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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第17回

「選手と監督で優勝」1号の東邦監督

1939

更新⽇:2017年9月7日

「高校野球名将展」で紹介された高木監督

甲子園歴史館「名将展」で紹介された「選手と監督で優勝」のパネル

「夏の高校野球特別展2016~高校野球名将特集~」という企画展が昨年夏、甲子園球場内にある甲子園歴史館で開催されました。7月26日~9月4日の開催で、グラウンドでは東邦高校が17回目出場の夏の甲子園を舞台に〝ミラクル旋風〟を巻き起こすなど連日、熱戦が続いていましたが、観戦後に足を運ぶ熱心なファンたちも目立ちました。

高校野球を代表する監督たちのエピソードを写真や展示品とともに振り返る「名将展」では、「春夏通算勝利数上位10名の監督」として、東邦高校と大垣日大高校で37勝をあげた阪口慶三監督も8位で紹介されました。

「記録アラカルト」のパネル展示では、「選手時代と監督時代の両方で優勝を経験」というコーナーで14人の監督が紹介され、東邦商業監督だった高木良雄がトップで登場しました。高木は選手での優勝が1934(昭和9)年春、監督での優勝が5年後の1939(昭和14)年春。高木はまだ20歳で、監督として優勝した「1939年」は年代順に並べると14人の中では最初でした。

高木は1918(大正7)年生まれ。現在の清須市の尋常小学校から1931(昭和6)年に東邦商業に9回生として入学し野球部に入部しました。4年生だった1934年春の甲子園大会にはベンチ入りはしましたが、外野の控えでした。1936年に卒業し名古屋高等商業学校(名古屋大学経済学部の前身)に入学。入学後も母校野球部にはよく足を運んでいました。

野球部史によると、東邦商業時代の監督やコーチは1、2年の短期間で入れ替わっています。草創期の小島鉄次郎コーチは愛知一中野球部の経験がありましたが1年間、1934年の初優勝時の小池栄一郎監督は中京商業から迎えられましたが2年間だけの在任でした。1935(昭和10)年から、監督を務めた渥美政雄は2年後には神戸の私立滝川中学に移り、後にプロ野球で活躍した別所毅彦や青田昇らを生んだ野球部を甲子園に導きました。

渥美はさらに一宮中学(現在の一宮高校)、時習舘高校でも国語教員をしながら監督として野球部を甲子園に出場させています。中等学校野球部の監督たちが、様々な人脈も絡んで全国を転々と流浪した時代でもあったようです。

高木は名古屋高商3年生だった1938(昭和13)年夏、突然、東邦商業野球部の臨時監督の座に据えられました。尾崎秀俊監督(平岡博・元東邦高校校長の妻一子さんの義兄)が、甲子園予選直前に召集され入隊してしまったためです。「まだ学生であり、責任が重すぎる」と、再三固辞した高木でしたが、「とにかくベンチに入って采配を振れ」と周囲から押し切られてしまったのです。

ところが高木臨時監督のもとで東邦は、愛知大会を勝ち進みました。同年春の甲子園大会では決勝で0-1で敗れた中京商業に1-0で雪辱を晴らすなどの快進撃で優勝。三重・岐阜代表の岐阜商業との東海大会決勝戦に勝てば、東邦初の夏の甲子園初出場が決まるというビッグチャンスが転がり込んできたのです。

9回裏2アウトでの悪夢

野球部創部当時を語る高木(左、野球部史より)

1934年4月に静岡県引佐町(現在の浜松市北区)から東邦商業に入学した12回生の安田(旧姓田島)章も、最終学年の5年生だったこの年、巡ってきた大一番である岐阜商業との東海大会決勝戦にセンターとして出場しました。安田は著書『ツーアウトからの人生』にこの試合に賭けた思いを書き残しています。

試合は炎天下、長い苛酷極まる激戦でした。9回表を終わって東邦が2-0とリード。後攻めの岐阜商業は9回裏、必死の攻撃を開始してきました。東邦のエース松本(後に木下に改姓)貞一は先頭打者に四球、次打者に安打されたものの二者を凡退させ、勝利まであとアウト1つとなりました。

「狂乱の喚声にベンチの声も途絶えがちだ。優勝を意識してはならないはずなのに、勝利の女神が彷彿と私の胸に去来した。この千載一遇の機会を逃してなるものか」。安田はセンターの守備位置からの高鳴る胸を押さえながらベンチの高木に目をやりました。高木は安田の先輩であり、この時点では若干19歳の学生。熱血漢である反面、冷静沈着な性格でしたが、ベンチから立ち上がり、大声で「センターバック」と両手を挙げて指示していました。

岐阜商業の9番打者である森武雄の打球は遊撃方向への力ない飛球でした「しめた!南無三」と安田は懸命に前進しました。遊撃も後方に白球を追いました。しかし、熱風に乗った白球はその中間に落ちるテキサスヒットとなってしまったのです。

岐阜商のランナーは勇躍二者生還し2-2の同点。さらに二塁に向かう森を刺そうとした強肩捕手の日比野武の送球は二塁上を高く越え、前進していた安田の頭上もはるかに越え、白球は遠く芝生を転々と去っていきました。2-3。悪夢のようなサヨナラ負けでした。

〝ランニングホームラン〟の形の森がダイヤモンドを一周するわずか20秒ほどの間に一挙に3点を奪われての大逆転劇。東邦の夏の甲子園初出場の夢は無残についえました。

高木は後に、「打順が下位であることを失念し、センターをバックさせてしまった。野球はツーダウンからというが、まさにそれを絵にかいたような試合になってしまった」(野球部小史『邦球会』)と振り返っています。安田もまた『ツーアウトからの人生』に、「野球はツーダウンから――の強烈な尊い教訓を身をもって思いしらされた試合でした」と書き残しています。

打線爆発で2度目の甲子園優勝

第16回センバツ大会の紹介パネル(甲子園歴史館で)

高木はそのまま正式監督になり、強力打線のチームを率いて1939年春の第16回センバツ大会に出場。東邦商業は圧倒的な攻撃力で2度目の優勝に輝きました。1回戦では地元の浪商を20-1という大差で退け、2回戦では海南中(和歌山)を13-0、3回戦は北神商(兵庫)を13-1、準決勝では島田商(静岡)を6-1で制し前年に続いての決勝進出を決めました。そして、決勝でまたも対戦した岐阜商業に7-2で快勝し、悪夢の大逆転負けを喫した前年夏の東海大会での雪辱も晴らしました。

東邦は5試合で59点得点、73安打、チーム打率3割5分8厘というすさまじい攻撃力を見せました。新聞は「前人未踏の大偉業」とたたえ、東邦ナイン全員が異例の優秀選手賞に輝きました。美技賞、生還打賞にも輝いた主将の長尾芳夫は野球部史への寄稿の中で、「試合前まで当たりが出ず悩んでいたが、高木監督からの一言、二言の注意が自信となり、試合に臨むことができた」と振り返ったうえで、高木の采配ぶりを紹介しています。

< 高木監督は新聞記者へのインタビューの中で、「私は選手に何も指示せず、各自自由に打たせた」と話されていたが、決してそのようなことはなかった。先取得点をあげるためには送るべき時には必ず送り、バントのサインはどのようなときにも出されていて基本を忠実に守っていた。これなら勝てると思われた時点から各選手に自由に打たせてくれた。このことがチームを波に乗せ大量得点に結びついたと思っています。これほどまでに、全選手を波に乗せてくれたのは監督のお陰。高木監督は実によく選手を知り尽くしており、優勝の最功労者であると私は思っています。>

北京で再会した歴代3監督

軍務で北京に滞在していた当時の高木

東邦商業は1941(昭和16)年の第18回センバツで3度目の全国優勝を果たしましたが、高木はすでに招集されており、監督は原田健一に代わっていました。連載第15回で紹介した、安田の母校の尋常小学校があった静岡県引佐町に、当時はめずらしかった乗用車で安田のスカウトにやってきた原田です。浜松師範学校野球部の投手だった原田は東邦商業には1939年9月から1941年11月まで籍を置き、野球部では高木の後任監督となりました。第18回大会優勝監督となった原田ですが、その後間もなく、戦争のため中等学校野球が中止されたのを機に東邦を離れました。

名古屋高商卒である高木は経理を担当する将校として1943年2月から終戦後の1946年11月まで中国の北京に駐屯しました。高木はこの北京時代に相前後して東邦商業野球部監督を務めた2人に巡り合ったことを、学園創立75周年記念誌『真面目の系譜』への寄稿で紹介しています。

最初に会ったのは後任の原田です。東邦を退職して選手数名を引き連れて中国に渡った原田は、天津にある日中合弁会社の華北交通に職を得て実業団野球の監督をしていました。原田は選手2人を引き連れて、北京の高木を慰問のため訪ねてくれました。

もう一人は前任監督だった尾崎です。尾崎は日中戦争が始まった翌年の1938年夏に中国に出征。召集解除でいったん帰国し、一時、原田の後任として東邦商業野球部監督に復帰しています。その後尾崎は中国で事業を起こそうと再度中国入りするも、思いがけない再召集となりました。入隊のため軍服の用意がなかった尾崎が頼ったのが高木でした。高木は予備の一着を餞別として贈りました。

1937年から1942年までの5年間に、尾崎、高木、原田と引き継がれた3人の東邦商業野球部監督。3人は戦時下の中国で数奇な出会を体験していたのです。

見守り続けた東邦野球

遺影を手に父親の思い出を語った良之さん

高木は戦後、東邦高校に商業簿記の教員として勤務し野球部長も務め、東邦学園事務局なども歴任しました。二男の良之さん(東邦高校1972年卒)も甲子園出場経験のある元球児。良之さんの長男裕之さん(同2002年卒)も甲子園に出場しており、「3代甲子園出場」として新聞に紹介されたことがあります。

高木は野球部史(『東邦商業学校東邦高校野球部史』)の編集委員長をつとめました。野球王国といわれた愛知や岐阜では、覇を競い合い、切磋琢磨した中京商業、一宮中学、岐阜商業などライバル校の多くが立派な部史を発刊していました。高木は、東邦の光輝ある歴史と伝統を記録し世に出すべく「部史」の編纂が、選手として、監督として、戦後も野球部長として東邦野球と関わってきた自分の責務であるかのように、部史の編集に精根を傾けました。

1994(平成6)年に刊行された部史の「発刊のことば」を高木は以下の言葉で締めくくっています。<既に鬼籍に入られた歴代の部長、監督諸先生、また連日同じグラウンドで共に白球を追い、猛練習に明け暮れ、のち、戦渦、病魔、事故等ため人生の途上で無念にも夭逝、幽明境を異にされた多くの球友諸兄、これらの尊い犠牲者の霊前にこの「部史」を捧げて心からの哀悼の意を表したい>

高木が脳梗塞で倒れ息を引き取ったのは2012(平成24)年4月。93歳でした。良之さんは、「父は東邦を退職後もずっと練習場のある東郷グラウンドや球場に足を運んで母校野球部を見守り続けていました。熱田球場では外野の木陰が指定席で、私も熱田球場で観戦していると、父を見かけた人たちが木陰を指差しながら、『きょうも先生がきているよ』と教えてくれました。真面目でとにかく野球を愛し続けた父でした」と語ってくれました。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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