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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第20回

躍動する時代の光と影 

1938

更新⽇:2017年11月2日

春爛漫の1938年入学式

1938年度入学式を報じる東邦商業新聞

この連載の第15回「躍動の時代」で紹介したように、東邦商業の全校生徒数は1935(昭和10)年度に1035人となり、開校12年にして初めて1000人台に乗りました。野球部が甲子園への連続出場を続けた1934年~1941年の「第1期黄金時代」と言われた時代は、志願者数も順調に増え、野球部以外の運動部や吹奏楽部の全国舞台での活躍も相次ぎました。東邦商業の躍動に時代でもありました。

「東邦商業新聞」の90号=1938(昭和13)年4月23日=は1面トップ記事として入学式の様子を、「選ばれし本年度1年生 270名入学 春爛漫の4月1日」の見出しで伝えています。記事も「東邦の名は既に全国的となり、その中京に於ける私学の雄として自他共に許す本校は、1000名に近い志願者が殺到したが、その中から選ばれた諸君のみが入学を許された」と誇らしげです。

文部省によると、この当時、尋常小学校卒業生のうち、中等教育機関(旧制中学校、高等女学校、実業学校、師範学校)への進学率は1935(昭和10)年で18.3%、1940(昭和15)年でも25.0%しかありませんでした。16回生を迎えた1938年入学式訓示で下出義雄校長は、「皆様のお友だちの中には、実務につき、或いは商店、会社、工場へ、或いは高等小学に進まれた方もありましょう。此処に集まられたる諸君は父兄の熱心な助力によりまして、上級学校へ進み得る幸福を得られました。上級学校に進みたいと思っても誰にでもできることではなく、諸君はかなり難しい難関を突破せられ、東邦商業学校の生徒としての第一歩を踏み出されたのです」と入学生たちを祝福しています。

強まる戦時色

1937年に入学した稲垣さんの卒業アルバムから

学園が躍動する一方で、1937(昭和12)年7月7日には、長い日中戦争が始まるきっかけとなった盧溝橋事件が勃発しました。学園にも戦争の影が急速に広がっていきました。『東邦学園五十年史』(50年史)に収められている「学校年表」の1937年、1938分を見ても〝影〟の広がりが目立ちます。

 

1937年

7月7日 日中戦争(支那事変)起こる

8月24日 国民精神総動員運動始まる。8月現在で在校生父兄57人が戦時動員(4.3%)

9月 八事運動場竣工、非常時局緊張週間の実施決定。登下校にゲートル着用

10月 教職員5人が戦時動員

11月 卒業生51人が戦時動員(卒業生の4.4%)、卒業生6人戦死

12月12日 南京陥落祝賀行進。15日 軍用飛行機献納運動に参加

 

 

1938年

2月11日 熱田神宮へ参拝行進

4月1日 国家総動員法公布

6月9日 学徒集団勤労作業に関して通達

7月26日 勤労奉仕作業始まる(八事)

10月5日 浅井外吉教諭(体育)戦死。11月14日に追悼運動会

・修学旅行中止に

校主も非常時局で訓示

運動競技に代わって行なわれた国防競技

「東邦商業新聞」82号(1937年7月20日)には、夏休み中の生活での注意事項が掲載されました。精紳の緊張に十分注意すること、毎朝、自宅付近の神社仏閣に参拝することも義務付けられました。紙面には「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」という意味の陸軍スローガン「暴支膺懲(ようちょう)」の活字が登場するよう になりました。84号(9月20日)の2学期始業式の記事は「国家をあげて暴戻支那膺懲の火蓋を切り、正に非常体勢下の9月1日、第二学期の始業式を挙行した」として校主下出民義の訓示が掲載されました。

民義は「世の中は弱肉強食、優勝劣敗でありまして、小さい魚は大きい魚の餌となり、小さな鳥は大きな鳥のとらえるところとなる。列国に於いても同じ様に、表面では平和親善を構えていても、実際はその内面においては互いに睨みあい争っているのであります」と生徒たちに時局を解説し、「非常時局に当たり生徒の本分を守れ」と訴えました。

同じ84号の3面では卒業生3人の戦死が伝えられました。4回生(1931年3月卒)の宮入正夫、6回生(1933年3月卒)の山田彦蔵、橋本勝治です。

17歳で卒業なら宮入は23歳、山田、橋本は21歳。宮入の父は訪れた新聞部の記者に、「もともと戦死は覚悟の上。宮入家にとってもこれほど名誉なことはありません」と語っています。剣道部だった山田の家族も、「軍人として本懐です。出征の時、母親に貯金通帳を渡したがそれが形見になりました」と語りました。橋本は日本陶器勤務を経ての出征で、「両親はおらず、思い残すことはないから、お国のために精一杯やってきます」と健気に言い残していたと言います。

紙面は卒業生4人の「名誉の戦傷」も伝えています。5回生(1932年卒)の大矢信平、6回生の水野栄一、高橋新三、丹羽幸雄、4回生の加藤正二です。高橋は野球部の創部(1930年)当時のマネジャーでした。

下出校長の欧米視察

下出校長の欧米視察出発を伝える東邦商業新聞

この年、校長の下出義雄は4月28日、商工業界を代表した日本経済使節団の一員として欧米旅行に出発しました。アメリカで各企業を訪問見学し、ドイツでの国際商業会議所会議に出席するのが主要任務でした。義雄はドイツでの会議に出席後、ヨーロッパ諸国を歴訪して9月5日に帰国しました。日中戦争勃発は訪欧中のことでした。

義雄は、帰国後まもなく母校講堂での帰国歓迎式に臨み、欧州滞在中に知らされた日中戦争の勃発について、戦争が長期にわたるであろうとの見通しを述べました。その内容は「東邦商業新聞」85号(10月30日)に掲載されました。その記事の締めくくりの部分の要旨です。

 

<遠く外国にいて事変を聞くのと、今、名古屋に於いて聞くのは全く異なっています。外国の新聞では支那軍が絶対優勢で連戦連勝し、日本軍が敗退していると記し、将来の情勢は計り知れないような記事が記載してありましたので、吾々も日本に帰ったら大いに腹帯を締めて、大いに努力せねばならぬと覚悟してきたのですが、神戸に着くと日本の空気は意外に冷静でしたので驚きました。

事変は日本軍が有力で、支那軍がさんざんと知りましたので大いに安心しました。しかし、それでも吾々は安心してはおられません。この事変が片付いたとしても戦いは1年、2年ではすみません。或いは5年6年と長引き、遂には10年も続くようになるかも知れません。近代戦は長期にわたるのであり、私は日清、日露の戦いよりも長く続くと思います。故に、吾々は腰をすえてしっかりしなければなりません。ヨーロッパ戦争に於けるが如く、現在、中等学校の1、2年生が、装丁として銃を取らねばならぬほど続くかも知れないと決心しなければなりません>

義雄は、日本の「暴支膺懲」の戦いを支持し、「祖先の行わなかったより重大なる、より有意義なることをなしつつある」とも強調しました。

国防競技の記憶

戦時色が強まった東邦商業時代を語る稲垣さん

1937年入学の15回生で、名古屋市北区、桶槽工業株式会社会長の稲垣鍵一さん(92)は1年生だった当時の下出校長の帰国報告についての記憶はありませんでした。ただ、下出校長の帰国を祝う歌が作られ、歌ったことは覚えていました。稲垣さんの記憶の中では2年生以降、一段と強まった戦時色の中で、運動部の活動が国防競技中心となっていた思い出が鮮明に残っていました。

4年生だった1940(昭和15)年には、第1回愛知県中等学校国防競技大会が開かれ、東邦商業は総合優勝を果たしました。5年生の時には静岡市の草薙運動場で東海大会が開かれ、稲垣さんも東邦の代表選手の1人として出場。手榴弾投げ競技、土嚢運搬、障害物競技、そりによる土嚢運搬、長距離マラソンでの合計点を競いました。「最後の全員銃を担いでの長距離走で、私はゲートルを強く巻きすぎて倒れ、私のせいで優勝を逃しました」と、稲垣さんは苦笑まじりに語ってくれました。

稲垣さんの同級生で、やはり名古屋市北区に住む水谷勝さんも、1年生の時の記憶はおぼろでした。それでも、「下出民義先生が2学期始業式で訓示したのは校庭だったと思う。内容までは覚えていないが、民義さんはゆったりした感じだったねえ」と記憶をたどってくれました。

水谷さんラグビー部で、1年生の時に出来た広い八事グラウンドで、野球部と隣り合わせでラグビーの練習に励みました。野球部では1学年下の14回生で、稲垣さんや水谷さんが3年生を迎える時の春の甲子園優勝投手である松本(後に木下と改姓)貞一、5年生を迎える時のやはり甲子園優勝投手だった16回生の玉置(後に安居と改姓)玉一のことは水谷さんの記憶にはっきり残っていました。「松本は名前が変わったが、亡くなったのはまだ最近(2007年)だよ」と懐かしそうでした。

水谷さんは戦後、中警察暑などで33年間、警察官としての人生を送りました。

(法人広報企画課・中村康生)

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