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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第18回

全員野球の選手群像

1939

更新⽇:2017年9月26日

東邦チームに大会MVP

優秀選手賞、委員賞を紹介した大阪毎日新聞

1939(昭和14)年春の第16回全国選抜中等学校野球大会で2回目の全国優勝を果たした東邦商業。主催した大阪毎日新聞社は「東邦の本大会に示した威力は大会開始以来の快記録であり、未だかつて攻守に整備されたチームはみられなかった」と大会総評で振り返りました。そして、優秀選手選考委員会は8日間19試合に出場した20校の選手中29人を表彰、優秀選手賞24人では東邦ナイン全員が選ばれました。
大阪毎日新聞に紹介された29人のうち、優秀選手賞に選ばれた東邦ナインは、顔写真の並び順に右から投手の松本(後に木下に改姓)貞一(4年)、捕手の神戸晧昌(5年)、一塁手の長尾芳夫(同)、二塁手の服部一郎(同)、三塁手の竹内功(同)、遊撃手の猪子利男(4年)、レフトの崔玉(後に谷に改姓)義夫(5年)、センターの加藤幸一(4年)、ライトの久野欽平(5年)です。主将でもあった長尾は美技賞、生還打賞(12点)にも輝きました。
そして、抜群の成績と健闘に対して特別に与えられる委員賞(MVP)は大会新記録の猛打を発揮した東邦商業チームに贈られました。
委員賞の授与は5回目で、本来は個人表彰でしたが、選考委員全員一致で初めてチームに与えられました。5試合で総打数204、総安打73本、総得点59点(敵失による得点3)、チーム打率3割5分8厘は「前人未踏の大偉業であり、その快記録は永く大会史に印される」と絶賛されたのです。

遅れてきた高年齢新人

1941年阪神に入団時の松本(右端)。左端は若林忠志

優秀選手賞に選ばれた東邦ナインのうち、4年生(14回生)の松本は20歳で最年長でした。静岡県出身の松本は野球部史に寄せた回想記で、自分が「世にもまれな高年齢の中学生でした」と東邦入学までの経緯を紹介しています。
父親の製糸業の破産で松本家の生活は苦境に陥り、松本の中学進学の夢は難しくなりました。3校も変わった小学校、高等小学校も休学を繰り返しました。浜松一中(現在の県立浜松北高校)を経て東邦商業に入学したのは17歳。普通なら小学校の同級生たちが中学校を卒業する年齢での入学でした。
しかし、松本は好きな野球をやれる充実感にあふれていました。2年生の時の第14回大会(1937年)から5年生の時の第17回大会(1940年)まで連続4年、選抜甲子園に出場し、優勝1回、準優勝1回、準決勝出場1回を体験しました。
初出場だった14回大会途中で松本は肩を痛めました。箸もとれない、顔も洗えないという重症の肩で、涙を流しながら下手投げ一本槍で何とか準々決勝まで進出したものの、その後の野球人生に大きな影響を与えました。
松本は投手として生き抜くために超スローボールに活路を求め、キャッチャーに向かうだけでなく、ネットに、壁に向かって血のにじむ練習を続けました。優勝した第16回大会で東邦がチーム打率3割5分8厘という空前の記録を残し、チームとしてMVPを獲得したことについて、松本は回想記で、「自分のような投手がいたからではないか」と振り返っています。
「全力で投げられない主戦投手を抱えたわが東邦商業は、内外野の守備はもちろんですが、ただ打つ以外に勝つ方法はありません。野球は点取りゲームです。敵に取られる点数よりも取る点数が多ければ勝利は転がり込んできます。先手必勝で、いつも先攻でした。若き高木監督の大胆な作戦が功を奏し、弱投東邦の影は潜み、打撃を全面に押し出し、全国制覇を成し遂げた訳です」
オーバースロー、サイドスロー、アンダースロー。曲げる、落とす。変幻自在の超スローボールで全国制覇成し遂げた松本でしたが、甲子園での自分の晴れ姿を家族に見てもらうことはできませんでした。赤貧のどん底にあった父、母、弟、妹を思い浮かべながら、松本は甲子園の浜で海に向かって号泣しました。
松本は東邦商業を卒業後、プロ野球がまだ職業野球と言われた阪神軍に入団。16試合に登板し4勝4敗を記録しましたが、翌年オフに退団。養子に入り木下姓となりました。戦後は1953年に名古屋ドラゴンズ(中日の前身)に入団しプロ復帰しましたが、主に代打で翌1954年オフに引退。瀬戸市で陶磁器製造業を営み2007年12月、同市内の病院で88歳の生涯を終えました。

毎日新聞社から1980年に発行された『別冊1億人の昭和史・日本プロ野球史』に「昭和16年の阪神投手団」が紹介されていました。法政大学時代、東邦商業のコーチも務めた若林忠志ら6人の縦じまユニホームの投手陣の中に入団したばかりの松本もいました。

救援投手も年長仲間

冬の練習で火に手をかざして暖を取る久野

第14回大会で肩を壊した松本に代わって第15回大会では1回戦から決勝戦まで5試合を1人で投げ切り、準優勝投手として優秀選手賞を獲得したのが13回生の久野欽平です。松本が超スローボールでマウンドに立ち優勝した第16回では久野はライトを守り、救援投手も務めました。松本も久野も主軸打者で、久野が全試合を投げた第15回大会で松本4番ライト、久野は5番を打ちました。
大府市出身の久野は1990(平成2)年に71歳で他界していますが、長男の雅史さん(70)が見せてくれた父親が残した回想メモによると、多くの野球少年同様、久野も大府小学校(当時は尋常小学校)時代、野球に明け暮れていました。
野球部に入部した3年生は球拾いの毎日でしたが、5年生からライトを守る正選手となりました。チームは知多郡の大会では春、夏優勝し県大会でも1、2位を争ったそうです。6年生ではピッチャーで4番打者して活躍。岡崎であった大会では1回戦から4回戦まで勝ち進み、準決勝と決勝が行われた最終日には、準決勝で12回を1人で投げ抜き、決勝戦も1人で7回まで投げて優勝しました。久野は回想メモに、「1日19回も投げ、ふらふらになりながらも歯を食いしばって頑張った」と書き残していました。
優勝メンバーの三塁手・竹内功(13回生)は久野について、野球部史で、「松本投手が不調で少し休む。そんな時当然ながら彼がマウンドに立つ。これといって取り上げる球種はないが、終わってみれば勝利投手になっていた。それよりも右翼手で打力を買う」と回想しています。竹内も卒業後は東邦で4番打者だった崔玉(13回生)とともに当時のプロ野球球団イーグルスでプレーしました。

 

部員100人との競争

久野の優秀選手賞ブロンズ像を手に語る雅史さん

東邦商業野球部時代の日々ついて書き残した久野の回想メモです。
「朝6時半に家を出て、7時の汽車で学校へ。授業が終わり集合。大曽根の運動場まで4㎞キロを毎日走った。家に帰ると9時半ごろ。食事をして風呂に入り右手、左手をもむ。風呂を出るとパンツ1枚で500mほど走り、バットの振り。上30、中30、下30回。また、下30、中30、上30回。雨の日は家の中で」
「今の中京競馬場付近にあった有松球場での練習では、道具を持ちながら4㎞を二山超えて走った。少しでも早く野球場に着くために、ユニホームに着替えるのも人より早くやった。100人の部員の中から14人の選手になるには人一倍努力し、頑張らなくては」
久野の回想メモは1980(昭和55)年3月8日、久野が母校である大府小学校の同窓会から依頼され、「栄光我に」というタイトルで東邦商業の甲子園優勝を中心に語った講演メモでした。

久野は大府市のスポーツ少年団の育成にも力を入れました。同市では「スポーツ少年団久野欽平杯野球大会」が今でも毎年開催されています。雅史さんが久野の受賞した優秀選手賞(第14回大会)を手にした写真をよく見ると、後には第16回大会のブロンズ像も映っていました。

松本と久野はともに1919(大正8)年生まれ。松本が3月生まれ、久野が5月生まれで2か月しか違いませんが学年は久野が1年上でした。久野は大府小学校から中京商業に入学しましたが、雅史さんによると、「自分には合わない」と退学して東邦に入り直しました。さらに回り道してきた松本の東邦入学はその翌年でした。東邦ベンチでは最年長選手だった松本と久野。監督の高木良雄は1918(大正7)年生まれで、2人と1歳しか違わない兄貴的存在でもありましたが、すでに東邦商業から進学した名古屋高等商業学校(名古屋大学経済学部の前身)を卒業していました。松本も久野も遅れてきた中等学校生でしたが、東邦の2度目の全国制覇の達成には欠かせない、頼りになる投手であり主軸打者でした。

有松球場で落とした涙

函館オーシャン時代の猪子(1952年ごろ)

 優勝メンバーで松本と同じ14回生の遊撃手・猪子利男も野球部史の中で、補欠時代と重ね合わせた有松球場での涙の日々を回想しています。
「名鉄の有松の駅を降りて山道を走り、日の暗くなるまで球拾いの毎日でした。練習が終わり、真っ暗になった外野の塀にもたれて、いつまでたってもうまくならない、自分はいつになったら試合に出られるようになるのかと涙が止まりませんでした。親(母親しか居ません)の顔や後援者の顔が目に浮かび、いつまでもいつまでも泣いていました。このことは生涯大事にそっと抱いていたいと思います」。
猪子は最後に、甲子園大会出場のため、名古屋駅で壮行会があった際、激励してくれた群衆の一人から、「補欠、補欠」と呼びかけられ、「名前を呼んでほしかった早く選手になれ」と叫ばれた時の強烈な思い出に触れていました。
「そうだ選手にならなければ駄目なんだ。ベンチ一丸と良く言われますが矢張りグラウンドに立ってプレーのできる選手にならなければ。今では時代錯誤と言われるでしょうが、私は常に商売は儲けなくては駄目、勝負は勝たなければ駄目だと言っています。過激すぎるでしょうか。でも、これが涙を流して練習に励んだ者の意地、いや、たましいです」
猪子は一宮市出身。東邦商業を卒業後、職業野球の南海軍に入団。1942年の犠打33は1965年の近藤昭仁(大洋)が41犠打に塗り替えるまでプロ最高記録でした。戦後は北海道に渡り、塗装店で働きながら日本最古の社会人チームである函館太洋倶楽部(愛称・オーシャン)でプレーし、職業野球で鍛えた派手なプレーでオーシャン人気を支えました。
猪子の長女で函館市在住の米川美智子さんによると猪子は2歳で母を亡くしました。母の妹を後妻に迎えた父も猪子が10歳の時亡くなり、継母や弟に迷惑をかけまいと、特待生として東邦商業に入りました。「父は食べていくために野球をやったのだと言っていました」と米川さんは語ります。
猪子が東邦で優勝した時の監督でもあった高木が編集委員長を務めた母校野球部史への寄稿を依頼されたのは亡くなる5年ほど前。「野球で培ったたましい」というタイトルで、野球部史に寄せる原稿を書きながら猪子は、自分の野球人生を感無量の思いで振り返っていたに違いありません。その後猪子は、函館の野球少年を育てようと発足した「函館太洋倶楽部OB会」の初代会長に就任。現役とOBが一緒になって小学生を指導する野球教室の実現を楽しみにしていた矢先、腹部動脈瘤破裂で、1998年5月、77歳の生涯を終えました。

(法人広報企画課・中村康生)

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