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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第15回

躍動の時代

1935

更新⽇:2017年8月10日

生徒数の定着

東邦商業の志願者・生徒数の推移

東邦商業(1923年開校)の生徒数は開校5年がたち1~5年生がそろった1927(昭和2)年度でまだ495人しかいませんでした。『愛知県統計書』によると、それ以降も全校生徒数は大きな伸びはなく600人台が続きます。それが1935(昭和10)年度に1035人となり初めて1000人台に乗りました。

東邦商業が甲子園に初出場したのが1934年春。全校生徒数の推移は表の通りですが、野球部が甲子園への連続出場を続け「第1期黄金時代」と言われた1934年~1941年の時代と全校生徒数が1000人台で増加を続けた時期が一致していることがよく分かります。志願者数と実際に入学者数で大きな差があるのは、入学試験が公立学校の合格発表後に実施されたため受験者数そのものが減ったためです。

『東邦学園五十年史』によると、退学者数も野球部の黄金時代とともに減少していきました。1929(昭和4)年度11.6%だった退学率は1936(昭和11)年度には6.9%に、1939(昭和14)年度には2.8%まで減少し学園経営の安定化に好影響を及ぼしました。

運動部の躍進

蹴球部でサッカーを指導した下出重喜(右端、1928年卒業アルバム)

硬式野球部の甲子園での活躍と連動するかのように運動部、文化部とも活躍が目立つようになりました。「野球部に負けるな」とばかり全国大会や東海大会での優勝が続くようになったのです。

 

▽蹴球部

蹴球部(サッカー部)は籠球部、陸上競技部と同じ1925年に創部され、下出義雄の弟(下出民義の三男)重喜(1900~1945)も実業界にあるかたわら休日を中心にコーチとして指導しました。

1930年に全国中等学校蹴球大会で準優勝し、翌1931年には大阪毎日新聞主催の全国大会東海予選で強豪の愛知商業を破るまでの力をつけました。1936、1937年には愛知一師、明倫中、小牧中、豊橋商などを連破しています。

明倫中学出身の重喜は慶応大学のサッカー部である「慶應義塾体育会ソッカー部」の創立メンバーの1人として知られています。野球部長だった隅山薫は『追憶の記』(東邦会)に、下出義雄から紹介された重喜との出会いを「ゆったりした大人の風格でした。時々ユニホームバッグを持って生徒たちにサッカーを教えにこられました。大まかそうで中々よく気がつく。しかも何のこだわりもない方で、私が私立大学出身の人々を見直したとかいうか、敬意を表すようになったのは下出重喜先生に接してからのように思います」と書き残しています。しかし、重喜も召集され、ビルマで戦病死しました。45歳でした。

▽籠球部

1925年創部1930年から1940年まで愛知県中等学校リーグ戦で連続優勝。1931年から1940年までは東海籠球選手権を獲得し続けました。1931年、1933年、1935年、1939年には明治神宮大会に愛知県代表として出場し1933年には準優勝に輝きました。愛知県下はもちろん、東海地方の雄として「東邦籠球部」の評価が定着しました。

▽剣道部

1928年に100人余で入門式。1935年ごろから活躍がめざましくなりました。1935年7月の第36回青年大演武会(京都武徳殿)優勝が口火となり、各種大会に出場しては優勝を重ね、1939年には全日本中等学校剣道大会第10回大会(大阪・中央公会堂)で圧倒的な優勢で初優勝。紀元2600年奉祝を記念し東京の日本青年館で開催された1940年の第11回大会でも優勝し2連覇を飾り、「東邦商業剣道部の向かうところ敵なし」の声も上がりました。

▽陸上競技部

1925年創部。1935年から1937年まで、「6校連盟陸上大会」で3連覇。伝統ある愛知岐阜中等学校駅伝競走(名岐駅伝)でも1938年、1939年、1941年の3回優勝。1938年の東海学生陸上大会では5年ぶりの優勝に輝きました。

▽ラグビー部

創部は硬式野球部と同じ1930年。当時、東海地方の中等学校でラグビー部があったのは東邦商業だけでした。このため、試合は名古屋高商、岐阜高等農林などの旧制専門学校などが相手でした。1935年を過ぎたころから他校にもラグビー部が誕生し東海大会が開催され始めました。東邦商業は1936から 3年連続で大阪毎日新聞主催の全国中等学校ラグビー大会の東海代表に輝きました。ラグビー部も蹴球部同様に下出重喜の指導がありました。

▽水泳部

創部は1925年。1935、36年ごろから県中等学校水上競技大会、中部日本水球大会、明治神宮水球県大会などで優勝するようになりました。1936年5月のベルリンオリンピック派遣選手最終予選会では15歳選手の竹内定夫(14回生)が1500m自由形で7位に入賞。1940年8月の第14回全国中等学校水上競技大会では竹内と鈴木重一(16回生)の大活躍で堂々2位で総合入賞しました。

東海吹奏楽コンクールで8連覇

音楽部を指導した神納教諭(1934年卒業アルバム)

東邦の吹奏楽も東海地区では他校を圧倒しました。東邦吹奏楽の歴史は1929年に、すでにあった東邦健児団(ボーイスカウト)の中に音楽隊としてブラスバンドが組織されたのが始まりました。名古屋市役所を退職し教諭として着任した神納(じんのう)照美氏のもとで、2、3年生から20人が音楽部員として募集され、楽器の購入、楽譜の整備が行われました。

1929年当時、20人以上の部員を擁したバンドを持つ中等学校は東邦のほか、全国では東京府立一商、京都両洋中学のみと言われました。1931年には東京の陸軍軍楽隊で1週間の指導も受けるなどして神納氏のもとでの猛練習で着実に力をつけ、名古屋市での儀式での演奏を懇請されるようになりました。

1935年から始まった東海吹奏楽コンクール(当時の呼称は軍楽コンクール)では第1回優勝から、戦争で中断される1942年の第8回コンクールまで驚異的な8連覇を成し遂げました。そして、1940年の第1回大日本吹奏楽コンクール大会第2位を経て、翌1941年の第2回大会、1942年の第3回大会で堂々の全国優勝を成し遂げたのです。

「おんな城主」の町からやってきた野球特待生

田沢尋常高等小学校時代の安田(後列左から5人目)

東邦商業12回生で甲子園でも活躍、戦後は東邦高校教員として野球部監督も努めた安田(旧姓田島)章は、東邦商業が甲子園センバツで初優勝した1934(昭和9)年春、野球部での活躍を夢見て東邦商業に入学しました。野球特待生でした。安田はその経緯と思いを著書『ツーアウトからの人生』(中日出版本社)に書き残しました。

安田は静岡県引佐(いなさ)町(現在は浜松市北区)出身。浜名湖の北20kmほどにあるNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台として登場する気賀の近くです。14歳の春、安田は東邦商業の入学式に出席するため、父親とまだ明けやらぬ暗い木立の中を歩き続けました。絣(かすり)の着物に野球帽、草履ばき。2つの小山を越えて飯田線長篠駅へ。豊橋で乗り換えてやっと名古屋に到着しました。

午前9時半から始まった入学式にはどうにか間に合いましたが、式場に足を踏み入れた安田は思わず立ちすくみました。300人近い新入生の全員が真新しい詰襟の学生服でした。洋服など一度も着たことがない安田は父とともに生徒の列の一番後ろに並び、火の出るような恥ずかしさの中で、このまま家に帰りたい思いでいっぱいでした。

着物にわら草履では体操も軍事教練もできない安田に、洋服から靴まで買いそろえてくれたのが野球部長だった隅山馨でした。安田にとっては一生忘れることができない熱い思い出でした。

野球部黄金時代へ

甲子園に出場した当時の安田(中央)。左は日比野、右は前島選手

安田が学んだ田沢尋常高等小学校は川沿いに狭いグラウンドがある、小さいながら野球が盛んな学校でした。安田も入学した時から野球部員になるのが夢でしたが、入部できたのは4年になってからでした。3人の先生が熱心に指導してくれましたが、グローブもそろわず、各自の母親が縫ってくれた布製で間に合わせました。それでも田沢小は毎年盛大に開かれる郡下の少年野球大会に初出場し堂々の優勝。静岡県下の大会にも出場して新聞にも大きく報道されました。

甲子園では中京商業が3連覇の偉業を達成し、名古屋では四商業時代(東邦、中京、愛商、享栄)が幕を開けようとしていました。有望小学生選手のスカウト合戦が県境を越えてエスカレートし、ピッチャーで目立つ存在だった安田にも各地の中学校(現在の高校)から入学の勧誘が舞い込むようになりました。上級学校に進学できるのは経済的にも恵まれた家庭のごく一部の子だけという時代でした。

安田が卒業を控え、進学を迷っていたある日、自宅近くの寺の前に乗用車が止まりました。小型貨物トラックしか見ることがなかった学区は大騒ぎになりました。降り立ったのは小学校で野球を指導してくれていた先生たちの先輩にあたる浜松師範学校の元投手、原田健一でした。原田は後に東邦商業に奉職し、野球部監督として東邦商業を1941(昭和16)年のセンバツで3回目の優勝に導いています。その原田から東邦商業への推薦の話が持ち出されたのです。

安田が入学した東邦商業は甲子園初優勝の喜びにわいていました。入学式が終わると盛大な優勝報告式が行われました。安田は紫紺の大優勝旗を携えて甲子園から凱旋した野球部の先輩たちの雄姿を目のあたりにして、立っていられぬほどの感激を覚えました。「自分も甲子園の土を踏んでみたい。どんなに苦しいことがあろうともそれを乗り越えて必ず実現させてやる」。選手たちの堂々とした、まさに英雄のようなユニホーム姿を目に焼きつけながら安田は心に誓いました。安田のような小学校の有望選手たちを集めた野球部の最初の黄金時代が始まろうとしていました。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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