンチなりラヂオのスイッチ断たんと思ふ
教え子の鎬(しのぎ)をけづる甲子園ラヂオ聞くも命ちぢみぬ
勝たせでは置かじと立谷のたらちねの親は水垢離をとる
短歌部の指導者である加藤今四郎教諭も4月8日に校内で催された祝賀の歓迎会での感動を詠みました。
4月8日甲子園凱旋の勇士を迎えて感激極まれり
感激の涙にむせぶ選手たち面伏せがちに席につきおり
やうやくに面あげて「ありがたう」と主将河瀬の答辞はひと言
ファンたまらず校主閣下も一言の感想述べといひせまりたる
優勝のもとづく所校訓の「まじめ」にありと校主のよき言
感激にむねとざされてとなりの人いぶかるまで匙(さじ)とらでをり

(法人広報企画課・中村康生)

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