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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第23回

予科練志願の夏

1943

更新⽇:2018年1月9日

愛国志願の連鎖

愛知一中の予科練志願を伝える新聞

1943(昭和18)年、全国の中等学校には足りない飛行兵を補うために甲種飛行予科練習生(予科練)など志願兵依頼の圧力が強まっていました。7月5日、愛知一中(現在の県立旭丘高校)では、校長や配属将校たちに煽られるように、熱くなった生徒560余人がこぞって予科練に志願するという事態が起きました。
新聞には「愛知一中の快挙 全4、5年生空へ志願」などの記事が掲載されました。熱病が感染するように岡崎中学校でも7月6日朝、総決起大会が開かれ3年生以上の566人が志願。そして「愛国の志願」は、明倫、東海、中京、東邦などにも広がりました。
5年生だった17回生の後藤重三郎さん(92)(東京都杉並区)は、「私たちのE組は進学クラスでしたが、愛知一中のニュースが新聞に大きく載った日の休み時間、〝俺たちもやろう〟と一人が言い出したら、あっという間にクラス全員が賛成した。これをきっかけに5年生の他のクラスや4年生、3年生たちからも志願者が続出していきました」と語ります。
後藤さんと同級生だった加藤久雄さん(91)(名古屋市千種区春岡通)も、「進学クラスの生徒たちは〝上級学校への進学など非国民だ〟みたいなことも言われ、〝そんなことを言われるなら予科練に行こうではないか〟とE組全体が予科練志願になびいていった」と振り返りました。
生徒たちの背中を押すべきかどうか、親や教師たちは揺れました。志願を貫こうとする者と取り止める者との間で溝が広がっていき、重苦しい時が流れていきました。「50年史」に収録されている1943年11月13日報告では、東邦商業学校の1342人の在籍生徒のうち3年生以上は776人。甲種飛行兵受検有資格者502人のうち受検者は107人、合格者は33人でした。

説得した教師

国防部滑空班で訓練する生徒たち(15回生アルバム)

父親に先立たれ、母子家庭で育った後藤さんは、母親の猛反対にあいました。父親代わりだった伯父にも叱り飛ばされました。「学校の仲間たちみんなとの約束だから」と言っても全く聞き入れられず、志願に必要だった判は母親によって隠されてしまいました。相談した担任の酒井佐一教諭からは、「お国のために役立つ方法はいくらでもある。思い直した生徒もかなりいるぞ」と説得されました。「一緒に志願した仲間を裏切ることになる」という後ろめたさを感じながら、後藤さんは志願を断念せざるを得ませんでした。
加藤さんも酒井教諭から「加藤、お前は目が悪い。受かれせん。やめとけ」と一蹴されました。「酒井先生はアメリカでの留学経験があり、あの戦争で日本が勝てるなんて思っていなかったのでしょう。直接的な言葉には出しませんでしたが、言葉の節々にそういう思いがにじみ出ていました」と加藤さんは語ります。

気象技術官養成所へ

気象技術官養成所に進学した加藤さん

17回生たちは1943年12月に繰り上げ卒業しました。加藤さんは上級学校への進学が制限される中、中央気象台付属気象技術官養成所(現在の気省大学校)への進学を果たしました。
加藤さんが東邦商業に入学したのは1939(昭和14)年。「学校は中等教育で十分」という父親の方針で、3歳上の兄も工業学校で建築を学んでいました。ところが、学年が進むにつれて、「中等学校卒だけでは不十分」という風潮に変わっていき、上級学校への進学志向が高まりました。
加藤さんは、やっと父親に折れてもらい、名古屋高等商業学校(名古屋大学経済学部の前身)への進学を決めました。東邦商業で成績がトップだと名高商には無試験で進学でき、記憶力のよかった加藤さんはずっと首席でした。しかし、卒業を前にした1943年10月に閣議決定された「教育に関する戦時非常措置方策」によって、文科系学生の徴兵猶予が停止され、名高商に進学してもすぐに徴兵されることになりました。理科系の学校なら徴兵が延期されていました。
父親がすでに高齢だった加藤さんは、お金のかからない学校を探しました。見つかったのが東京の中央気象台付属気象技術官養成所でした。倍率は20倍近くもありました。しかし、入学すれば気象台幹部候補生として準公務員となり、徴兵も延期されます。加藤さんは、兄が使っていた工業学校の教科書を使って必死に受験勉強に打ち込み、難関を突破しました。

電波技術員養成所へ

予科練志願で揺れた東邦商業時代を語った後藤さん

後藤さんも進路を180度変えて工業系の学校を必死に探しました。義務教育が小学校6年間だけだった加藤さんらの世代では、中等学校への進学率は20%ちょっとしかありませんでした。貧しい母子家庭でしたが、小学校の恩師は「これからの時代は高い教育が大切。商業学校や工業学校ではなく中学校に進学させなさい」と母親を説得してくれました。しかし、商人だった亡父のあとを継がせたかった母親は頑として譲らず、加藤さんは東邦商業に入学。そして、戦局が緊迫する中で、母親は、息子を戦争に取られたくない一心で工業系専門学校(旧制)への進学を認めてくれました。
すでに商業学校には進学制限令が実施されており、進学は1割以内しか認められなくなっていました。数学や理科の教科書や参考書も自由に買えない中での受験準備でした。後藤さんは新設された旧制の愛知県立工業専門学校(戦後は名古屋工業大学に)を受験。しかし、学科試験は通ったものの面接と身体検査の2次試験で不合格となりました。「面接では、〝どうして商業学校生が受験するのか。徴兵逃れだろう〟みたいなことを言われました」と後藤さんは振り返ります。
後藤さんも授業料不要の学校を探して、東京の電波技術員養成所(東海大学の前身)に入所し、1年学びました。電気通信の下級技術者として就職しようと思っていた矢先、召集され、陸軍兵士として従軍しました。戦後、東京の理科系の専門学校に再入学して数学教員の資格を取得、東京の中学校で教員生活を送りました。

「夢奪われた妻が不憫」

桜通を名古屋駅に向かう予科練入隊者の壮行行列

加藤さんは気象技術官養成所2年生の夏、現場実習として配属されていた名古屋気象台で終戦を迎えました。8月15日の玉音放送は、気象台の庭で40人近い職員たちと一緒に並んで聞きました。雑音ばかりでよく聞き取れませんでしたが、台長はすでに敗戦を知らされていたようで落ち着いていました。
3年制の養成所を卒業した加藤さんは気象庁の職員となり、1947 (昭和22)年に養成所が気象大学校に昇格したのを機に学生として再入学。卒業後は気象庁に勤務し、最後は気象大学校教員として学生課長も勤めました。60歳で定年退職後は名古屋に戻り、名城大学で5年間非常勤講師を務め、理工学部で球面三角形の講義もしました。
加藤さんは、東邦商業での学校生活を「大変な時代だった。教練では理不尽に殴りつける教員もいたが気象技術官養成所ではそういう教官はいなかった。でも東邦はいい学校でした。自分は新聞部でも活動したし、いろんな体験ができた」と振り返りました。そして、3年前(2014年)に他界した1歳年下の妻久子さんについ、寂しそうに語りました。
「女房は名一(名古屋市立第一高等女学校。現在の菊里高校)を出ているのに、軍事工場に動員され、爆弾づくりばかりさせられていて、全然勉強をする時間がなかった。文学で有名な話とかでも全然知らず、本当にかわいそうだった。それに比べれば私らはまだ勉強ができていた」。わずか1学年の差だけで、高等女学校生としての夢や学ぶ機会の大半を奪われた久子さんが心底不憫そうでした。

(法人広報企画課・中村康生)

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