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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第14回

鳴海球場の沸騰

1934

更新⽇:2017年8月2日

中京商4連覇の夢打ち砕いた東邦商

鳴海球場での愛知大会の盛り上がりぶりを伝える切り抜き

河瀬幸介主将の父虎三郎さんが残したアルバムには、「センバツ初出場」の続きがありました。表ページから始まったセンバツ初出場の記録に続いて、裏ページからは、夏の甲子園初出場をめざした1934(昭和9)年夏の東邦の戦い、そして東海地方が野球王国といわれた象徴とも言える鳴海球場の沸騰ぶりが紹介されていました。

夏の甲子園大会は正式には全国中等学校優勝野球大会。春のセンバツは大阪毎日新聞主催でしたが、夏の優勝大会は大阪朝日新聞主催です。この当時、愛知県のチームが甲子園の土を踏むには、愛知予選大会(愛知大会)を勝ち上がり、東海予選大会(東海大会)で優勝しなければなりませんでした。東海大会は愛知代表4校、岐阜、三重代表各2校の計8校で争われました。

1934年の第20回優勝大会での愛知大会は全国的にも注目が集まりました。第17、18、19回大会と今も高校球史に残る3連覇を成し遂げ、さらに4連覇をめざす中京商業と、春のセンバツで全国の頂点に立った東邦商業が激突する大会だったからです。東邦は1930年の野球部創部以来、中京には公式戦で4度対戦していましたが一度も勝っていませんでした。しかし、春の全国制覇の勢いがありました。

そして、中京対東邦の対決は、28校が参加した愛知大会3日目の1回戦で実現しました。「中商と東邦商業 第三日に顔合せ」。虎三郎さんが「昭和九年七月ヨリ」と書き込んだ組み合わせ抽選会の結果を伝える大阪朝日新聞の記事です。

「日本一の予選大会を展開させる運命の総意を秘めた抽選会は7月16日午後零時半から名古屋市武平町県立第一高女講堂で開会。28参加校の主将は野球部長に付き添われていずれも緊張した面持ちで着席。番号を記入した28の小球が160の瞳の一斉射撃の中で抽選器に納められる」「4連覇を狙う中京商業が、春の覇者東邦商業と対戦することが定まった瞬間、場内には思わずワッと喚声が揚がった」

東邦勝利の「悲壮劇」に3万人酔う

中京商×東邦商戦で東邦の勝利を伝える紙面

大阪朝日新聞名古屋版は中京商業対東邦商業の1回戦での激突の結末を、「3万の目撃者の限りなき惜しみの声を浴びながら3連覇の夏の王者中京商ナインは大会旗翻る今年の鳴海原頭から雄姿を消した」と報じました。そして、東邦商業が8対6という大接戦で宿敵中京商業を制したこの試合を「嗚呼中京商業対東邦商業。巨鵬相戦うこの決戦こそ公平な、余りに公平な抽選器が作り出した昭和9年の盛夏を彩る野球悲壮劇ではなかったか」と書きました。3万人の観客だけでなく筆を運ぶ記者自身が熱戦に酔い知れているようでした。

 

東邦商業 101 003 003 =8

中京商業 100 030 011 =6

 

東邦は1回表、四球で出た先頭の河瀬がバントで送られ2塁。4番村上のタイムリーで先制しましたが、その裏中京も同一の戦法で追いつき試合は接線模様に。3回に東邦が3安打で1点リードするも中京は5回に猛打が爆発してたちまち4-2と逆転。東邦は6回、中京の4失策と1安打で3点を加えて5-4と再びリードしましたが、8回に追いつかれ同点。9回表、東邦は中京の守備の乱れに3安打でたたみかけて3点をもぎ取り8-5。9回裏、追い上げる中京に1点返され、なお満塁のピンチが続きましたが東邦がしのぎ切りました。

 

大阪朝日新聞記事の続きです。

――形成は逆転また逆転。球場では6万の手に汗を握らせ、その熱狂は大鉄傘(だいてっさん)を超えて、遠く遥かのCK(NHK名古屋放送局)の電波の届く限り、「歓呼の果てまで」ぐんぐん伸び広がって、24日午前10時35分からの2時間半、東海300万ファンの心臓の動きを完全に攪乱してしまったのであった。さあれ巨星は遂に地に墜ちた。勝利の陰に栄光ある如く敗退の中に光明あれ!!――

観戦する神宮の主将たち

東京6大学野球の主将たちの観戦を紹介した記事

大阪朝日新聞名古屋版はスタンドの風景も紹介していました。鳴海球場は現在の名鉄鳴海駅で下車し徒歩5分ほど。中京商業対東邦商業戦が行われた7月24日は火曜日でしたが、午前10時半の試合開始予定に対し、鳴海駅に向かう午前5時30分神宮駅発の電車にはすでに30人にファンが乗り込んでいました。

雨曇りでしたがスタンドは立錐の余地がない超満員。最上段にスイカを持ち込んだファンも食べるタイミングがありませんでした。

メーンスタンドでは東京6大学野球リーグの主将たちも熱い視線を注いでいました。母校愛知商業のコーチでもある慶応大学の水谷則一主将、早稲田大学の長野主将、立教大学の杉山主将、そして、東邦商業のコーチである法政大学主将の若林忠志(1908~1965)(元阪神投手、監督)。「慶応主将水谷君と法政主将若林君は東京神宮球場ではイガミ合う敵であるが、昨日は何事かささやきながら仲良く観戦」と書かれています。

当時は大学野球の選手が中等学校チームを指導しながらつながりを作っていました。東邦商業の野球部史によると、東邦は創部3年目の1932年には早稲田大学の伊達正男(1911~1992)をコーチとして招いていました。野球部史には「東邦商野球部は早大伊達投手を招き、5月27日から5日間、名医大球場(現中京大学)でコーチを受ける。但し29日(日)は桶狭間球場で午前と午後行う」という新愛知新聞の記事が紹介されています。

伊達は旧制市岡中学(現大阪府立市岡高校)出身。下出義雄と同じ神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進学予定でしたが、市岡中の大先輩で後に「高校野球の父」と呼ばれ、日本高等学校野球連盟会長を務めた佐伯達夫から薦められて早稲田に進みました。

強打の捕手・一塁手としてチームの中軸を担い、1931年春の早慶戦で3日連続完投して2勝1敗で慶応に勝利し、「伊達の三連投」として絶賛されました。

東海大会準決勝には5万人

東海大会準決勝の沸騰ぶりを報じた紙面

愛知大会を勝ち進み東海大会への出場権を得たのは東邦商業、愛知商業、享栄商業と岡崎師範学校の4校でした。そして7月31日から4日間、鳴海球場で開催された東海大会で東邦は1回戦で津中学(現在の津高校)を24-0で撃破しました。しかし、8月3日の2回戦(準決勝)で岐阜商業(現在の県立岐阜商業高校)と対戦、延長11回、5-8で敗れ、夏の甲子園初出場の夢を打ち砕かれました。

 

岐阜商業 102 001 001 03=8

東邦商業 000 011 210 00=5(延長11回)

 

岐阜商業のエースは松井栄造(1918~1943)。松井は浜松市立元城小学校から岐阜商の後援会長にスカウトされて岐阜商に進学。東邦が甲子園初出場を果たす前年の1933(昭和8年)、春の甲子園に投手として出場し決勝戦で完封勝利。岐阜県代表校として初の栄冠をもたらしまた。

岐阜商業はエース松井で1935年春、1936年夏の大会でも全国優勝し黄金時代を築きました。松井は進学した早稲田大学では打者に転向。華麗なバッティングで神宮の森を沸かせました。

1934年夏の東海大会で勢いに乗る東邦商業を下した岐阜商業でしたが、決勝戦では享栄商業に2-3で敗退しました。甲子園初出場の享栄商業は2回戦で市岡中学の1-0で敗れましたが、1936年春、1937年春にも甲子園出場を果たしました。ちなみに1936年春のセンバツ優勝校は愛知商業です。

野球王国と言われた東海地区には中京商業、岐阜商業、享栄商業、愛知商業などの強豪校がひしめいており、東邦商業が夏の甲子園出場を果たすのは5年後を待たなければなりませんでした。

朝日新聞によると、享栄対愛知商業、岐阜商業対東邦商業の4校が激突した東海大会準決勝2試合が行われた鳴海球場は、愛知大会の中京商業対東邦商業戦での3万人を上回る5万人であふれました。

鳴海球場の熱狂ぶりを朝日新聞は、「大鉄傘を揺るがす観衆5万の巨群 試合も観衆も正に記録的」の見出しで伝えています。

――全一日、文字通りの殺人的興奮が大鉄傘を揺るがし、全東海300万ファンをラヂオに釘付けにしてしまった。官庁も会社も商店もさながら「開店休業!」。潮のごとく押し寄せる観衆が入り切れず、締め切った扉の前で喊声をあげる。危険を冒して大鉄傘下三塁側の鉄骨にぶら下がった一ファンは芝生に落ちて一時人事不省になったが、「この試合を見れば死んでも本望です」と、またしても鉄骨にへばりつくありさま。意気に技に試合が記録的なら入場者5万。空しく帰るもの2万という数字も断然新記録。これこそ懸値(かけね)なき天下を動かす大試合だった――

さらに朝日新聞は、超満員のスタンドからはこぼれ落ちる人が続出し、警官、医師が走り回ったともことも紹介し、「救護班席には名古屋医科大学(現在の名古屋大学医学部)の勝沼、桐原、斉藤の3博士が居並ぶ。試合が全国A級なら救護班も日本医学界のA級」と伝えています。

東邦の主力打者で、センバツでは打撃賞、生還打賞、優秀選手賞に輝き初優勝に貢献し、戦後のプロ野球でも活躍した片岡博国(8回生)は野球部史に、「鳴海球場の内外野のスタンドはもちろん、球場外の丘の上まで埋め尽くした大観衆の見守る中で試合が出来たことは、11回延長で負けはしたものの記憶に残る試合でした」と記しています。

アルバム終章

東邦商業の戦績を追った虎三郎さんのアルバム表紙の両面

1934年夏の甲子園を目指し、熱戦が繰り広げられた鳴海球場。8月23日からはさらに6日間、愛知、岐阜、静岡、長野、三重の東海5県から16校が参加して第2回「東海地方中等学校野球大会」が開催されました。新愛知新聞と名古屋新聞の共催でした。両社は戦時下による新聞統制で1942(昭和17)年に合併し中部日本新聞社(現在の中日新聞)となりますが、新愛知新聞、名古屋新聞とも、野球王国の熱気を何とか部数拡大に結びつけようと懸命だったのでしょう。

河瀬、片岡ら5年生たちにとってこの東海地方中等学校野球大会は現役最後の大会となりました。東邦は1回戦で松本商業と対戦し、河瀬の本塁打も飛び出すなど6-4で松本商業を下しましたが、2回戦で島田商業に7-12の大差で敗退しました。

息子の躍動の記録を追い続けた河瀬虎三郎さんのアルバムもここで終わります。「河瀬の一撃遂に本塁打」、東海大会で光ったプレーヤーとして選ばれた「外野手河瀬」。それぞれ「河瀬」の活字の上には赤線が引かれていました。

東邦商業から慶応大学に進学し大好きな野球を続けたものの、卒業後間もなく陸軍に入隊し、高射砲兵として満州に。ニューギニアに転戦し、1944年11月、戦地に散った河瀬幸介。東京ドームにある野球殿堂博物館の戦没野球人一覧のモニュメントに名前が刻まれています。神戸から何度も名古屋に足を運んだ虎三郎さんは、アルバムを開いては「TOHO」のユニフォーム姿の幸介を偲んでいたのかも知れません。

(法人広報企画課・中村康生)

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