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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第19回

セピア色の優勝アルバム

1939

更新⽇:2017年10月10日

セピア色の球児たち

宿舎近くでキャッチボールを楽しむ部員たち

センバツ高校野球の半世紀を振り返る『別冊1億人の昭和史・センバツ野球50年』(1978年毎日新聞社刊)に、1939(昭和14)年の第16回大会で2回目の優勝に輝いた東邦商業の選手たちの表情をとらえた30枚の写真が掲載されていました。新聞部や写真部を指導した教員が撮影・製作した「東邦商業優勝アルバム」に収められていた写真です。

教員は30歳になったばかりの三宅貫一教諭。三宅は退職して中京商業野球部監督となった志賀善一教諭の後任として1936(昭和11)年6月8日に赴任。早稲田大学文学部英文科を卒業し、新聞記者志望だったこともあり新聞部の部長も引き受けていました。

別冊では三宅が作ったアルバムを「このアルバムは同校教諭三宅貫一氏が撮影・製作したものであるが、軍国調が強まりつつあった当時の姿がうかがわれる」と紹介し、三宅の次のようなコメントも掲載されています。

<優勝という千載一遇の好機会に恵まれながら、不馴れのカメラとそなわらない才幹とで記録致しましたこのささやかなアルバムを、専門的な見方からはお許しくださいまして、ほんの素人の絵空言とあらかじめ御含みの上で御覧願えましたならば幸せの至りで御座います。それにつきましても、この画帳を集録するには当たって、限りない御援助を下さいました校長先生を初めとし、松本同窓会幹事、鳥居野球部長、稲川久也氏、其の他の方々の御厚意を思いますとき、あまりにも私の力の足りなかった事を心からおわび致したいと存じます。昭和14年秋 三宅貫一>

戦後、三宅は東邦商業を去り、三宅のその後の消息、『別冊1億人の昭和史・センバツ野球50年』で紹介されたアルバムの存在を知る人もいつしかいなくなっていました。

その〝幻のアルバム〟が第16回大会に出場した選手宅に眠っていました。選手はライトと投手で、5番打者として活躍した久野欽平です。久野は前年春の第15回大会でもエースとして5試合を投げ抜き、決勝戦では中京商業に1-0で敗れました。15回、16回大会とも優秀選手賞に選ばれています。日本大学を経て、戦後の復員後は社会人野球の愛知産業で9年プレーをした後、生まれ育った愛知県大府市で少年野球の指導を続けながら市会議員も務め、1990年に71歳で亡くなっていました。

よみがえる78年前の甲子園優勝

100枚を超す写真が収められたアルバム

「東邦商業優勝アルバム」は、久野が甲子園で優秀選手賞として贈られた2つのブロンズ像など数多くの栄光の記念品や思い出の品々とともに保管されていました。長男で、元大府市職員の雅史さん(70)が父親の思い出を語りながら、アルバムを見せてくれました。

アルバムの15ページ分に105枚の写真がのり付けされていました。タイトルも写真説明も一切ありません。撮影時から78年の歳月を経たモノクロ写真。現像液の寿命とともに画像が消え入りそうな写真もあれば、セピア色に変色しかけている写真もありました。

雅史さんは『別冊1億人の昭和史・センバツ野球50年』の存在も、三宅の存在も知りませんでした。久野の甲子園での思い出の記録の一冊として大事に保管されてきたものの、アルバムはすでに朽ちかけていました。

105枚の写真の中には甲子園球場での熱戦の様子を写した写真、旅館のどてら姿でキャッチボールしている部員たちにレンズを向けた写真もありました。さらに、優勝後の大阪毎日新聞社に出向いてのあいさつ、途中の大阪市内で捉えた選手たちに優勝を祝福する市民たちのまなざし、凱旋した部員たちを名古屋駅で出迎える歓喜の市民、校主の下出民義、そして東邦商業校庭での優勝報告会など、様々なアングルで追いかけています。伊勢神宮への優勝奉告に訪れた際には、電気自動車「神都バス」に乗り込んだ部員たちの興味津々の表情もとらえていました。

アルバムの大半のページには9枚の写真が張られていましたが、写真がはがされたり、台紙ごと切り抜かれているページもありました。

ペンとカメラの二刀流

母校に凱旋し校庭で優勝を報告する部員たち

第16回大会は3月26日から9日間、20校が参加して開催され、愛知県からは第15回大会と同じく東邦商業と中京商業が出場しました。三宅は「東邦商業新聞」の甲子園特集号(1939年4月29日発行の99号)の発行に向けて5年生部員3人(13回生の平子喜久雄、西川良一、菅保)を「派遣記者」として引き連れて甲子園に乗り込みました。10ページの特集紙面で三宅は部員たちを指揮しながら自らも「従軍記」を書いていました。「刈田雷可」のペンネームです。カメラ好きな三宅が「借りたライカ」をもじったようです。

三宅の書いた開会式の入場行進の記事です。

<選抜旗について「東邦商業」が現れる。拍手だ。歓呼だ。しかも厳粛な入場式だ。中京商石井主将の持つあの優勝旗も今年こそは我等のものだ。感激と興奮の中で、私も忙しい。ペンとカメラの二刀流だ。しかもその間に拍手の連続だ>

1 回戦の対戦校は浪華商業。東邦が初優勝した1934年の11回大会では決勝戦で、延長10回裏に2-1で逆転サヨナラ勝ちした相手ですが、この大会では東邦が20-1で圧勝しました。

<初め、緊張していたのと、寒気が相当ひどかったのとで、カメラを持つ手が震って大いに困ったものであった。後半戦相当点が開いてくると、気が楽になったとはいうものの、試合なれしていない私だ。詳しい経過を書こうにもあまりにも複雑だし、一方、あまりにも簡単すぎた。最終回に浪商が1点返した時に、「紅一点だ」と隣の老人が感嘆した名句がいつまでも頭にこびりついている>

東邦は2回戦も海南中に13-0で圧勝。次から次にホームに帰ってくる東邦選手。カメラを構える三宅のペンもうんざり気味です。

<お陰で私もファインダーから今か今かと機会を待つ苦心は少しもいらない。二度や三度と写すチャンスは逃しても、後から後から絶好の場面がレンズを通して展開される。終には普通のホームインなんかさっぱり撮りたくないほどだ。猛打に陶然として撮り疲れたころ、ようやく試合も終わる>

 

選手に語りかける下出校長

決勝戦を前に宿舎で選手たちに訓話する下出校長

東邦は3回戦も北神商に13-1で快勝。翌2日の準決勝も島田商業を6-1(8回雨天コールド)で下します。

優勝戦前日の夜半に名古屋から駆けつけた下出義雄校長が宿舎の若狭屋旅館に現れました。

<「みんな元気か?」。誰もが「はい」と同様に答えられるほど張り切っている。準決勝にはご令息一同そろって応援に来られたが、今日は校長先生直々の声援とあっては、何條負けられるべきの気迫が選手の眉間にみなぎり渡っている。心配していた空模様も翌日午前10時ごろからぼつぼつと明るくなってくる。一室に集合した選手らに、校長先生から事細かに、今日の試合方法、態度について御注意がある>

決勝戦の相手はまたも岐阜商業。東邦は攻め続けるも中々点が入らず、5回にやっと3点。さらに7回にも3点、9回にも1点を加え、7-2で9回裏岐阜商業の攻撃を迎えました。東邦の優勝はほぼ確実です。

<ファインダーを一心にのぞいている私の周囲から、どっと上がる歓声。「ウーウ」となるサイレンの響き。中島のサードゴロが一塁長尾のミットにおさまった瞬間だ。何たる感激。苦闘10日間、年々歳々の猛練習の結実の瞬間だ。5度揚がる東邦マーキュリーの校旗だ。脱帽、校旗を仰がれている校長先生の頬が高潮している。喜びの姿を早速スナップする>

元中津川市議会議長三宅の死亡記事

校報班の生徒たちを指導する三宅教諭(1942年卒業アルバム)

1992(平成4)年3月17日の中日新聞岐阜版に三宅の死亡記事が掲載されました。

<三宅貫一氏(みやけ・かんいち=元中津川市議会議長、元県立中津商高校長)15日午後9時18分、肺炎のため中津川市手賀野151ノ40の自宅で死去。83歳。中津川市出身。葬儀・告別式は17日午後2時から同市阿木寺領の萬獄寺で。喪主は長男淑音(よしね)氏。昭和46年4月から58年まで3期12年間、中津川市議を務めた。60年11月、勲四等瑞宝章を受章。>

亡くなった三宅貫一が、戦前の東邦商業で教員生活を送り、野球部の甲子園での活躍に熱い思いでカメラを向け、シャッターを押し続けた三宅であったことを知る人はほとんどありませんでした。

三宅の長女である水野綾子さん(75)が東邦を去ったあとの三宅について語ってくれました。三宅は1944(昭和19)年3月、商業学校が工業学校に転化することになったため東邦商業を退職しています。大同製鋼に勤務し、戦後はを父親を亡くした母親の面倒を見るため郷里である中津川に戻り、県立高校の教壇に立ちました。三宅が岩村高校(現在の恵那南高校)の教頭だったころは綾子さんも同校生徒でした。寡黙な三宅でしたが、女生徒たちは「金色夜叉」の間貫一を連想したのでしょう、「貫一お宮の色男」と人気があったそうです。

教員生活を終えた三宅は、地元住民から推されて中津川市議も務めました。綾子さんは三宅から、「自分は新聞記者になるのが夢だった」と聞かされていました。カメラも好きで、野球場のグラウンドにカメラを向けている三宅が写っている写真も長く自宅に残っていたそうです。

東邦商業時代、三宅は1938(昭和13)年には自らも関わっていた美術部の中に写真班をつくり、後の写真部として育てました。アマチュアカメラ誌への投稿を続けました。新聞記者として活躍する夢を果たせなかった分、三宅は夢に向かって羽ばたこうとする生徒たちを全力で応援しようとしていたのかも知れません。

(法人広報企画課・中村康生)

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