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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第25回

コラム① 大正の風景~上~

1926

更新⽇:2018年2月19日

残されていた大正時代の写真

発見された大正15年発行『東邦』の3号と4号

東邦学園ではこれまでに50年史、70年史、75年史、90年史が発行されてきましたが、大正時代の学園の様子を記録した写真が1枚も収録されていないことに気づきました。

東邦商業学校が開設されたのが1923(大正12)年ですから、東邦商業学校にとっても残された大正年の時代は4年間しかなかったこともあるのかも知れません。戦前学園史がよりどころとした『東邦商業新聞』も創刊が昭和に入ってからで、1928(昭和3)年以降の紙面しか残されていないこともあるのでしょう。
「語り継ぐ東邦学園史」の連載を進めながら関連史料を探していく中で、『東邦商業新聞』の前身として校友会雑誌『東邦』が発行されていたことが分かりました。そして、1926(大正15)年3月10日発行の3号と同年12月15日発行の4号を手にすることができました。さらに4号には8枚の写真が掲載されていました。
大正天皇が崩御し、大正時代が終焉したのは4号が発行された10日後でした。8枚の写真は、『東邦』の編集スタッフたちが残してくれた、学園史に埋もれていた貴重な大正の風景であると同時に、終ろうとする大正時代の残像と言えるのかも知れません。

校友会雑誌『東邦』の創刊号

創刊号表紙(東邦学園75年史より)

校友会活動(クラブ活動など)を伝える雑誌『東邦』は東邦商業学校開校3年目の1925(大正14)年7月15日創刊の1号から4号まで発行されました。その内容の一部は50年史(1978年発行)、70年史(1993年発行)、75年史(1998年発行)でも紹介されていますが、全容については明らかにされておらず、写真の存在は全く触れられていません。
ただ、75年史では、「下出紀子氏(下出義雄の二男で第3代理事長下出貞雄の妻)蔵」として、『東邦』1号(創刊号)の目次も兼ねた表紙の写真と、「本校教育の理想」という下出民義の巻頭言が紹介されています。1号目次です。

本校教育の理想 校主 下出民義
質実剛健の気風(承前) 校長、法学士 大多喜寅之助

―その現代社会に於ける意義と作興に関するコペルニクス的理論展開―
カーライルの「現在及過去」を読みて 講師、商学士 下出義雄
コードの研究(暗号電信) 教諭 橋本千一
個性教育の提唱 教諭 日下部盛一
社会学の一般概念に就て 教諭、文学士 大山彦一
賃借対照表の意義及其分類 教諭 魚住義紀
ヴィターミンに就て 教諭 森常次郎
義理に関する一考察 講師、文学士 下出隼吉

下出民義は「本校教育の理想」の中で、「東邦商業は私立学校であり、個人が理想を掲げて私費を投じて設立するのであるから官公立学校とは出発点において相違がある」「官立学校にありがちな乾燥無味の弊に陥らず、本校を組織する教師、生徒を通じて、そこに一つの美しい師弟の情の沸き出ずる気分、秩序の維持と品性の向上に最善を尽くしたいと考えている」と、東邦商業学校設立の意図と方向を明確に述べています。
下出義雄が書いた英国の思想家カーライルの『過去と現在』の中の言葉は、義雄の母校である東京高等商業学校の東京商科大学への昇格運動のスローガンとなり、産業界の指導者を育成するという一橋大学の建学の精神理念にもなったと言われています。義雄の弟である隼吉も寄稿していますが、教員としての肩書は2人とも「講師」でした。

掲載された8枚の写真

写真ページの下出民義校主(左)と大喜多寅之助校長

3号、4号の大きさは150mm×220mmで「菊判」と言われる大きさです。『東邦商業新聞』100号(1939年5月31日)に掲載された100号記念座談会で、校長の下出義雄が、『東邦商業新聞』の前身は雑誌『東邦』で、2号目からは「菊判」で発行されたと語っていることと一致します。
表紙も含めると3号が88ページ、4号が90ページありました。表紙題字を書いたのは下出義雄の母校である神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の初代校長の水島銕也(てつや)です。『東邦』3号では水島を東邦商業学校の商議員、神戸高等商業学校名誉教授と紹介しています。
表紙カットは図画担当教員の原田實によるもので、1号でも使われています。3号に掲載されている職員名簿によると原田は京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)出身です。
ともに大正15年に発行されましたが、3号は3月発行で大正14年度(開校3年目)、4号は12月発行で同15年度(同4年目)の学園の動きが記録されています。『東邦商業新聞』100号の座談会で下出義雄はその内容について、「難しい論文が満載してあった」と振り返っているように、3号、4号も、研究紀要や学術誌を思わせる記事が目立ちます。
ただ、一方では陸上競技、蹴球、水泳、東邦健児団(ボーイスカウト)や文芸部など、誕生したばかりのクラブ活動の様子や学校ニュースも伝えています。特に4号では写真ページが設けられ、下出民義校主、大喜多寅之助校長、校主代理の下出義雄の人物写真3枚と当時の学園の様子が分かる5枚の計8枚の写真を紹介しています。

開校記念日の運動会

下出校主代理と2つの運動会

5枚の写真のうち2枚は運動会の写真です。1枚目の運動会の写真には「優勝旗授与(優勝者葵小学校)」の説明がついています。4号の記事「学校日誌」によると、この運動会は5月12日の開校記念日に開催された「校内小運動会」のことであることが分かりました。
「学校日誌」によると、午前9時半に開会し、午後4時閉会していますが、運動会に先立ち午前9時からは「東邦健児団(ボーイスカウト)発団式」が行われました。3号に下出義雄が寄稿した「東邦健児団の設立と其の精神」によると東邦健児団はこの年(1926年)1月8日に誕生しています。新年度、新入生を迎えた開校記念日のこの日に発団式を行ったものと見られます。写真を拡大すると、ボーイスカウトの制服姿の健児たちがひしめくように校庭を埋めていました。

小学生リレーも大事な生徒募集対策

ボーイスカウト姿が目立つ運動会

 4号には、「開校記念運動会の記」という、4年生の神戸録之助さん(1回生)の記事も掲載されています。発団式では、荘厳裡に東邦健児団の宣誓式が行われ団旗を掲揚。全校400人の健児が高らかに「君が代」を斉唱した後、前年秋に行なわれた小学校リレーの優勝校である上宿小学校(現在の名古屋市立城西小学校)から優勝旗が返還されました。
「白線の上に並んで、出発を待つ選手らが、『オン・ユーア・マークス』『ゲット・セット』とスターター魚住先生の打たれる号砲を遅しと脱兎のごとく飛び出していく」。神部さんの運動会の熱気を伝える描写です。神部さんは、出身小学校別のリレーで、1年たちが、2か月前まで同じ小学校だった懐かしい後輩たちと仲良く駆けていく様子も紹介しています。
午後の小学校リレーには20余校が参加、「物凄き競争の後、遂に葵小学校(名古屋市立葵小学校)のために名誉の月桂冠は授与された」とあります。
開校間もない東邦商業学校では、経営基盤安定のために、様々な生徒募集対策が計画されました。運動会での小学校対抗レースのほかに、小学生弁論大会、励書大会、小学校対抗籠球大会などです。和服姿の民義校主、大喜多校長から優勝旗を受け取る葵小学校の児童たちはやや緊張気味です。写真は、校舎2階窓から、足を投げ出して表彰式の様子を見ている制服制帽の生徒たちの姿もとらえています。
開校を記念して運動会や遠足、講演会などの行事が実施されましたが、50年史によると、開校記念日行事を紹介した記録では、『東邦』4号の「学校日誌」の記事が、「現存する最も古い記録」と記載されています。ちなみに開校記念日に定められた5月12日は下出義雄の誕生日です。1890(明治23)年5月12日生まれですから、 この日で36歳を迎えていました。校主代理の下出義雄は1928(昭和3)年度から副校長、1934(昭和9)年9月1日から校長に就任しています。

(法人広報企画課・中村康生)

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