検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第22回

商業学校不要論

1941

更新⽇:2017年12月21日

上級学校への進学に制限

繰り上げ卒業となった15回生卒業アルバム

東邦商業が甲子園で3回目の全国制覇を果たした1941(昭和16)年。喜びに沸いた赤萩の東邦校舎ですが、一方では戦時体制の暗雲が急激に広がっていました。国家総動員法(1938年)、国民徴用令(1939年)に続いて1941年10月16日の文部省令により、実業学校も大学、高校、専門学校等とともに修業年限が短縮され、皇記2602年にあたる1942年3月卒業予定の5年生の卒業が3か月早い1941年12月に繰り上がったのです。同じ中等学校でも中学校はこの時点では短縮の対象にはなりませんでした。
上級学校への進学志向が高まっていた実業学校は逆風にさらされていました。1940(昭和15)年12月9日に出された文部省実業局長通牒によって上級学校への進学が、学校長の推薦を受けた卒業生約1割に抑え込まれることになったのです。生産に寄与しないと、商業学校不要論も起こっていました。
修業年限の3か月短縮が発表された1941年、東邦商業で卒業を控えた5年生だったのは稲垣鍵一さん(元東邦会会長)、元東邦高校校長の浅井(旧姓林)静男ら15回生です。12月8日に太平洋戦争が勃発した時、12月27日の卒業式までの残された日々は20日を切っていました。

私立大学にも衝撃走る

「実業学校へ制限令」と報じた「法政大学新聞」

実業学校から上級学校への進学を1割に制限するという文部省の決定は、甲子園で活躍した野球部選手たちを受け入れていた私立大学にも衝撃を与えました。「法政大学新聞」(1941年1月5日)は、1940年12月9日の文部省発表について、「実業学校へ制限令」とする記事を掲載し、進学制限が私立大学に与える影響の大きさを指摘しました。
記事は「実業学校の卒業生中、少しの期間でも学問をしようという学問的欲求から上級学校へ進学する者が近年、非常な勢いで増加している。その反面、産業界では生産の拡充等で人手不足、高度の技術者の不足を来たし、斯界(しかい)の技術者の需要が急激に叫ばれている矛盾を緩和せんとする策に出たものである」と分析。そのうえで、「この新制度の実施の暁には運動選手の華々しい引き抜き合戦は過去の夢となって流れ去るわけである」と学生記者の立場から分析しています。
さらに記事は、「新制度で最も打撃を蒙るのは私立経営の大学であろう」と指摘。「文部省当局の通達に対し、学校当局としては、文部省に協力し善処しようと思っております」という大学側の見解で締めくくられています。
東邦野球部史には、1940年12月25日「新愛知新聞」(現在の中日新聞)に掲載された記事として、東邦商業野球部出身者によって結成されたチーム「東邦倶楽部」のメンバーが掲載されています。甲子園で活躍した部員たちの多くが東京の私立大学に進学していることが分かります。
▽投手 立谷(専修)、久野(日大)▽捕手 渡辺(日大)、神戸(中大)▽一塁手 村上(法政)、長尾(慶應)▽二塁手 服部(法政)▽三塁手 安井(日大)、前島(中大)▽遊撃手 池田(法政)▽左翼手 長坂(法政)▽中堅手 伊藤(中大)▽右翼手 熊谷(中大)、後藤(法政)

264人中32人が進学

稲垣さんが学んだ国立愛知機械技術員養成所

東邦商業を始め当時の商業学校では、中学校には進まなかったもののさらに上級学校への進学を志す生徒たちが増えていました。東邦商業の15回生も、卒業した246人中、30人を超す進学希望者がありました。このため学校側は、卒業式後の1月1日から3月31日まで、臨時補習科を設置し、進学志望者たちのための補習授業を実施し、32人が上級学校への進学を果たしました。
50年史に掲載された大学専門部や専門学校に進学しのは以下の学校(原文のまま)の32人です。名古屋高商3人、長岡高工1人、岐阜薬1人、同志社大高商4人、同予科1人、早稲田大専門5人、明治大専門4人、日大専門3人、青山学院2人、専修大専門2人、横浜専門2人、関西学院専門、法政、東京物理、明治学院各1人など。
稲垣さんは専門学校ではなく修業年限1年の国立愛知機械技術員養成所に、浅井は東京理科大学の前身である東京物理学校に、さらに稲垣さんによると、仲のよかった同期生の山田大三さんは神戸の商船学校に進みました。
稲垣さんが入学した国立愛知機械技術員養成所は当時の商工省直轄の学校で、東京、大阪とともに設立されました。戦後の通産省名古屋工業技術試験所(名古屋市北区)の敷地内にあり、全寮制で製図、旋盤、溶接、鍛冶、木型、鋳造などの専科があり、午前5時半から徹底的に技術を叩き込まれました。
同養成所は1938(昭和13)年の創立から1945(昭和20)年5月の空襲で校舎が全焼し、翌年3月に廃校となるまで、8年間に1604人の卒業生を送り出しました。稲垣さんは卒業後も指導教員として養成所に残りましたが、東邦商業出身者の生徒が他に3人いたそうです。養成所で製図技術を叩き込まれた体験について稲垣さんは「東邦商業時代とは180度の方向転換でしたが、製図を学んだことで戦後、会社(桶槽工業)を発展させることができたわけで、自分にとって新しい人生の始まりにもなった」と振り返りました。

報国精紳での商業教育を訴えた下出校長

15回生卒業アルバムの下出名誉校長と隈山校長

「東邦商業新聞」は1940年10月26日の第111号を最後に廃刊しましたが、新聞部長だった三宅貫一教諭の指導で「東邦商業学校校報」が発行されました。編集したのは東邦商業学校報国団の学芸部校報班です。ちなみに野球部は鍛錬部野球班に変わっていました。
校報の創刊日や発行回数は不明ですが、1941年に発行された7月12日号(8ページ)、11月12日号(6ページ)、12月24日号(2ページ)の3回の発行紙面が保存されています。12月24日号のみ「第4号」のナンバーが記されています。7月12日号には甲子園3回目優勝となった第18回全国選抜野球大会の優勝記もしっかりと収録されています。
7月12日号1面には、約900人の父兄を前に、下出義雄校長があいさつの中で、商業教育のあるべき姿について懸命に訴えた内容が掲載されていました。商業学校不要論、上級学校への進学制限など、商業学校が逆風にさらされるなか、下出校長はあるべき商業教育について熱弁をふるいました。記事の抜粋です。
<東邦商業の存在意義は、名は商業学校とついてはいても、金儲け、いわゆる商売、自己の利益を追求するが如きものを作るために営んでいるのではありません。東邦商業の存在理由は、産業報国にあります。即ち学校は商売を通じて如何にして国家に奉仕が出来るかということを教えているのでありまして、私利私欲の追求は断じて目的ではありません。報国の精紳を植え付けることが商業教育の目的であります>
工業技術教育の振興が叫ばれる一方で、一部からは「商業は生産しない搾取業」といった商業への蔑視論、商業無用論、商業学校不必要論すら叫ばれている世相に対する懸命な反論でした。

 

下出校長の退任と校報班

三宅教諭の指導した校報班(15回生卒業アルバム)

 保存されている「東邦商業学校校報」では〝最終号〟となった4号(1941年12月24日)の1面トップ記事は下出校長の退任を伝える記事でした。この当時の下出は大同製鋼を始めとして4つの会社の社長、名古屋株式取引所理事長、名古屋商工会議所副会頭の要職にありました。さらに、関係する会社や団体は数十に及び、戦局の緊迫で実業界での仕事に専念することになったのです。
名誉校長に退いた下出の後任として第3代校長に就任したのは野球部長としても名をはせ、1937年2月から、姉妹校であった金城商業学校の校長を務めていた隅山馨でした。記事は文部大臣の橋田邦彦から東邦商業学校設立者である下出民義あてに11月28日付で届いた「昭和16年9月9日付申請 隅山馨ヲ校長ト定ムルノ件認可ス」の通知書とともに、校長の交代を伝えています。
「東邦商業新聞」の廃刊後も、校報班の生徒たちを率いて「東邦商業学校校報」の発行兼編集人を務めたのは英語教員でもあった三宅貫一です。11月12日号の編集後記では「躍進大東邦の校史を書き残すため」と校報発行の決意を書いていました。下出校長退任を伝えた4号に書き残された三宅の編集後記です。
<下出校長御退任と共に隅山校長が新任された。まさに東邦の歴史上一大異変だ。時局愈々重大、今年度の卒業期は三カ月早められた。而して学徒たるものは単に机に噛みついてばかりいる時代でなく、勤労奉国隊神旗の下に、農場に工場に流汗する秋だ。かかる時に、大いに機能を発揮して重大任務を果たそうと連日8時、9時まで編集に馬力をかけて種々の新企画の下に8面を作り上げたのに、印刷屋の都合上、御覧の通り1面(ページ)で我慢しなくてはならなくなった。先生方や生徒諸君の玉稿も大部分次回に回したが、何れ新年早々に御目にかけられると思っているから悪しからずご了承願いたい。(三宅)>
新年号が三宅の予告どうりに発行されたかどうかは不明です。三宅が東邦商業の「校史」として書き続けようとした「校報」の4号以降の紙面は見つかっていません。4号の小さな「短歌」欄に生徒たちの作品が紹介されていました。東京物理学校を卒業し、教員として母校に戻り、第8代校長(1970年7月~1984年3月)となった浅井の歌です。「北支那の従兄に知らせむ此の年も 庭の柿の実夕日に照りしを 五E 林静男」。

(法人広報企画課・中村康生)

 この連載をお読みになってのご感想、情報の提供をお待ちしております。
法人広報企画課までお寄せください。
koho@aichi-toho.ac.jp

一覧に戻る

学校法人 東邦学園

〒465-8515
愛知県名古屋市名東区平和が丘三丁目11番地
TEL:052-782-1241(代表)