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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第29回

インパール行軍からの帰還

1944

更新⽇:2018年3月28日

 ジャングルで拾った新聞に母校の記事

奇跡の生還をした卒業との思い出を語る久野さん

東邦学園参与で東邦高校元校長の久野秀正さん(87)(名古屋市千種区西山元町)は、校長だった30年近く前の東邦商業卒業生との出会いが忘れられません。出会ったのは1989(平成元年)9月。東京で開催された東邦会関東支部の懇親会でした。久野さんが名前を思い出せないことを残念がるその卒業生をAさんと呼ぶことにします。

Aさんは第2次世界大戦末期、インパール作戦に動員されました。日本軍がイギリス軍の拠点があったインド北東部のインパール攻略を目指して1944(昭和19)年3月から開始された作戦です。しかし、相手戦力や前線への軍需品、食糧などの供給を軽視したことで、兵士たちはインパールにはたどり着けず7月1日に作戦を中止、死者3万人、傷病者が4万人を超すという大敗北を喫しました。敗走する兵士たちは飢えやマラリアなどでも倒れ、屍が続いた道は「白骨街道」と呼ばれたほどの悲惨な戦いの末路でした。

Aさんも絶望的な敗走を続けましたが、ジャングルの中で、古びた「中部日本新聞」(現在の中日新聞)を拾いました。同郷の兵士が落としたのでしょう。紙面を追ったAさんの目に飛び込んできた記事がありました。何と母校である東邦商業の記事でした。

「懐かしい母校ではないか」。そう思った瞬間、感動にも似た衝撃が走りました。「どうしても自分は祖国に帰るんだ」とAさんは決意したそうです。記事の載った新聞を胸ポケットに入れました。「自分は母校とともにいる」。そう思うと、不思議な熱い力が湧いてきました。Aさんそれから、何度も胸ポケットに手をあてながら自分を励まし続け、極限状況を切り抜け、ついに祖国への生還を果たすことができたのです。

「死の瀬戸際から生への世界に引き戻してくれたのは母校でした。ぼろぼろになった新聞は今でも持っています」。目を輝かせながら語ったAさんの形相を久野さんは、今でも忘れることができません。

「教育決戦態勢」の商業学校

インパール進攻を伝える記事(1944年4月14日・中部日本新聞)

Aさんは久野さんに、自身を1940(昭和15)年卒業の13回生だと紹介しました。卒業者名簿で首都圏在住の13回生を探してみましたがいずれも故人か、記載された電話番号は使用されていませんでした。卒業から78年が過ぎており、Aさんも存命なら95歳前後のはずです。

13回生の名簿には、東邦商業が1939(昭和14)年のセンバツ甲子園で、圧倒的な強さで2回目の優勝に輝いた時の野球部員たちも名を連ねていました。優秀選手賞などに輝いた長尾芳夫、久野欽平、竹内功、神戸晧昌、谷義夫らです。

久野さんによると、Aさんが語った「中部日本新聞」に掲載された記事とは、東邦商業が商業科を廃止し、工業科の学校に変わるという記事でした。「語り継ぐ東邦学園史」の第27回「最後の東邦商業学校生」でも紹介したように、東邦商業は1943(昭和18)年入学の21回生を最後に、商業科生徒の募集停止に追い込まれていました。

名古屋市昭和区の鶴舞中央図書館で該当記事を探しました。1944年2月1日「中部日本新聞」に、Aさんが手にしたと思われる記事が掲載されていました。「伝統の校史よさらば 中京中等学園決戦へ再出発」の見出しの記事です。愛知商業、名古屋商業を除く商業学校が、工業科への転換を図る愛知県内の〝教育の決戦態勢〟に転換する動きがまとめられていました。

岐路に立たされる母校

商業学校の転換を伝える記事(1944年2月1日・中部日本新聞)

その記事は、「転換商業生の行方」として、名古屋市の市立二商、市立三商、市立四商、貿易商業、東邦商業、中京商業、享栄商業、金城商業、高辻商業の9校の転換の見通しを特集していました。東邦商業、中京商業、享栄商業と、東邦商業の姉妹校でもある金城商業に関する記事は以下の通りです。

▽東邦商業

創立21年の歴史に終止符を打って新学期から東邦工業として再発足する。現在、在学中の全生徒は商業生として卒業させるから、新入生だけが工業生となるわけで、同校では校舎の使用方法について案を練っている。

▽中京商業

新学期から女子商業に転換するが、ここは中商の名称をそのまま残し、従来の男子部募集を停止、新たに女子部生徒を募集する。在学生は全部卒業するまで授業を継続。従って、現在の1年生が卒業するまで男女共学となるので、校舎を塀で分離し、授業も校門も完全に区別する。

▽享栄商業

新学期から享栄女子商業となり、30年の伝統にさよならを告げるが、在校生徒は卒業するまで、そのまま存続教授する。女子商業生の校舎は以前体育館の予定で建築中の建物を使用する。

▽金城商業

名古屋育英商業が金城商業と改まったのが昭和9年12月。創立後10年の歴史は浅いが、今回の廃止は感慨深いものがある。校舎を離れる在学生徒は全部東邦商業へ転学、卒業まで商業教育を受けることとなった。

 

歴史を積み重ねてきた母校はどうなるのか。それぞれの学校の卒業生たちにとって、大きな関心があった記事に違いありません。ジャングルに残された新聞の持ち主も名前が登場した学校の卒業生だったかも知れません。

市民から親しまれた「東邦」が消える

「姿消す東邦商」の記事(1944年3月2日・中部日本新聞)

さらに、当時の「中部日本新聞」の紙面を追っていくと、1か月後の3月2日付でも「姿消す東邦商 校舎は大同工へ」という記事がありました。

<21年の歴史と伝統を誇り、市民から親しまれた学園東邦の名が、教育態勢決戦化に伴い、中京学園から発展的解消する。さきに時局の要請に応じて、工業学校に転換決定した東邦商業は、着々開校の準備中だったが、姉妹校の大同工業との関係から、県当局とも懇談の結果、大同工業定員百名を二百名に増募し、東邦工業の新設をこれに代えることに決定。現在の東邦商業の校舎は大同工業校舎となるはず。なお、在学生は商業生徒として卒業させる>

記事で「姉妹校」と紹介しているように、東邦商業、大同工業の理事長は、大同製鋼社長でもある下出義雄でした。そして「語り継ぐ東邦学園史」でも紹介したように、1944(昭和19)年4月、東区赤萩町にあった東邦商業学校に入学してきたのは、本校が南区にある大同工業学校の「北校生」100人でした。

 

生きる力与えてくれた母校

東邦商業1回生が贈った「母校愛」碑(東邦高校で)

Aさんたち13回生が卒業したのは1940年3月。4月には赤萩校舎に、「紀元二千六百年記念」とした、初代校長の大喜多寅之助が「母校愛」の文字を刻んだ碑が贈られました。現在は名東区平和が丘にある東邦高校に移されています。碑の裏面には建立した鏡味徳次を始め第1回卒業生33人の名前が列記されています。Aさんら13回生は「母校愛」碑が建立される直前には母校あとにしたことになりますが、Aさんは、母校愛が灯してくれた生きることへの執念で奇跡的な生還を果たしました。

「戦前の卒業生の方々の愛校心が強いのには本当に驚きました。そして、母校は、死の淵から這い上がらせてくれるほどの力も持っているんですね」。久野さんはしみじみと語りました。久野さんはAさんとの出会った時の感動を、翌年、「東邦会報」25号で紹介しました。その記事は、「強い母校愛を抱いている3万名の卒業生各位に、十分応えられる教育づくりに一層精進したいと、教職員一同心に誓っているところでございます」と締めくくられていました。

Aさんに、祖国に帰る力を与えた記事が、2月1日の記事だったのか3月2日の記事であったのかは不明です。どちらの記事であろうと、Aさんにとっては、母校「東邦」の2文字は死の淵から見えた希望の光でした。

「校名は変わっても、嵐に耐えればよみがえる機会はきっとあるはずだ」。存続の危機にさらされている母校を、Aさんは自分と重ね合わせていたのでしょう。胸ポケットの母校が載った新聞がいとおしかったに違いありません。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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