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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第21回

3回目の甲子園優勝 

1941

更新⽇:2017年11月28日

時代映す入場行進曲

甲子園歴史館の第18回選抜大会紹介パネル

東邦商業は1941(昭和16)年春の第18回全国選抜中等学校野球大会で甲子園3回目の優勝に輝きました。初出場で初優勝した1934(昭和9)年の第11回大会での入場行進曲には、新たに制定され大会歌「陽は舞いおどる甲子園、若人よ雄々しかれ――」でした。球児たち甲子園出場をたたえた「大会歌」は1937(昭和12)年の第14回大会まで使われました。

東邦商業の2回目優勝となった1939(昭和14)年の第16回大会の入場行進曲は「大陸行進曲」に変わりました。そして3回目優勝となった第18回大会は「国民進軍歌」でした。第18回大会は日中戦争の拡大に加えて、太平洋戦争に突入しようという緊迫が高まり、戦争一色に塗りつぶされていく中での開催でした。

開会式は戦没将兵の英霊への黙とう、宮城遥拝の式次第で進められました。

スタンンドには国民服が、選手たちのユニフォームも新品ではなく中古が目立ち、「欲しがりませ勝つまでは」を地でいく大会でした。尋常小学校が国民学校に改組されたのもこの年からです。

太平洋戦争前、最後の甲子園大会となった第18回大会は16校が参加して3月23日から28日まで開催されました。愛知県から選ばれたのは東邦商と一宮中学校(現在の県立一宮高校)です。東邦は1回戦、2回戦で和歌山県の2校を、準決勝では熊本工を破り決勝進出を決めました。

 

▽1回戦(3月24日)

海草中 000 000 010=1

東邦商 000 101 00x=2

▽2回戦(3月26日)

海南中 000 200 000=2

東邦商 000 201 20x=5

▽準決勝(3月27日)

東邦商 200 200 001=5

熊本工 301 000 000=4

選手たちの回想

戦前最後の甲子園優勝校となった東邦商業

東邦商業が決勝戦で対戦したのは同じ愛知県の一宮中学校でした。東邦の打撃は初回から爆発して2回を終わって5-0。一宮は3回裏、東邦の玉置(後に安居に改姓)玉一投手から選んだ2四球を足掛かりに2点を返ましたが及びませんでした。東邦商業の選抜出場は8回目で優勝回数は3回となり、第17回大会で優勝した岐阜商業の3回優勝に並びました。

5年生最後の春の甲子園に7番右翼手として出場した曽波久男(15回生)は3年生の時から甲子園の土を踏み14回の勝利を体験しました。野球部史に寄せた回想記「思い出あれこれ」の中で、曽波は「春の選抜大会で昭和14、15、16年と3回、夏の選手権大会で昭和14、15年の2回、計5回甲子園に出場し、春12回、夏2回の計14回、東邦の校歌を聞いた。これは思い出というよりむしろ誇りに思っています」と振り返っています。東邦野球の黄金時代を象徴する14回の校歌斉唱でした。

曽波より1学年下で主力投手だった玉置(16回生)は宿舎である「若狭屋」での思い出を書いていました。「若狭屋に東邦商業、滝川中学、一宮中学と3校泊まりました。3校とも優勝候補でしたので、旅館の付近は何時もファンが一杯でした。最初に旅館を出て行ったのは滝川中学でした。準々決勝で岐阜商業に延長14回の末、2-1で惜敗したのです。私たちは一宮中学の選手たちとともに、宿を去る滝川ナインに握手して別れました。その時の滝川の別所選手(後巨人軍)の悲しそうな顔は非常に印象的で今も忘れません。彼は岐商との試合で左腕を骨折し、三角巾で吊り、右手一本で悲壮な投球をしたのです――」

「東邦商、三たび栄冠 5-2 一宮の反撃許さず」の見出しで掲載された優勝決定翌日(3月29日)の大阪毎日新聞。記事は「栄冠はついに東邦商業の頭上に輝き、本大会で岐阜商業についで三回優勝の覇権が達成されたのである」と書いていました。

 

▽決勝戦(3月28日)

東邦商 140 000 000=5

一宮中 002 000 000=2

 

元監督との対決

時習館高校を訪れた巨人時代の別所と渥美(右)

「野球王国」とも言われた愛知県では、東邦商業、中京商業、享栄商業など強豪校がひしめいていましたが、一宮中学は学業だけでなく野球伝統校としても名を馳せていました。

1939年4月から一宮中監督に就任し、チームを甲子園に導いたのは渥美政雄です。実は渥美は東邦商業の元監督でした。東邦野球部史によると渥美は、東邦商業が甲子園初優勝の翌年の1935(昭和10)年、1936(同11)年の2年間、監督を務めました。「50年史」によると東邦商業には教員として1934年9月から1936年3月まで在職しています。

渥美は1909(明治42)年5月6日、愛知県田原市生まれ。成章中学校(現在の県立成章高校)から国学院大学に進み、同大の野球部監督も務めました。1934年から東邦商業に国語教員として勤務しながら隅山馨野球部長のもとで硬式野球部を指導しました。

1935年春の第12回選抜大会に、渥美のもとで出場した東邦商業は準決勝で広陵中学に敗れました。渥美は1936年の第13回選抜大会でも采配を振るい準々決勝に進んでいます。

第13回大会出場を前に発行された「東邦商業新聞」76号(1936年3月11日)に、渥美は他の教員たちとともに、「新卒業生に与ふる言葉」を贈っていました。「如何なる人の意見もその人の立場に立って考えれば夫々の真理がある。諸君は自分の行動の上に取捨選択する厳正な基準を、何時も心の中で失わないことだ。商売のことであれ、人生のことであれ、この基準を見失うほど不幸なことはない」

戦死した東邦商業の教え子たち

渥美が『教育愛知』に寄せた東邦商業野球部員たちの写真

東邦商業の監督として第13回選抜大会を準々決勝で戦い終えた渥美は、3月いっぱいで東邦商業を電撃的に退職し、神戸の滝川中学に転出しました。この時の心境を渥美は、1972(昭和47)年9月発行の『教育愛知』(愛知県教育委員会編)に寄せた「中等野球にまつわる思い出」として次のように振り返っています。(抜粋)

「私の野球指導歴は昭和9年の東邦商業から始まる。東邦勤務時代の3か年は、20代の若さも手伝って、教鞭の傍らただ夢中になって教えた。夜、星をいただいて帰るという言葉があるが、グラウンドの不便など意に介せず、ひたすら生徒と苦楽をともにして全力投球をした。

東邦での最後の全国大会は昭和11年。その4月に私は神戸市の滝川中学に転任することになった。話が急だったことと、春休みの関係で、生徒も知らないものも多かったが、知ると下宿先に飛んできて帰ろうとしない。荷造りもできない。私はこの時ほど、教師のありがたさと、自分の未熟さを感じたことはなかった」

渥美は滝川中学でも教壇に立ちながら、野球部監督を3年間務め、後に巨人などプロ野球で活躍した別所毅彦や青田昇らを育てました。1937(昭和12)年春、夏、1938(昭和13)年春と、3回連続で野球部を甲子園に導いています。

さらに渥美は、1939年から一宮中学に転任。監督として1941年春、第18回全国選抜中等学校野球大会に東邦商業とともに出場を果たしたのです。

そして太平等戦争。渥美は招集を受けて、戦地で何度も命拾いをしながら一宮で終戦を迎えました。戦後も1946(昭和21)年から時習館高校に国語教師として勤務しながら野球部監督に就任、1952(昭和27)年の第24回選抜大会、1953(同28年)の第25回選抜大会と2回、時習館を甲子園に導きました。

1939年の東邦商業を振り出しに、1956(昭和31)年に時習館高校を退職するまで22年間、中等学校・高校野球とともに過ごし、甲子園出場9回を果たした渥美は1993(平成5)年3月、83歳の生涯を終えました。

『教育愛知』に書いた「中等野球にまつわる思い出」の中で渥美は、東邦商業時代の4人の野球部員たちの写真を寄せ、「彼らは戦死して一人もいない」と偲んでいました。

「東邦商業新聞」の廃刊

第111号に掲載された「廃刊の辞」

東邦商業硬式野球部の活躍は、創部当時から、「東邦商業新聞」によって、喜びに沸く母校の様子とともに伝えられてきました。しかし、3回目の優勝が決まる前年の1940年10月、「東邦商業新聞」は廃刊に追い込まれていました。

硬式野球部の創部3年前の1928(昭和2)年5月に創刊された「東邦商業新聞」は全国の中等学校でも他に例を見ない活発な新聞発行を続けました。野球部、剣道部や吹奏楽部などの全国レベルでの活躍を始め、戦局が緊迫する中での学園の様子を紙面に刻み続けました。

しかし、1938年(昭和13年)、国家総動員法が制定され、1940(昭和15)年5月には内閣に新聞雑誌用紙統制委員会が設置され、用紙配給が制限されるようになりました。「東邦商業新聞」もまた、「貴重な紙が皇国のために役立つなら」と同年10月26日の111号に「廃刊の辞」を掲載、15年近い歴史に幕を下ろしたのです。

「中等学校間唯一の存在を誇っていた東邦新聞ではあるが、時代の向かう方向、国家の要求する方向に協力するのが、国民の当然の務めだ。皇民である誇りだ。ささやかながらも東邦新聞廃刊に依って節約された用紙が、幾分でも新東亜建設の助けとなることになれば、又、かくすることに依って却って諸君の時代認識が深まればいよいよ幸いである」「15年の歴史に終止符を打つ言葉としいては簡単すぎるかも知れないが、諸君の一層の自重を祈って廃刊の辞とする次第である」

(法人広報企画課・中村康生)

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