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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第31回

コラム③ 赤萩の学窓を想いて

1928

更新⽇:2018年4月17日

新校舎草原で「攻城ボール」

平出さんらが学んだ当時の赤萩校舎(1回生アルバム)

「語り継ぐ東邦学園史」ではこれまで旧制東邦商業学校の歩みを紹介してきました。学園草創期の興味深い学園風景が、戦後、新制東邦高校から発行された『東邦新聞』にもしばしば登場していました。学園創立30周年号でもある1953(昭和28)年10月30日発行の13号に掲載された記事もその一つです。東邦商業の第1回卒業生平出二郎さんが「赤萩の学窓を想いて」と回顧していました。

平出さんら1回生は1928(昭和3)年3月に卒業。平出さんは下出義雄副校長の勧めで大同製鋼に入社しました。1931(昭和6)年6月から社長に就任した下出のもとで同社に18年勤続。終戦を機に退職し、中区上前津に土木建築会社を創業していました。

平出さんの回顧は新校舎誕生の喜びから始まっています。東邦商業は1923(大正12)年に、中区南新町の中京法律学校の教室を間借りして開校。翌1924(同13)年から東区赤萩の新校舎に引っ越しました。「赤萩の新校舎へ移った時は本当にうれしかった」と平出さんは筆を進めます。

広い校庭の一隅に校舎1棟があるだけで、裏の方は広い草原でした。この草原で、生徒たちは、教練担当の石田孝一教諭(陸軍戸山学校出身)の指導で、「攻城ボール」と言われる競技に取り組みました。<ラグビーとバスケットボールの中間の様な競技で、寒中などは皆喜んでやったものです>と平出さんは振り返ります。

下出義雄副校長の〝剛速球〟

「英国紳士」とも呼ばれた下出義雄副校長(1回生アルバム)

下出副校長は毎日出校していました。生徒間では英国紳士、スポーツ先生タイプと呼ばれていました。平出さんにとって強烈な思い出は、下出副校長とのキャッチボールでした。

<天下に名をなした東邦の野球も、その頃は選手も何もなく、野球好きの下出先生はまず道具だけでもと4、5点のミット、グローブ、球を買い入れた。バットの必要はなかった。今のプールのあるところで、私はキャッチボールの相手をよくさせられた。私も野球は大好きだが、自分でやることは自信がないので、有り難いような、有り難くないような気持ちでした。先生は「一中時代は!」とか言われて、強い球を投げられ、随分ひやひやしたものです。今思いますと、その頃すでに先生には、あの甲子園の日本一を夢に見ておられたように思います>

「語り継ぐ東邦学園史」第8回の「野球部誕生への足踏み」では、1928(昭和3)年10月1日「東邦商業新聞」13号に、「先生チーム惜敗」という見出しの記事が掲載されたことを紹介しました。同年9月20日、東邦商業学校の校庭で行なわれた先生チーム対野球部(軟式)1、2年チームの野球試合です。先生チームは下出副校長ら3人の投手が繰り出しました。

硬式野球部が創部されたのはこの2年後の1930(昭和5)年。平出さんが、愛知一中時代から野球部で鳴らした下出副校長の〝剛速球〟を受けていたのは、この試合が行なわれるさらに前です。下出副校長の硬式野球部創部への想いは、赤萩時代幕開け当初から相当強かったのでしょう。

「ココアンダ・ライン」先生と「総理大臣」先生

職員室の教員たち(1回生アルバム)

三菱重工名古屋発動機製作所空襲で18人の生徒たちとともに犠牲になった教員の一人が森常次郎教諭でした。化学だけでなく数学も教えましたが、森教諭の出す数学の試験問題も生徒たちには話題になりました。

<非常に親切で、試験に出すところを教えて下さると言うと良いようですが、授業中、突然、ここ必要。アンダーライン、またはレッドラインと言われます。最初のうちは喜んでいましたが、いつしか教科書はラインでいっぱいになり、試験勉強の時はいよいよ見当がつかなくなり閉口したものです。ついに先生のニックネームが「ココアンダ・ライン」となりました>

「総理大臣」と呼ばれた先生もいました。商業算術の吉橋丈太郎講師(早稲田大卒)です。平出さんによると、吉橋講師は政治への興味、関心が非常に強く、授業では時々、満州事変などについて熱弁を振るいました。

<その時間になりますと、教室のどこかで、「東亜の情勢は?」と声がする。先生得意のジェスチャーで、教壇の角から角まで歩き回る。時々、洋服のえりを正しながら、総理大臣気取りになられると、どこからともなく、「総理大臣」「色男」「タキシード」等の声が上がりました。ぼつぼつ口角泡を飛ばし、いよいよ熱が上がり先生の研究発表となる。そしてこの頃、教壇から落ちる。このように書きますと、とても面白いようですが、さにあらず。試験は他の先生より難問、また採点は辛い。この科目は特に自修しないと、学期末には困ったものです>

陸上競技を鍛えた「電信棒」先生

陸上部を指導した鳥井(魚住)教諭(1回生アルバム)

平出さんは、「英語を担当せられた鳥井先生は陸上競技を指導せられ、競技部の活躍はめざましいものでした」と鳥井義紀教諭を紹介しています。非常に温厚で、生徒間でも親のように慕われたという鳥井教諭は、あまりにも身長が高く、体が細いので、生徒たちからは〝電信棒〟のニックネームがつけられました。驚くべきことに、平出さんは、鳥井教諭がオリンピック出場選手でもあると指摘しながら、興味深い思い出を紹介しています。

<僕は運動の好きな、しかもオリンピックに出場の先生の体格を不審に思い、ある日、お聞きしたところ、先生は「実に恥じ入る話ですが」と前置きし曰く、「兵役検査に合格しないよう、2、3日前醤油を1合ほど飲んだ」と、真面目になられた。「そのためか、体がやせ、以後いくら栄養を取っても肥えないよ。君らも僕のようなことはしないように」と申された。現在(1953年)、鳥井先生は「碧海郡高岡村堤上平地」(現在の豊田市高岡町)において、田園生活に入念、天高く馬肥える今日をお暮らしになっておられます>

 

「鳥井」先生と「魚住」先生

平出さんの記事が掲載された「東邦新聞」(1953年10月30日)

東邦学園「50年史」巻末の歴代職員名簿によると、鳥井教諭の旧姓は魚住で、平出さんら1回生が卒業した1928(昭和3)年3月に退職しています。1926(大正15)年3月に発行された校友会雑誌『東邦』3号に掲載された職員名簿には「魚住義紀」として掲載されており、慶応大学理財科を卒業しています。1924(大正13)年4月1日で東邦商業教諭となり、簿記、地理を担当したことになっています。

同誌には魚住教諭の「『商港』に就いての研究」という論文も掲載されているほか、運動会など校内スポーツ行事、陸上部、蹴球部の指導ぶりがうかがえる記事も掲載されています。平出さんらが5年生に進級した1927(昭和2)年時点で魚住教諭は鳥井姓に改姓したものと思われます。

「オリンピック出場」については、JOC(日本オリンピック委員会)のデータベースで探してみましたが、「魚住義紀」「鳥井義紀」の名前は見つかりませんでした。

戦時体制下の日本では1940(昭和15)年、東京オリンピック開催の動きがありました。名古屋市でも総合運動場建設の必要性をめぐる論議が高まりました。『幻の東京オリンピックとその時代 戦時期のスポーツ・都市・身体』(青弓社、2009年)という本に、「鳥井義紀」の名前が登場していました。

総合運動場建設に向けた運動団体代表者協議会の会議の席上で、名古屋体育協会主事の鳥井は、スポーツ関係者の立場から、競技場完備に向けて大いに動いてほしいと発言。議論の結果、「総合運動場建設促進」と「鶴舞公園運動場の公認競技場への改造」が市長と市会議員あてに建議案として提出されました。平出さんが回想で触れている、鳥井教諭(または魚住教諭)とオリンピックとの関わりがどんなものであったのか。非常に興味深い話であり、今後も注目し続けたいと思います。

(法人広報企画課・中村康生)

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