第28回 三菱発動機空襲1944

2018年3月13日

先陣切った東邦商業生の深夜作業

東邦商業生の深夜作業を伝える「中部日本新聞」

 1944(昭和19)年6月23日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)に、「学徒の深夜作業、東邦商業を先陣にきょうから実施」という記事が掲載されました。名古屋市東区大幸町の、現在のナゴヤドーム付近にあった三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)で6月22日午後7時半から翌朝7時まで続く深夜作業に取り組んだ東邦商業4年生(19回生)たちを紹介した記事です。「深夜作業に敢闘する東邦商業生」という写真も掲載されました。

 記事によると、深夜作業にあたり同工場では、4、5年生に対して付属病院で綿密な身体検査を実施。工場に入ってから体重が2kg以上減った者など、深夜作業に不適当と見られる生徒は除いた8割を従事させました。生徒2人(いずれも故人)の感想も紹介されています。松本幸男さんは「物量を誇る敵米がサイパン島に押し寄せたと聞き歯ぎしりした。何が何でも兵器増産に全力を打ち込まなければならぬ。いよいよ二直(二交代勤務)の突撃命令は下され、家を出るとき武者震いを禁じえなかった」と兵器増産への決意を述べています。

 高原茂さんは「初めての徹夜作業で何だか嬉しい。家なら両親が早く寝ろと叱るのですが、今晩は大威張りだ。友だちと道道、〝夜行軍に行くようだネ〟と話し合ってきた」と、初体験の深夜作業に加わる喜びを語っています。少年らしいあどけなさも伝わってきます。

 深夜作業に駆り出された19回生は15、16歳。1928(昭和3)年の辰年生まれか1929(同4)年の巳年生まれで、卒業後、同期会は「東邦辰巳会」と名付けられました。高原さんが述べているように、普通なら親に「早く寝ろ」と叱られるはずの深夜に、少年たちは飛行機増産のために12時間近い深夜勤務に駆り立てられました。そして少年たちには過酷とも言える深夜労働を新聞は美談として仕立て上げていました。

 本格的な学徒の戦時動員が実施されたのは1943(昭和18)年6月の閣議決定からですが、1944(昭和19)年7月には文部、厚生、軍需省次官通達により、動員された学徒たちの1日10時間勤務、交代制深夜業も始まりました。愛知県では全国に先駆けて学徒たちの深夜増産作業が始まり、その先陣を切ったのが東邦商業の生徒たちでした。

20人の犠牲者

三菱発動機空襲の惨事を伝えるナゴヤドームのプレート

 1944年7月、サイパン島が米軍の手に落ちたことで、日本全土が米軍の空襲圏に入りました。とりわけ、航空機産業の拠点であった名古屋市を中心にした愛知県下への空襲は12月から始まりました。エンジン工場である三菱発動機は12月13日に、機体組み立て工場である三菱航空機(三菱重工名古屋航空機製作所、港区大江町)は12月18日に、それぞれ最初の空襲を受けました。空襲は翌年4月にかけて、三菱発動機では7回、三菱航空機は2回と続きました。

 三菱発動機への1回目の空襲となった12月13日、B29による爆弾投下が午後1時ごろから始まりました。181トンの爆弾が降り注ぎ、330人の命を奪いました。動員されていた東邦商業の生徒18人と教員2人の20人も犠牲となりました。

 犠牲になった教員は森常次郎と村松俊雄。生徒は5年生(18回生)1人、4年生(19回生)17人です。森教諭は東邦商業が開校した2年目の1924(大正13)年度に富山薬専(現在の富山大学薬学部)を卒業して赴任。医師志望、上級学校進学希望の生徒たちのために熱心に指導し背中を押し続けました。村松教諭は3回生(1930年卒)で、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経学部)を卒業後、母校に戻り教壇に立っていました。

 犠牲になった5年生(18回生)は小沢竜雄だけです。残り17人は4年生(19回生)で、青木肇、浅井健一、荒井量一、伊藤英夫、今井昭、遠藤保、小川清、奥村昇造、小山田重威、清宮茂、居松幹雄、鈴村一義、長江昇三、船橋賢一、韓守備(蓑本守冾)、毛利弘、八木幸作でした。

 三菱発動機に動員された学徒数は1944年6月現在で2158人に及びました。八高1050人、東邦商業439人、愛知県工業学校180人、同中川工業学校190人、名古屋市立第一工業学校150人、同航空工業学校149人です。(東邦辰巳会発行『思い出』より)

情報統制の中で

三菱発動機製作所の作業風景(『愛知県史資料編30』より)

 4年生だった岡島貞一さん(名古屋市西区)は12月13日、三菱発動機での動員作業は午後5時から翌朝7時までの夜間勤務でした。1週間前の12月7日には、三重県尾鷲市沖を震源とするマグニチュード7.9、最大震度6が観測された東南海地震が発生し、岡島さんら三菱発動機に動員されていた東邦商業生たちも防空壕に避難するなど恐怖の体験をしたばかりでした。

 死者・行方不明者が1223人に及んだ巨大地震.停電の中、岡島さんは出荷前のプロペラシャフト300本近くが、音を出して倒れていくなかを出口に走り、防空壕に駆け込みました。しかし、工場でどれくらいの被害があったのか、どれくらいの規模の地震で、どれほどの被害や犠牲者が出たのかは全く分かりませんでした。太平洋戦争末期の戦時下では、情報が厳しく統制されていたからです。軍需工場が集積する東海地方で大きな被害が伝わることで、「軍部が国民の士気低下を恐れたため」とも言われています。

 12月13日夕、自宅から三菱発動機の工場に着いた時、岡島さんが目にしたのは惨劇の風景でした。奥の食堂に犠牲者の棺が安置されていましたが、まだ木に引っかかっている死体や衣服もありました。そうしている間にも警戒警報のサイレンが響き、同級生たちとともに矢田川に懸命に逃げました。

この世の地獄図

20人の犠牲者を悼む「平和の碑(いしぶみ)」(東邦高校で)

 12月13日の三菱発動機での空襲体験を、18回生の吉野常雄さん(2014年死去)が、東邦会発行『追憶の記』(1953年)に記していました。(抜粋)

 <相変わらず藁埃(わらぼこり)や異物混じりの黒い玄米食と冷凍鰊(ニシン)の食事を、村松、森、坂倉(謙三)、伊藤(鍈太郎)先生らと共にして、30分の休憩を終わり、職場に戻ってすぐだった。

 突如として鳴り響く空襲警報。所定の防空壕へ職場ごとに学友がまとまり入る間もなく、高射砲の炸裂音が聞こえたと思うやB29の編隊が姿を現した。当地方としては、本格的な空爆は経験したことがなく、壕より顔を出して眺めているほどの不用意さだった。炸裂し続ける高射砲弾、4条の飛行雲を引きつつ、1波、2波、3波と同一コースで迫ってきた。耳をつんざく高射砲弾の中に爆弾落下の音、崩壊する工場地殻を揺るがす爆裂。私どもの入っていた壕も、太い梁(はり)が至近段弾で飛び散ったコンクリートのためにへし折れたほどだった。

 工場のスレート屋根、ガラス窓は粉々に乱れ飛び、電柱は倒れ、電線は垂れ下がり、山積した資材は散落し、その中を我先にと、工場から一歩でも遠のかんものと、或は覚王山方面へ、或は矢田川へと逃げる人の群れ。まさにこの世の地獄図である。もう先生の指示を仰ぐことも困難となり、空襲後、工場に集合することを約して学友とともに矢田川をめざして走り続ける。既に敵機は第2波が頭上に迫って来た。橋を渡る余裕がなく、堤防を下りてそのまま川を渡らんとするも爆弾の落下音。川底のへこみに思わずつつ伏した。無我夢中で生きた心持ちはない。至近弾に石や砂をかぶり、あちらこちらと死体の転がる中を、少しでもへこんだ所をと右往左往するのみだった――>

大同製鋼社長室にも鳴り続けた電話

「慰霊の日」で献花する岡島さん(2017年12月5日、東邦高校で)

 9回生で野球部の選手、監督として甲子園での優勝経験もある高木良雄は、1943(昭和18)年2月に経理担当の将校として北京に駐屯し、戦後は母校に簿記教員として勤務、野球部長や東邦学園事務局長などを歴任しました。

 三菱発動機に爆撃があった12月13日、たまたま軍の公用で日本に戻っていた高木は、所要で立ち寄った愛知県庁近くで正午ごろ、けたたましい警戒警報のサイレンを聞きました。高木はいったん逃げ込んだ防空壕を出て、遥か東方から銀翼を連ねて姿を現わしたB29の機影を確認しました。7機、8機と機体の数は増えていきました。

 高木はとっさの判断で近くの滝兵ビル(当時の西区御幸本町)に駆け込みました。滝兵ビルには大同製鋼の事務所が移転してきており、社長室には東邦商業の理事長でもある下出義雄や顔見知りの友人たちもいるはずです。すでに、三菱発動機のある大曽根方面から立ち上る煙が見え、周囲の人々が「三菱の工場が攻撃されている」と叫んでいました。

 社長室に飛び込んだ高木は、下出に温かく迎えられましたが、やがて社長室の電話がけたたましく鳴りました。三菱発動機への爆撃を知らせる第1報でした。電話は鳴り続け、東邦商業から犠牲者が出たことが明らかになりました。社長秘書だった江崎真澄(6回生、戦後は衆院議員となり防衛庁長官などを歴任)も赤萩の学校に向かいました。「職員4人、生徒10人が亡くなった」。この時点で高木が知りえた詳報でした。実際には教師2人、生徒18人という犠牲者について知ったのは戦後の1946(昭和21)年11月に帰国後でした。

 高木は学校に駆けつけるべきかどうか迷いに迷いました。しかし、部隊に帰任しなければならず、夕暮れの早い冬の広小路を後にしました。高木も、一生忘れることはないであろう、この日の悪夢のような体験を『追憶の記』に書き残していました。

(法人広報企画課・中村康生)

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