第24回 吹奏楽日本一から軍楽隊へ1942

2018年2月1日

東邦吹奏楽にあこがれて

行進する東邦商業音楽部(1941年12月卒業アルバム)

 東邦の吹奏楽にあこがれた稲垣信哉さん(90)(名古屋市千種区)が18回生として東邦商業学校に入学したのは1940(昭和15)年4月でした。東邦商業は、東海吹奏楽コンクールで毎年優勝していました。稲垣さんが音楽部に新入部員として加わった年である1940年11月の第1回大日本吹奏楽コンクールで東邦商業は惜しくも2位で優勝を逃しました。

 吹奏楽を指導していたのは神納(じんのう)照美教諭(故人)でした。神納教諭は軍楽隊養成校でもある陸軍戸山学校出身。名古屋市役所勤務を経て東邦商業に迎えられると、東邦健児団(ボーイスカウト)の中に音楽部の前身である音楽隊を結成し全国有数の実力バンドに育てあげました。

 稲垣さんが東邦商業の吹奏楽にあこがれたのも、明倫小学校6年生の時、神納教諭に鍛えられた東邦音楽隊が、出征兵士たちの先頭に立ち、力強く演奏しながら桜通を行進する雄姿に魅せられたからでした。

 稲垣さんが2年生となった1941年(昭和16)年11月、音楽部は前年の雪辱を晴らし、名古屋市で開催された第2回大日本吹奏楽コンクールで優勝を飾りました。音楽部はこの年から「東邦商業学校報国団学芸部音楽班」に名称を変えていました。野球部が「鍛錬部野球班」となったように部活動も戦時色が一段と強まっていました。

 『東邦商業学校校報』第4号(1941年12月24日)に「報国団記録」として「音楽班の全国制覇」という記事が掲載されていました。

 <大日本吹奏楽連盟、朝日新聞社共同主催の「第2回全国吹奏楽大行進大競演会」に本校音楽班は堂々東海予選に群雄を退け、去年惜敗した恨みを晴らさんと、新嘗祭の23日、勇躍これに参加しました。(略)実にその間、一日として休む時もなく、朝早くから朝礼前まで、又、授業後夕方遅くまで熱心に練習された賜だと思います>

甲子園応援へ

東邦商業時代からの吹奏楽との歩みを語った稲垣さん

 稲垣さんの記憶では音楽部が全国優勝に輝いた1941年当時の部員は30~35人。第2回大日本吹奏楽コンクールでは、鶴舞公園から栄町を経て広小路通を市中行進し、その後、舞台演奏を競いました。沿道を埋めた尽くした数万の名古屋市民からは、地元ということもあって、東邦商業の行進に万雷の拍手が送られました。

 稲垣さんはユーフォニュームという楽器を担当していました。 この当時の音楽部の行進風景の写真が、1941年12月に繰り上げ卒業した15回生の卒業アルバムに掲載されていました。学生帽、学生服にゲートル姿ですが、年齢差に幅があるせいか、身長や対格差も目立ちます。

 1941年春、甲子園球場では戦前最後の大会となった第18回全国選抜中等学校野球大会が開催され、東邦商業は3度目の優勝に輝きました。全国でもトップ級の演奏力を誇った東邦商業音楽部も応援に繰り出しました。

 「僕が入学した年(1940年)は準優勝だったが、翌年の大会には音楽部も応援に行きました。野球部員とも仲はよかった。甲子園出場校で吹奏楽応援が行われたのは東邦が最初ではなかったかな。多分そうです。30人くらいは行ったと思います。今のようなバトンやチアガールと一緒になっての華やかなものではなく、校歌や応援歌を演奏するだけでした」。稲垣さんは遠い記憶をたどりながら語ってくれました。

陸軍戸山学校軍楽隊

ユーフォニュームを手に(名古屋市千種区希望ケ丘の自宅で)

 稲垣さんが3年生だった1942(昭和17)年6月、各中等学校長のもとには名古屋地方海軍人事部長から、「甲種飛行予科練習生奨励に関する依頼」の書簡が届きました。青少年たちに軍人志願を求める動きは陸軍でも活発化し、『東邦学園五十年史』(50年史)には、東邦商業からも陸軍士官学校、陸軍幼年学校、陸軍戦車学校、陸軍戸山学校等への志願者・入学者があったことが記されています。

 稲垣さんも3年生の終わり、陸軍戸山学校に軍楽隊として入学しました。この当時、生徒向けに発行されていた『音楽家になるには』(職業指導研究会編、東京三友社発行)という本では軍楽隊ついて次のように説明されています。

 「軍楽隊は軍人の士気を鼓舞し、軍人精神の涵養を計るために設けられたものであって、之は全く金がかからないので、然もある見習い期間が経つと相当の手当てを支給されながら音楽の修業をすることができます。但し、非常な健康体でなければ駄目です」「管楽器を吹くに適応した色々の条件が備わっていなければ採用されません」「軍楽隊は音楽家と言うより、むしろ帝国軍人であるとの念を忘れてはいけません」

 東京市牛込区戸山町(現在の新宿区戸山周辺)にあった陸軍戸山学校軍楽隊は、被服、食料、手当てが支給され、修学期間は1年。卒業後は陸軍楽手補となり、5年間の服務が義務づけられました。

 「戦争鼓舞の学校でしたが、一つの音楽学校であり、上野の音楽学校(現在の東京芸術大学の前身である東京音楽学校)からは芥川也寸志も移ってきました」と稲垣さんが語るように、戸山学校には音楽を続けたいという若者たちが集まっていました。

広島の閃光

永年の功績に朝日新聞社から贈られた感謝状

 稲垣さんは1944(昭和19)年、出来たばかりの広島の軍楽隊に配属されました。30~35人の編成で、広島に半年ほど滞在しましたが、原爆が投下された1945(昭和20)年8月6日の直前、出張で岡山県内にいました。

 その、〝運命の日〟の朝、稲垣さんは広島の方角が光ったのを鮮明に覚えています。「本当は広島にいなければいけなかったのに、たまたま岡山県に来ていたことで救われました」。稲垣さんは、〝運命の日〟を生き延びることができた経緯を静かに語ってくれました。

 稲垣さんら軍楽隊はその後、陸軍第11師団が置かれ、四国最大の軍都でもあった香川県善通寺市に移動し、終戦を迎えました。隊は広島には戻ることもできずに東京に帰り、解散となりました。

 しかし、終戦とともに終わるとばかり思っていた吹奏楽活動には続きがありました。軍楽隊の仲間たちは全国に散りましたが、稲垣さんら50人近くが「禁衛府(きんえいふ)」という、宮内省に置かれた皇宮警察の前身組織に加わるよう召集がかかりました。終戦直後、陸軍軍楽隊(陸軍戸山学校軍楽隊)は禁衛府皇宮衛士総隊奏楽隊となったのです。「昭和20年9月11日」の『官報』(第5600号)には、禁衛府編成規定により、第一皇宮衛士隊に特別儀仗隊、第二皇宮衛士隊に奏楽隊が置かれたことが掲載されていました。

東邦吹奏楽の復活

「愛知大学短期大学部」の看板も(1953年3月卒業アルバム)

 「Imperial Police Guard」と訳された禁衛府が存在したのは1945年9月10日から1946年)3月31日までの半年余でした。終戦直後、慌しく「軍楽隊」から「奏楽隊」に名前を変えての「音楽活動」を体験した稲垣さんは1948(昭和23)年、新制高校として再出発したばかりの母校東邦高校(東区赤萩町)に教員として戻りました。

 稲垣さんは音楽部の再建に奔走しました。楽器はほとんどが焼失しており、残った楽器は大太鼓、コントラバスなど大型の楽器7個でしたが、他校から借用した楽器を合わせて何とかバンドを編成し、活動を再開しました。戦前は全国大会優勝2回という伝統に加え、名古屋で唯一の吹奏楽団ということもあって、東邦高校音楽部には公的行事への出演依頼が相次ぎました。

 散り散りになった戸山学校時代の仲間との再会もありました。東邦高校生徒会誌『東邦』2号(1960年3月)に音楽部長として稲垣さんが寄せた「本校音楽部の10年間の回顧」によると、1950年ごろには、愛知県警音楽隊の前身である名古屋市警察音楽隊隊長に、戸山学校先輩の佐々木千万亀氏が就任。瑞穂グラウンドで開催された第5回国民体育大会では天皇・皇后両陛下をお迎えしての開会式で東邦高校バンドは名古屋市警察音楽隊等との100人を超す大編成バンドで演奏を行いました。

 1951年からは全日本吹奏楽コンクールも開催され、全国大会の会場では、教員として生徒たちを引率してきた戸山学校時代の同期生たちの再会も相次ぎました。「おう、お前の所も来ているのかという感じでうれしかったですよ」。稲垣さんは懐かしそうに振り返りました。

 稲垣さんは母校の音楽部を全国屈指の吹奏楽部に育てあげるとともに1954(昭和29)年には東海吹奏楽連盟理事に就任、その後も長い間、愛知県や全国の吹奏楽連盟の組織作りや活動の推進に尽力しました。

 50年史によると、稲垣さんは、1948年9月に東邦高校に採用されていますが、1950年4月から、東邦高校の6教室を夜間借用して開校したばかりの愛知大学法経学部第二部に入学し、社会科の教員資格を得ました。

 愛知大学法経学部は1年ほどで車道に移りましたが、東邦高校では短期大学部の授業が続けられました。1950年に東邦高校に入学、1953年3月に卒業した後藤正人さん(84)(清須市)に見せてもらった卒業アルバムの赤萩校舎には、東邦高校、東邦中学校のほかに、愛知大学短期大学部、そして金城夜間商業高等学校、東邦保育園の看板も掲げられていました。戦後、新制の東邦高校がスタートしたばかりの東邦学園が新たな時代への船出に揺れ動いていた時期でした。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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