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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第13回

甲子園初出場④

1934

更新⽇:2017年7月25日

「松坂屋バンド」に先導されて

行進は松坂屋交響楽団に先導されて

河瀬幸介主将の父虎三郎さんの残したアルバムに張られた大阪毎日新聞記事によると、甲子園初出場、初優勝を果たした東邦商業の晴れやかな校歌奏楽、場内行進の先導は「松坂屋バンド」によって行われました。アルバムには「大会における名古屋松坂屋のバンド」の写真もありました。
松坂屋の史料を管理するJ.フロント リテイリング史料館(以下史料館)によると、松坂屋は1924(大正13)年に名古屋の山本球場(八事)で開催された第1回全国選抜中等学校野球大会から開会式演奏を担っていました。「いとう呉服店(松坂屋の前身)少年音楽隊」として、大阪店からの応援も含め20人が、「ワシントン・ポスト」「星条旗よ永遠なれ」「双頭の鷲の下に」「アルトカメラーデ」の軽快なメドレーを演奏しました。 詰襟に金淵をつけた音楽隊が選手たちと一緒に行進していたのです。
センバツは第2回から甲子園に舞台を移しましたが、松坂屋による大会での演奏は第15回大会(1938年)まで続けられました。楽団名は松坂屋少年音楽隊:1925(大正14)年5月1日~、松坂屋管弦楽団:1932(昭和7)年~、松坂屋シンフォニー:1935(昭和10)年3月1日~と楽団の発展に合わせて変わりました。1938(昭和13)年12月1日には活動の拠点を東京に移し、甲子園での演奏活動を終了し、名称も中央交響楽団としました。そして戦後の1948(昭和23)年には現在では日本最古のオーケストラとして知られる東京フィルハーモニー交響楽団(東フィル)と改称します。
東邦商業が初出場した1934年の第11回全国選抜中等学校野球大会で、新聞に「松坂屋バンド」と書かれたバンドは、正式名称が松坂屋管弦楽団だったのです。松坂屋大阪店のものと見られる「阪営販売時報」(1934年4月1日号)には「名古屋松坂屋管弦楽団は例年通り第11回大会伴奏のため3月27日来阪、27日より連日甲子園野球場に於いて奏楽、並びにラヂオにて全国のファンへの妙音を送っております―」と書き残されていました。
第11回大会からは新しい大会歌「陽は舞いおどる甲子園」(陸軍外山学校軍楽隊作曲)が誕生していました。第8回大会に誕生した大会歌に、「オール日本」「ヤング日本」の洋語が入っていることが、戦時色が強まっていく世相もあって問題視されたためでした

紫紺の大優勝旗も松坂屋が寄贈

阪神歴史館に展示されている初代の紫紺大優勝旗

東邦商業の河瀬主将が授与式でしっかりと手にした紫紺の大優勝旗も松坂屋が製作して第1回大会で寄贈したものでした。大阪毎日新聞は河瀬主将が受け取った優勝旗を、「黄金の房重々しく濃紫紺の地に輝くVICTORYの金字と半月形の緑の月桂樹に、全国制覇の誉れに薫る大優勝旗」と書いています。縦90cm、横135cm、金糸、銀糸の総刺しゅう、金糸の房がついた豪華な優勝旗でした。
東邦商業は初出場初優勝の第11回大会以降、選抜大会には8回連続出場。第16回(1939年)、そして戦前最後の大会となった第18回(1941)年も優勝に輝きました。
第18回大会で東邦商業が優勝したこの年、太平洋戦争が開戦となり、甲子園での中等学校野球は中止となりました。東邦商業は戦後1947(昭和22)年に第19回大会が復活するまで6年間、紫紺の優勝旗を守り続けました。
この間、1945年3月19日夜の名古屋大空襲では、当時東区赤萩町にあった東邦商業校舎にも次々に焼夷弾が落とされ体育館と倉庫を焼失しました。紫紺の優勝旗が置かれていた校長室も焼失の危機にさらされましたが、教職員が一丸となって優勝旗を戦火から守り抜いたのです。

東邦から復活甲子園に還った大優勝旗

戦後初の第19回大会で松林主将から返還された優勝旗

1947年3月20日から甲子園で開催された戦後初となる第19回全国選抜中等学校野球大会。愛知県からは享栄商業と津島中学が出場しましたが、東邦商業によって戦火の中で守り抜かれた紫紺の大優勝旗は山中英俊野球部長(2回生)、松林十二主将(21回生)、近藤賢一副主将(同)らによって甲子園での開会式に持ち込まれ、返還されました。
「焼けてしまっただろう」と思われていたあの大優勝旗の東邦商業からの返還は、全国の野球関係者や野球ファン、そして国民に大きな感動を与えました。
戦火をくぐった大優勝旗は第34回大会(1962年)まで使われましたが、金の刺しゅうが黒ずむなど傷みも目立ちだしたため第35回大会(1963年)からは新調された2代目優勝旗が使われました。
初代優勝旗は大阪市西区の日本高等学校野球連盟事務局のある中沢佐伯記念野球会館に保存された後、阪神甲子園球場内に2010年にオープンした甲子園歴史館に移され常設展示されています。掲載した写真は甲子園歴史館からデータを送っていただいたものです。

 

34年後の「光はトーホーより」

「光はトーホーより」の掲載写真

虎三郎さんが残したアルバムの後半に、突然、34年の歳月がタイムスリップしたかのように、1968(昭和43)年2月28日に毎日新聞に掲載された記事が現れました。この年開催されたセンバツ第40回大会を前に、「センバツ高校野球栄光のあゆみ」という連載の30回目で、甲子園初出場、初優勝を果たした東邦商業を取り上げていました。「光はトーホーより」のタイトルの記事に使われた写真は、優勝旗を手にした河瀬主将を先頭に熱田神宮に初優勝を報告参拝する東邦商業ナインと、野球部長だった隅山馨の顔写真でした。「初出場で栄冠をさらう 愛知の新鋭 東邦商が快挙」の見出しで、東邦の第11回大会での優勝の足跡をたどり、以下のように締めくくられています。

 

――「光はトーホーより」。いかにも東邦商には希望にあふれた言葉があった。ときの野球部長隅山馨先生は、野球になみなみならぬ情熱を注いだが、そのオツムが、若くして見事にハゲあがり、見事な光を放っていたことから、悪童たちがつくった”名言”である。
だが、これは決して生徒が先生をヤユする言葉には終わらなかった。ちょうど昭和9年の元日は、名古屋地方は珍しい大雪。翌日、大事な選考資料になる試合があるというので、選手は元日早々から練習を予定していた。「この雪ではダメだな」と思いながらナインが登校すると、何と内野の雪がすっかり除かれているではないか。隅山部長が、オトソもそこそこに駆けつけ、除雪したのだった。
選手たちは感激した。先生の体から本当に神々しい光がさしているようだった。そしてみんな発奮し、初陣・東邦は、甲子園で”珠玉の光”を放ったのである。――

 

河瀬がニューギニアで戦死したのは1944年11月。野球とともに青春を生き、戦場に散ってからすでに24年の歳月が流れていました。虎三郎さんは80歳を迎えていました。刀剣の収集鑑定家としても著名でしたが、わが子を甲子園に導いてくれた恩師の記事を、天国の息子に届けたかったのかも知れません。

 

第11回大会出場選手たち

慶応大の新人河瀬(左下)を紹介した記事

『春の甲子園に於ける初陣の優勝を顧みて』(東邦商業発行)に第11回センバツ大会出場の東邦商業の選手一覧が紹介されていました。出身校(尋常小学校)は県外の立谷、河瀬以外は愛知県内。西枇杷島、一宮第二、棣棠、八熊出身が2人ずついます。進路希望では大学に進学して野球を続けたいという選手が目立ちます。掲載年齢は数え年でしたが満年齢にしました。

主将の河瀬も慶応大学に進学。虎三郎さんのアルバムには東京6大学野球リーグの1935(昭和10)年のシーズンを前にした、河瀬ら期待の新人を紹介した記事の切り抜きもありました。

立谷順一  3年 17歳 投手 三高     早大野球
渡邊利吉  3年 17歳 捕手 西枇杷島  早大野球
村上一治  4年 17歳 一塁 橘       早大野球
岡田福吉  3年 17歳 二塁 一宮第二  会社勤務
熊谷直之  4年 18歳 三塁 橘       会社勤務
浅井長治  4年 16歳 遊撃 西築地    高商入学
片岡博国  5年 18歳 左翼 棣棠      会社勤務
河瀬幸介  5年 18歳 中堅 船場      大学野球
安井鍵太郎 4年 16歳 右翼 八熊     会社勤務
伊藤義雄  3年 15歳 補欠 西枇杷島  会社勤務
池田一夫  3年 15歳 補欠 棣棠     会社勤務
今枝 昇  5年 17歳 補欠 八熊      家業従事
後藤保雄  2年 16歳 補欠 一宮第二  会社勤務
高木良雄  4年 16歳 補欠 清州      会社勤務

 

(法人広報企画課・中村康生)

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