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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第30回

哀しみの青春  

1945

更新⽇:2018年4月6日

三菱工場から逃げて犠牲に

「慰霊の日」で献花する鰐淵さん(左端、2017年12月東邦高校で)

東邦高校正面入り口前には「平和の碑」とともに、名古屋空襲による犠牲者を悼む碑が建てられています。碑には1944(昭和19)年12月13日、三菱重工名古屋発動機製作所(以下、三菱と略)で犠牲になった東邦商業学校20人(教員2人、生徒18人)と、別の空襲で亡くなった2年生2人の計22人に名が刻まれています。

14歳という若さで散った2年生は21回生の田島三郎さんと野村幸作さんです。田島さんは三菱への空襲から9日後の12月22日、2回目の三菱空襲で犠牲になりました。12月13日の空襲後、三菱では、警報が発令されると全員に工場外への待避命令を出していました。田島さんは仲間とはぐれて一人で逃げ、矢田橋東側の守山町(現在の名古屋市守山区)で爆撃の犠牲となりました。瀬戸市の陶生病院に運ばれましたがもう、手のほどこしようがなく翌23日に息を引き取りました。

当時教員だった山中英俊は、東邦辰己会が三菱空襲で犠牲になった19回生たちが同期生たちを偲んでは発行した『思い出』にその時の様子を寄稿していました。「『飛行機増産』の文字を染めた日の丸の手ぬぐいを鉢巻にした少年田島君の最後の言葉は、『先生、こんなことになってもう飛行機は作れなくて残念です』の一言でした」。

三菱で配られた「神風」の文字と日の丸が入った手ぬぐい鉢巻は同じ21回生の伊藤幸一さん(名古屋市昭和区)が大切に保管していました。

21回生の鰐淵幸彦さん(87)(名古屋市昭和区)は田島さんとは1年生から一緒に授業を受けた同級生でした。鰐淵さんは「田島君のあだ名はターキー(七面鳥)だった。すぐ赤くなるやさしい性格でした。酒井佐一先生が教える英語の授業で、みんな習った単語を何でも言ってみたい時期でした」とあだ名の由来を話してくれました。「本人には悪いのですが、クリスマスとターキーが一緒になって思い出になっています。よりによってクリスマスの時期に逝ってしまうとは」。

学校に駆けつけた防空要員生徒

三菱で使った鉢巻を保管していた伊藤さん(名古屋市昭和区の自宅で)

深刻な労働力不足を補うため、中等学校以上では生徒や学生たちは「学校報国隊」として軍需産業や食糧生産に動員されました。東邦商業学校では1年生の入学が途絶えた1944年度、2学期からは2年生(21回生)たちの勤労動員が始まりました。3年生以上には夜間作業も強いられましたが、2年生のうち自宅が学校に近い生徒たちは「防空要員」を命じられました。

昼間に工場に動員されていても、空襲の警戒警報が出されれば直ちに名古屋市東区赤萩にある東邦商業に駆けつけなければなりませんでした。夜間は自宅から直ちに学校に参集しました。自宅が安房町(あわまち、現在の東区葵2丁目)だった鰐淵さんを始め、学校から半径2kmほどに住む生徒たちが対象となりました。

15人近い防空要員の中心となったのは鰐淵さんら葵国民学校(現在の葵小学校)出身の生徒たちでした。警報とともに駆けつけ、防火態勢に入りましたが、警報解除とともに解散となりました。駆けつけた生徒たちにはカンパン1個が配られました。

12月13日の三菱空襲の際、鰐淵さんは同級生の水谷助五郎さんとともに大幸町の三菱工場から走って東邦商業をめざしました。5分ほど走り、千種区鍋屋上野町付近に差しかかったころ、B29 爆撃機から三菱工場に向かって次々に落とされていく爆弾の束を見ました。「爆弾に小さなプロペラがついているのでしょう。スルスルという音が聞こえました。爆弾は斜めに落ちていきました。水谷君と手をつないで懸命に学校に走りました」。鰐淵さんと水谷さんが赤萩の学校に駆け込んだのは三菱工場を飛び出して約30分後でした。

おんぼう車引く父

22人の名前が刻まれた名古屋空襲犠牲者を悼む碑(東邦高校で)

1945(昭和20)年の年が明けると空襲は一段と激化しました。「ピースあいち」(名古屋市名東区)が作成したブックレット『名古屋空襲と空爆の歴史』によると、1月には3日に97機、14日、23日に各73機のB29が名古屋上空に出撃してきました。名古屋空襲による犠牲者を悼む碑に、田島さんとともに名前が刻まれた野村さんが犠牲になったのは1月23日早朝から始まった空襲でした。

『追憶の記』(東邦会発行)などによると、東邦商業で当直だった坂倉謙三教諭は午前4時ごろ、警報サイレンの音に目を覚ましました。その後、百雷が落ちたかのような衝撃があり、学校中の何千枚というガラスがこっぱみじんに飛び散りました。白々と明けてきた校庭に目をやると、校庭に直径2mほどの穴が開き、器械体操の鉄棒が切断されていました。コンクリート塀にはあばたのように穴が開けられていました。破壊力のすごい新型小型爆弾でした。

この日、B29機は広小路の電車通りの北約220m沿いに栄町、東新町、車道、赤萩(東邦商業校庭)今池、池下、覚王山の8か所に爆弾を降り注ぎました。今池北寄りに落とされた爆弾で犠牲になったのが野村さんでした。

防空要員の使命感に燃えた野村さんは、家族の止めるのも聞かず、防空頭巾をかぶり学校に向かい犠牲になりました。爆弾破片は野村さんの臀部肉片をそぎ、野村さんは気を失いました。通り合わせた地区の救護隊長の歯科医師に発見され、近くの内山小学校の裁縫室に寝かされた後、病院に運ばれました。東邦商業から教員たち、父親らも駆けつけましたが野村さんはその夜10時ごろ、息を引き取りました。

「父親や家族がおんぼう車(遺体を運ぶ車)を引いていた。かわいそうだったよ」。同級生で、車道に下宿していて、やはり防空要員だった藤井昭吾さん(87)(三重県いなべ市藤原町)は、73年前の記憶をたどりながら、友の死を悼みました。鰐淵さんも本来なら防空要員として学校に駆けつけなければなりませんでしたが、この日は家を出ませんでした。「虫の知らせというか、家を出るのが怖くてじっとしていました。あとで、同級生が犠牲になったことを知りました。それが野村君でした」。鰐淵さんにはつらい、哀しい思い出でした。

戦火から守られた選抜優勝旗

選抜優勝旗を運び出した藤井さん(三重県いなべ市の自宅で)

名古屋空襲は一段と激しくなりました。2月15日には117機、3月12日と19日には310機のB29が飛来ました。3月12日の空襲からは、それまで昼間に高高度から軍需施設や工場を狙って行われていたのが、夜間に低空からの無差別爆撃に変わりました。3月19日の空襲で東邦商業は体育館を全焼しました。焼夷弾は校長室にも降り注ぎ、当直だった坂倉謙三教諭は布きれで焼夷弾をつかみ窓の外へ放り出し、間一髪、校長室を焼失の危機から救いました。

校長室には学籍簿など重要書類のほか、戦前の甲子園では最後の開催となった選抜中等学校野球第18回大会(昭和16年)で東邦商業が手にした紫紺の優勝旗がありました。防空要員として車道の下宿から駆けつけた藤井さんたちも夢中で校長室にあった選抜優勝旗や四商リーグ優勝旗などを運び出しました。

「優勝旗は東邦が甲子園で最後に優勝した時の旗であることは知っていたので、何としても守らなければと思った。予想以上に重く、野球部の選手たちはよほど力が強いんだなと思いました」。藤井さんは途切れ途切れの記憶を必死につなぎ合わせるように、選抜旗を運び出した時の体験を語りました。

青春のつぼみのまま逝った1000人

勤労学徒犠牲者を追った佐藤さんの著書

鰐淵さんや藤井さんと同じ1930年生まれで、愛知県史の調査執筆委員も務めた佐藤明夫さん(愛知県半田市)は、2004年に『哀惜 1000人の青春~勤労学徒・死者の記録』という本を風媒社から発刊しました。佐藤さんによると、全国で推定1万4000人(沖縄学徒を含む)の勤労学徒が戦争災害の犠牲となり、愛知県では全国最多の1096人が青春のつぼみのまま命を奪われました。

佐藤さんは愛知県内の学校ごとに、犠牲となった生徒たちの最期を、新聞や学校史、同窓会記録史などをもとに丹念に調べ続け、埋もれていた事実を明らかにしていきました。学校別の戦災死亡者数では最も多かったのは中京商業の98人で愛知時計、愛知航空機で犠牲となりました。多い順では17番目の東邦商業は21人。名古屋空襲による犠牲者を悼む碑に刻まれた20人と、1943(昭和18)年1月8日に軍作業奉仕中に土砂崩れの下敷きとなって死亡した4年生の加藤長正さんを加えた犠牲者数です。

愛知県の犠牲者の大半が空襲によるものですが野村さんは唯一の「防空要員 空襲」として紹介されていました。

佐藤さんは大垣市生まれ。病気のため1年遅れで旧制の岐阜中学に入学しましたが、学校に近い岐阜市内に住んでいたため、防空要員でした。警戒警報が鳴れば学校に駆けつけ、校長室に集まった経験が2、3回ありました。防空要員の大きな役目は御真影(天皇陛下の写真)を守ることでしたが、実際に担うのは教師で、生徒たちは補助役でした。

東邦高校を訪れ、「平和の碑」の前に立ったこともある佐藤さんは「野村さんは私と同じ昭和5年生まれ。不運でした」と声を落としました。

佐藤さんは防空要員について、「記録を焼失している学校が多く、どれだけの学校で実施されていたかはつかめませんが、どこでも御真影を安全な所に避難させるのと初期消火が任務だったと思われます。岐阜中学もそうでしたが、防空要員は1年生、2年生で、3年生以上は報国隊として勤労奉仕に専念させられました」と話しています。

鰐淵さんは「学校に集合した時は、最初に担架10人分くらいを校庭に並べる仕事もあったので、救助要員の役割もあったのかも知れません」とも話しています。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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