検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第16回

「天皇機関説」を批判した野球部コーチ

1936

更新⽇:2017年8月23日

幻の「東邦商業新聞」新年号

〝幻の新年号〟となった1月25日発行の66号

東邦高校が旧制東邦商業学校だった時代の学園史を刻み続けた「東邦商業新聞」。残されている10号(1928年6月23日)から廃刊号となった111号(1940年10月26日)までの紙面に目を通しているうちに、1936(昭和11)年の新年号である66号として、紙面内容が一部異なる2つの「66号新聞」が発行されていたことに気づきました。
1月25日発行号と2月6日発行号です。いずれも8ページ建てで、保存されているのはそれぞれ1面とその裏面である2面、それに7、8面だけです。3面~6面の4ページ分は残っていませんが学芸関連の記事だったことが7面の編集後記に書かれていました。
この時期の「東邦商業新聞」は月1回の発行でした。なぜ2つの66号が発行されたのか。当時の編集部員は9回生、10回生が中心ですが、ほとんどが他界しています。ただ、それぞれの編集後記を読んでその理由が大体わかりました。
最初に紙面化された1月25日号の編集後記には「来月(67号)からは、冬眠しばしの青木部長も毎号、経済論文、教育論文を書きおろし、深い思索の一端を見せると期待して待たれたい」と書かれていました。この箇所は2月6日号では消えており、「内容の充実を期したため発行が遅延しましたが、八面をじっくり読んで苦衷を察し願いたい」と変わっていました。
どうやら新聞部の青木和信部長(教員)が不在の時期に、生徒たちが中心となって発行された1月25日号が、復帰した青木部長の指示で編集やり直しとなったようです。1月25日号は印刷されたものの〝幻の新年号〟として日の目を見ることなく、再編集された2月6日号が正式な66号として印刷されて配られたと見られます。

差し替えられたトップ記事

再編集された2月6日発行の66号

〝幻の新年号〟はどのように再編集されたのでしょう。2つの66号紙面を比較してみました。
【1月25日号1面】
トップ記事は新聞部が書いた「年頭言」。天皇陛下や皇室への「謹賀新年」の祝意、創立時63人だった生徒数が1200人にまでになった東邦商業の運動面、学術面での隆盛ぶりを生徒の立場から紹介しています。そのうえで、「日出づる国のうららかな春光に浴して私共は奮励一番、校運の興隆を促し、一つには国運の発展に寄与する意気に燃えようではありませんか。1月1日 東邦商業新聞部」と結ばれています。
準トップの扱いで下出義雄校長の「昭和十一年の財界展望」の記事が掲載されました。下出校長は「我が国経済界の現状は各方面とも順調なる経過をたどり、株界も引き続き好調」と展望しています。紙面はこのほかに、文献などから引用したらしい就職試験問題に出そうな時事用語解説、経済解説の記事で埋められています。
【2月6日号1面】
「年頭言」は外され、下出校長の記事が内容はそのままで、「本年度の財界展望」という見出しに変えられてトップ記事据えられました。青木部長の「新年号のトップ記事は校長の記事であるべき」という判断があったのかも知れません。
準トップ記事として青木部長が「青木生」の署名で執筆した「学校における宗教的信念養成の具体的方法に就いて」という記事が登場していました。青木部長は学校と宗教的訓練に関する10項目を挙げ、「家庭と連携し宗教的情操を養成する習慣を作ること」「学校所在地の神社仏閣の参拝、本尊、由来、縁起等を解説し、以て祖先及び我等との交渉の関係を知らしむること」――などを挙げています。
就職試験問題用語解説はそのまま残りましたが、「経済解説」は外され、教員8人の「新卒業生に贈る言葉」が紹介されています。野球部長だった隅山馨教諭は「日々の生活をよく反省し、常に謙遜の心持ちを持し、堅固なる意志を持って不断の精紳努力を希望するものである」、音楽部を創部した神納照美教諭は「仕事は順序よく整頓よく。リズムカルに」などとはなむけの言葉を贈っています。

 

野球部コーチ教員が書いた「東邦論壇」

「志賀他阿山」の名で執筆された「東邦論壇」(1月25日発行号)

2面の中心記事は「東邦論壇」で、「志賀他阿山」のペンネームで、英語担当の志賀善一教諭が書いたと思われる「国体明徴(めいちょう)と学問」という論文です。
「国体明徴」の意味を理解するためには、当時の緊迫した国政をめぐる動きを知る必要があります。この当時の日本は、立憲主義の形式が崩壊していくきっかけとなる「天皇機関説」事件で揺れ動いていました。天皇の権力範囲を憲法の枠組に合致させる「天皇機関説」という解釈を提唱した憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉と、天皇を崇拝する退役軍人や右派政治家との対立が事件の発端でした。
1935(昭和10)年、当時の岡田内閣は、「統治権の主体は天皇である」と明示、日本が天皇の統治する国家であるとして、

「統治権は国家にあり、天皇をその最高機関」と位置づけるそれまでの通説であった「天皇機関説」を否定する「国体明徴声明」を発表しました。

1936年11月には文部省も、国体明徴の観点から小学校国史教科書を改訂するなど、日本は戦争への道に向かう分岐点に差しかかっていました。
〝幻の新年号〟となった1月25日号1面トップ記事として編集部が書き上げた「年頭言」で、天皇、皇室を敬う記述がかなり目立つのもそうした世相の反映とみられます。志賀教諭が書いたのも天皇機関説を批判した論文でしたが、1月25日号に掲載された内容が2月6日号では大幅に圧縮されました。

 

「中等学校生向けにこれ以上詳論すべきや否や」

1935年センバツ優勝校と世相を紹介したパネル(甲子園歴史館)

志賀論文は「天皇機関説」批判の立場から、天皇が統治権の主体であることを主張したうえで、学問する立場を論じる難解な内容でした。しかも、1月25日号に掲載された論文は約3400字(400字詰め原稿用紙8.5枚)あり、尋常小学校を終えたばかりの生徒たちには理解しにくいであろうソクラテス、カント、ヘーゲル、ニュートンも登場させて美濃部批判を展開しました。
2月6日号では、1面から2面に移された「経済解説」を収容する分、志賀論文は約2800字に削られたうえ、後半部分が書き直されました。書き直し部分で志賀教諭は「以下残された結論ついて6枚余りを費やし記してみたが、時節柄を考えて、誤解をこうむるの感も多く、且つは中等学校新聞の掲載論文として、これ以上詳論すべきや否や」と苦渋の思いを書き、論文が「尻切れ蜻蛉(トンボ)」に終わったことを弁解。「いずれ機会を新たに稿を続けたいと思う」と締めくくっています。
志賀論文が掲載された66号発行の20日後、2.26事件が起きました。皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが下士官兵を率いて起こした事件です。天皇機関説に理解を示していたと言われる陸軍の渡辺錠太郎教育総監も、同じ居間にいた末っ子の和子さん(2016年12月に亡くなった渡辺和子ノートルダム清心学園理事長)のすぐそばで殺害されました。
甲子園球場内の甲子園歴史館には歴代優勝校を紹介したパネルコーナーがありますが、1935年センバツ優勝校として岐阜商業を紹介したパネルには、「天皇機関説」が問題化したとする世相も紹介されています。

東邦から中京商野球部監督へ

センバツ初優勝の中京商業。右から2人目(サングラス)が志賀氏

志賀教諭はコーチとして野球部の指導もしていました。野球部小史『邦球会』(1984年)によると、1935~1936年、渥美政雄氏とともに監督を務めたことになっています。
「東邦商業新聞」67号(1936年3月11日)には66号に続いて卒業生たちに贈る教員たちの激励の声が特集されました。卒業生は1934年春のセンバツ甲子園で初優勝を飾った河瀬幸介、片岡博国ら8回生たちです。志賀教諭も卒業生たちにエールを送っていました。
「英国の大詩聖であるミルトンが、人生を天国とするのも地獄とするのも其の人の心の持ち方一つであると歌った。諸君は、此の人間の心の霊妙不可思議な偉大なる活作用を体得されて、いかなる変に処しても、如何なる艱難に遭遇しても、動かざること山の如き信念をもって勇往邁進せられんことを切望してやまぬ 」
その3か月後の「東邦商業新聞」69号(6月14日)には「志賀先生御辞職」という小さな記事が掲載されていました。「昭和10年4月、本校に御就任されて以来、ひたすら英語教育に御尽力の志賀善一先生は今回、一身上の都合により本校を退かれることになった」。「一身上の理由」とは、何とライバル校である中京商業野球部にコーチとして就任するためでした。
「東邦商業新聞」で志賀教諭の退職が報じられた6日後の1936年6月20日、鳴海球場では愛知県四商業リーグの東邦商業対中京商業戦が行われました。中京商業はこの試合で敗れれば全敗で最下位が決定するという厳しい位置にいましたが、中京商業ベンチには志賀氏の姿がありました。
東邦野球部史に、中京商業が6―1で東邦商業を下したこの試合について報じた「新愛知新聞」(現在の中日新聞)の記事が掲載されています。「中商の選手一同の意気ものすごく、その上ベンチには元東邦助監督の志賀氏が据わり、選手の弱点をいちいち中商に教えたこととて6―1で東邦の敗戦はやむをえなきものであった」と書いていました。
東邦商業が2度目のセンバツ優勝をかけて甲子園決勝戦に勝ち進んだ1938(昭和13)年の第15回選抜中等学校野球大会でも志賀氏は中京商業監督として東邦の前に立ちはだかりました。1937年夏の優勝に続いて甲子園で連覇を目指した中京商業はエース野口二郎投手を擁し、1―0で東邦を下しセンバツ初優勝に輝きました。

(法人広報企画課・中村康生)

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