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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第27回

最後の東邦商業学校生

1943

更新⽇:2018年3月5日

21回生の入学

天知さんの思い出を語る鰐淵さん(名古屋市昭和区の自宅で)

東邦商業学校最後の卒業生となったのは1943(昭和18)年4月に入学した21回生です。勤労動員に明け暮れ、戦火を生き延びて卒業を迎えたのは戦後の1948(昭和23)年3月でした。201人の卒業生名簿(五十音順)の最後に名前があった鰐淵(わにぶち)幸彦さん(87)(名古屋市昭和区楽園町)に、東邦商業時代の5年間を振り返ってもらいました。

鰐淵さんは葵国民学校(現在、名古屋市東区にある葵小学校)出身。父親の勧めもあり、建築関係の仕事をしたくて県立の工業学校をめざしましたが受験に失敗し、自宅からも近かった東邦商業に入学しました。東邦商業は、幼い時から運動会や学園祭、仮装行列などを身近に見てきた親しみのある学校でした。

入学した1943年、陸軍、海軍は足りない飛行兵を補うため甲種飛行予科練習生(予科練)志願を全国の中等学校に呼びかけていました。7月5日には愛知一中(現在の県立旭丘高校)の生徒560人余がこぞって志願し、東邦商業でも5年生たちの間に志願の動きが広がるなど騒然とした動きもありました。それでも鰐淵さんたちはこの年は、まだ勤労動員に駆り立てられることはなく学園生活を送ることができました。

鰐淵さん宅には、当時ではまだ高価だった写真機があったこともあり、写真部にあこがれました。しかし、「金がかかるから」と父親に反対されて美術部に入りました。写真部は1938(昭和13)年に新聞部長で美術部の指導もしていた三宅貫一教諭によって、美術部から独立して誕生して活動を続けていました。

写真部だった天知茂さん

21回生卒業アルバムの天知茂(臼井登)さん

鰐淵さんらの同級生には、後に俳優として活躍した天知茂(本名・臼井登)さん(1931~1985)もいました。天知さんは東邦商業を卒業後、1951(昭和26)年)、新東宝の新人発掘オーディションで選ばれて入社。同期の高島忠夫、左幸子、久保菜穂子らには出遅れましたが、1954(昭和29)年には「恐怖のカービン銃」で初主演し、1957(昭和32)年の「暁の非常線」では〝悪役俳優〟として注目されました。以後、個性的な二枚目役とし映画、テレビで活躍しました。芸名はプロ野球人気にあやかり、ドラゴンズの天知俊一監督と巨人の水原茂監督に由来すると言われています。

天知さんの兄である臼井薫さん(1917~2010)は、写真集『戦後を生きた子供達』などでも知られる名古屋市北区上飯田で活躍した写真家でした。兄の影響もあったのでしょうか、天知さんは東邦商業では写真部に入っていました。

鰐淵さんは5年生のとき、天知さんと同じクラスでした。口数の少ない天知さんは、休み時間も教室に残り、校庭で駆け回る同級生たちに視線を送っていました。天知さんと一緒に教室に残ることが多かった鰐淵さんは、「将来、役者になりたいとか、そんな話しは聞いたことはありませんが、人間を観察することに興味があるんだなと思いました」と振り返ります。役者を演ずる原点はこうした観察眼にあったのかも知れません。

鰐淵さんの妻秀子さんと、天知さんの妻で同期の俳優だった森悠子(旧姓本名・森田純代)さん(1932~ 2007)は名古屋の栄小学校時代の同級生でした。鰐淵さんは天知さんと卒業後も年賀状を交換し合い、御園座や名鉄ホールなどでの公演には夫婦で出かけて天知さんを応援し続けました。

「22回生」は大同工業学校生

工業学校への転換計画を示した隈山校長名の回答書

鰐淵さんや天知さんたち21回生が2年生に進級した1944(昭和19)年4月、東邦商業には22回生となる1年生たちは入学してきませんでした。代わって東区赤萩町の校門をくぐって入学してきたのは、南区にある大同工業学校の分校となった「大同工業学校北校舎」の1年生100人でした。

1943年10月12日、戦局が一段と緊迫する中で、生産力向上を迫られた国は、「教育に関する戦時非常措置方策」という閣議決定を行い、男子商業学校は1944年度から工業学校、農業学校、女子学校に転換することが決まっていたためです。東邦商業に対しても、愛知県内政部長名で転換計画提出要求があり、東邦商業では工業学校への転換を決定せざるを得ない状況になっていました。

「実業教育振興中央会」からの照会に対して、東邦商業は1944年1月14日付の隅山馨校長名で、東邦商業学校を工業学校に転換し、新年度は金属工業科約100人を募集すること、商業科は在校生が卒業するまでは継続することを回答していました。しかし、商業科を工業科に転換するとなると、専門教員の配置、実験教室の整備など大きな負担が伴いました。回答では「工業学校の経営は相当費用を要すべきにつき、私学に対しては年に相当額の助成金交付方を文部省当局に進言せられたし」と訴えました。

しかし、目指した「東邦工業学校」への転換は認められず、代わって大同工業学校(現在の大同大学大同高校)の「北校舎」生を受け入れることになったのです。

下出義雄は1931(昭和6)年6月に大同製鋼の第4代社長に就任しており、企業活動に専念するため、すでに1941(昭和16)年に東邦商業の校長を退いていました。一方で、東邦商業学校での体験を生かした工業教育にも力を注いでいました。

1939(昭和14)年1月には財団法人大同工業教育財団を設立し理事長に就任。2月には文部省認可の甲種工業学校として名古屋市南区道徳新町の大同工業学校を開校し、校長には倉敷工業学校から菅毅郎を迎えていました。東邦商業赤萩校舎で授業を開始した北校舎も菅校長のもとで運営されました。

東邦商業と同時代を歩んだ中京商業は「中京女子商業学校」、享栄商業も「享栄女子商業学校」に、滝実業学校は農業学校に転換していました。中京商業では在校生としては上級生の男子生徒が大半であったため、新入生たちは「女子部」と呼ばれたと言われます。

動員先工場が教室に

国民服を着用した下出義雄

鰐淵さんによると、同じ赤萩校舎で学んでいるとはいえ、2年生から5年生までの東邦商業学校生たちと、工業学校生たちとの交流はほとんどありませんでした。葵国民学校時代に顔を知っていた後輩も何人かいましたが、学校生活は本校(南区)主導で行われ、1年生たちの授業の様子を知ることはありませんでした。

東邦商業学校の生徒たちの授業がそれなりに続けられたのは1944年度の1学期まででした。2学期からは工場への勤労動員が強いられ、生徒たちは学校に登校する代わりに動員先の工場に直行し、工場の一角が教室となっていきました。4年生、5年生は大曽根の三菱重工業名古屋発動機製作所、3年生は西区の神戸製鋼、2年生は高辻の岡本工業などへ動員されていました。教員たちも大同工業学校に移ったり、新たな職場を求め東邦商業を離れていきました。

臼井薫さんが撮影した幼いころからの弟の写真集でもある『天知茂』(1999年、ワイズ出版)によると、天知さんの父親が名古屋で始めていた寿司屋が戦争で営業できなくなり、家族は母親の実家がある瀬戸市に疎開。天知さんも一時、瀬戸の学校に転校し、終戦後に東邦商業に戻りました。鰐淵さんは、「2年生から天知さんとはクラスは別々でしたが、一時姿を見かけない時期がありました」と記憶をたどってくれました。勤労動員先が異なれば、同級生同士の消息さえわからなくなっていた時代でした。

『大同製鋼年50年史』に1944年1月に撮影された国民服姿の下出義雄の写真が掲載されていました。1943年末に制定された軍需会社法により、主として航空機製造に関係する150社に対する軍需会社第1次指定が行われました。大同製鋼も第1次指定を受け、生産責任者が会社を代表することになり、社長の下出義雄が生産責任者に就任しました。国民服は生産責任者であることの象徴でした。

旧交を温めた21回生

前列右から2人目が天知さん、後列同4人目が鰐淵さん(1965年10月)

1944年7月、サイパン島が米軍の手に落ち、日本全土は米軍の空襲圏に入っていきました。12月になると名古屋上空に偵察機が飛来し、名古屋市や愛知県下での空襲が本格化しました。そして、12月13日昼、大曽根の三菱重工業名古屋発動機製作所はB29の爆撃を受けました。264人が犠牲になったこの空襲では東邦商業から動員された生徒18人と教員2人の20人が命を奪われました。

あまりにも大きな代償を払った戦争が終わり、東邦商業の授業が再開されたのは1945(昭和20)年2学期からでした。

鰐淵さんや天知さんら東邦商業学校最後の21回生が卒業したのは1948年3月。同年4月からは新制東邦高校もスタートし、東邦商業21回卒業生の中には東邦高校3年生に編入し1949年3月に東邦高校1回生として卒業した生徒もいました。

鰐淵さんや天知さんら21回生17人が、卒業から17年後の1965(昭和40)年10月31日の日曜日、名古屋の中華料理店に集いました。参加者の多くが34歳前後の働き盛りでした。口数が少なく、酒は飲めない天知さんが差し出そうとした高額な会費を、幹事役の同級生が「きょうはみんな平等だから」と笑顔で押し返していたやりとりを、鰐淵さんは懐かしそうに話してくれました。

映画、テレビで大活躍した天知さんは1985(昭和60)年7月27日、くも膜下出血のため亡くなりました。享年54。鰐淵さんが2年がかりでそろえたという天知さんが主演した映画のビデオは25本。「江戸川乱歩の『黒真珠の美女』が一番いいですよ」などと語りながら、鰐淵さんは若くして先立った旧友を偲びました。

 

(法人広報企画課・中村康生)

 

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