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語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第32回

コラム④ テレビ時代の虹を追って

1932

更新⽇:2018年4月24日

「東邦人国記」

谷口さんが紹介された「東邦人国記」(1965年3月16日号)

東邦高校の新聞部が発行した「東邦新聞」に「東邦人国記」というコラム欄が掲載された時期がありました。活躍する卒業生に新聞部員がインタビューして作る記事です。「東邦新聞」の全号は残っていませんが、古い綴じ込みを開くと、俳優の天知茂さん(東邦商業21回生)、プロ野球選手の北角富士雄さん(東邦高校17回生)らも登場していました。(天知さんについてはこの連載の第27回「最後の東邦商業学校生」で紹介しています)
1965(昭和40)年3月16日発行の56号で「東邦人国記」に登場したのは1932(昭和7)年3月に卒業した東邦商業5回生の谷口忠雄さん。NHK名古屋放送局制作部長です。『NHK名古屋放送局80年のあゆみ』(以下は「NHK80年」と略)によると、谷口さんの記事が掲載された1965年のNHKでは、新設された愛知県体育館から大相撲名古屋場所が初めてカラー中継されました。テレビ成長期と言われた時代です。当時の東邦高校の生徒たちにとって、華やかなテレビ界の最前線で、NHK制作部長として活躍する谷口さんは輝ける先輩であったに違いありません。記事の一部(要旨)です。
<谷口氏は、1年後輩で、現在衆議院議員として国会で活躍しておられる江崎真澄氏などと一緒に弁論部で盛んに活躍したことが何といっても一番の思い出だそうである。「昔から好きだったマスコミ系の職場である放送局に就職して、弁論部で学んだことや、数々の経験を生かして、自分の手で番組作成をやってみたい」という希望を持ってNHKに就職したそうだ。
しかし、最初はずっと一般的な事務系統のことばかりで、望みが達成しそうないので、一時は辞めてしまおうと思ったこともあるという。そのまま辞めずにいたため、今では自分の力で番組を制作したいという初めの希望を実現することができたという。
「自分がやりたいと思ったら、初めのうちはどんな仕事でも我慢すれば、きっと自分のやりたいことができるようになる」とのことである。特に東邦生へは、「高校時代に一つ自分の信念というものを持たなければいけない。高校時代は有意義に過ごしてもらいたいものだ」と語っておられた>

東邦商業からNHKへ

天知茂さんを紹介した「東邦人国記」(1964年10月30日号)

東邦商業からNHKに就職した卒業生は1回生にもいました。1928(昭和3)年3月卒業の宮本勇さんです。在学中は文芸部員でもあった宮本さんは、卒業した直後の「東邦商業新聞」で、「名古屋中央放送局加入課」に勤務していることが紹介されています。しかし、その後の同窓会名簿では宮本さんの職業欄からはNHKの名前は消え、「歌人」とありました。
宮本さんや谷口さんが就職した当時はまだラジオの時代。NHKにとって、聴取者を増やすことが大きな課題でした。「NHK80年」によると、谷口さんが入局した1932年は、「全国ラジオ聴取加入者数100万件突破」の年であり、ラジオ普及を図るため、名古屋局では1926(大正15)年以来2度目となる聴取料値下げが行われました。
谷口さんが「東邦人国記」で、「最初はずっと一般的な事務系統のことばかりで、(番組制作の)望みが達成しそうもないので、一時は辞めてしまおうと思ったこともある」と語っているように、駆け出し時代は、虹の彼方にある〝夢〟をつかむため、ひたすら我慢の時期であったようです。
「テレビ元年」と言われたのは1953(昭和28)年でした。2月1日にNHK東京テレビジョン局(JOAK-TV)が本放送を開始、8月28日には日本テレビが開局し民放もスタートしました。名古屋でも1954(昭和29)年3月1日、NHK名古屋テレビジョン(JOCK-TV)が本放送を開始。名古屋市内ではまだ数少ない自動車による記念パレードが行われました。
『テレビドラマ全史 1953~1994 TVガイド』(東京ニュース通信社、以下は「テレビドラマ全史」と略)によると、この時期のテレビドラマがめざした目標はまずジャンルの開発で、そのために様々な技術的制約の克服が課題でした。NHKのドラマは月に2作品が制作されましたが、テレビドラマ専門の放送作家はまだ誕生していませんでした。生放送が原則で狭いスタジオの中で、お手本なしでの制作が続きました。
1959(昭和34)年には皇太子殿下と正田美智子さんの結婚式を伝えるテレビ中継に国民が釘付けになるなど、テレビは成長期に入っていきました。テレビ放送課長になっていた谷口さんにとっても、「自分の力で番組制作する」という夢が現実になっていく時代の訪れでした。

夢を語り合った亡き友

谷口さんと岸本が眺めた校庭脇を走る汽車(5回生アルバム)

谷口さんは、テレビ放送課長時代の1959年2月に発行された東邦高校生徒会誌『東邦』創刊号に、「学友~亡き岸本君を偲んで~」という思い出を寄稿していました。東邦商業時代の級友で、若くして逝った岸本繁行さんとの思い出を綴った文章です。
<校庭の脇を通る汽車を見ては、2人で旅行に出かける相談もした。話し合うことがとても楽しかったことを覚えている。卒業後、彼は銀行、私は放送局へと各自の職場を持ってから、いよいよその親しさを増した。週に1、2度は会った。会えば必ず私の演劇論が始まる。彼はいつもにこやかに話を聞いてくれ、温かい笑顔で激励してくれた。
かねてから私が「近代劇全集」全50巻を集めていることを知った彼が、古本屋から30数巻をまとめて買ってきてくれた。勿論自身の金である。「君は演劇が好きなんだもの。好きな人が読む権利があるんだよ」。金はどうしても受け取ってくれなかった>
健康そのものに見えた岸本さんが肺結核にかかり喀血したのは2人が学校を卒業して3年もたたないころでした。電話をしてきて会い、そのことを伝えた岸本さんは笑いの失せた悲しい顔をしていました。舗道での立ち話。オーバーの襟を立てて往来する人たちの足元に落ち葉がカサカサ音を立てていました。銀行を休んで静養した甲斐があって職場復帰した岸本さんでしたが、それもつかの間、再発し帰らぬ人となりました。
<今日ある私は岸本君のおかげだと思うと同時に、彼が今生きていてくれたらと思わずにはおられない>。谷口さんは、「学校で親友を持つことが、いかに生活を充実させてくれ、楽しくさせ、明るくさせることか」とも後輩たちに言い残していました。

テレビドラマとともに

1954年テレビ開局記念パレード(『NHK名古屋放送局80年のあゆみ』)

谷口さんの演出したテレビドラマも次々に放送されていきました。「テレビドラマ全史」によると、1955(昭和30)年5月2日から7月25日までの月曜日夜8時半から時まで、谷口さん演出の『やがて蒼空』というドラマが放送されました。
脚本を書いた劇作家の北条誠さんによると、黒柳徹子さんも出演したこのドラマは、東京で制作されました。「ホームコメディとしては原始的存在」だったといいます。谷口さんは名古屋と東京を何度も往復しながら制作にあたりました。
「NHK80年」によると、1957(昭和32)年3月1日には谷口さんが演出を担当し、山田昌さんらが出演したドラマ『陽はまた昇る』が名古屋放送局制作ドラマとしては初めて全国放送されました。金曜日夜9時35分から10時20分までの放送でした。谷口さんは翌年1958(昭和33)年11月14日夜に放送された『特集・嫁』でも演出を担当しました。山田昌さん、天野鎮雄さんらが出演したオールロケ生放送での芸術祭参加ドラマでした。

初の大河ドラマも企画

1955年放送の『やがて蒼空』(「テレビドラマ全史」より)

「テレビドラマ全史」などによると、谷口さんが1954(昭和29)年から1963(昭和38)年までに演出、ディレクターなど担当した番組は16本。NHKが1963年に最初の大河ドラマとして、幕末期の大老を務めた井伊直弼を主人公に制作した『花の生涯』では谷口さんも「企画」として関りました。
『花の生涯』の脚本を担当したのは『やがて蒼空』でもコンビを組んだ北條誠さんです。北条さんは1966(昭和41)年2月21日「読売新聞」に寄せた「放送交遊録」に、北条さんにとって谷口さんは古い友人であり、「『花の生涯』を企画してくれた恩人の一人」と書き残しています。
映画に対抗出来るドラマ制作を目指したNHK大河ドラマ。谷口さんにとっても、東邦商業時代からあこがれた〝放送メディアで羽ばたきたい〟という夢の結実であったのかも知れません。
東邦会同窓会名簿を追うと、1954(昭和29)年の谷口さんの勤務先は「日本放送協会テレビジョン局」。1959(昭和34)年は「名古屋市瑞穂区田辺通、NHK(名古屋)テレビ放送課長と」あります。そして 「NHK80年」によると、谷口さんは『花の生涯』が放送された当時も含めて1962(昭和37)年から1965(昭和40)年まで名古屋放送局制作部長でした。
1983(昭和58)年の東邦会同窓会名簿での谷口さんの職場は「NHK芸能局演出室(チーフ・ディレクター)」となっていました。仕事の舞台が東京に移ったようです。2013年も同じで、住所や電話番号の記載はありませんでした。
谷口さんは「東邦人国記」の最後に、「東邦の同窓会には久しく出席していないから今度はぜひ出席してみたい」と書いていました。しかし、活動の場を東京に移してからの消息はつかめませんでした。1932年の卒業から86年。17歳で卒業なら103歳ということになります。

(法人広報企画課・中村康生)

 

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