検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第33回

廃墟からの再出発

1945

更新⽇:2018年6月1日

勤労動員先で聞いた玉音放送

東邦会95周年記念総会で乾杯する水野さん(手前左)

廃墟の中、国民が昭和天皇から終戦を告げられたのは1945年8月15日正午からの玉音放送でした。東邦商業20回生で4年生だった水野和彦さん(名古屋市南区)は一宮市萩原町の橋本毛織の工場庭で、30人くらいの同級生たちとともに頭を下げながら聞きました。橋本毛織は、戦闘機用の弾倉を造っていた名古屋の工場が空襲から逃れて疎開してきて弾倉工場に変わっていました。勤労動員された東邦商業の生徒約50人も寮生活を続けながら弾倉の生産にあたっていました。
雲一つない炎天下。すでに命令する立場の人間もいない工場。やがて水野さんら動員学徒たちは、「もう帰ってもいいぞ」という声を聞きました。夕方、寮に戻り、荷物をまとめて家に帰る支度をしました。
21回生で3年生だった鰐淵幸彦さん(名古屋市昭和区)は熱田にあった大同製鋼工場で、200人近い同級生たちと一緒に玉音放送を聞きました。「昔のラジオなのでガーガー雑音が入ってよく聞こえなかったが、やがて鋳物に使う砂の運搬作業にあたっていた朝鮮人たちの間から、万歳(マンセー)の声を上がった。日本が負けたのだと分かり、こっちはしょんぼりしてしまった」。

 机もなかった教室

授業が再開された当時の朝礼風景(20回生アルバム)

終戦を迎えた時の東邦商業の在校生は4年生と3年生の約430人だけでした。本来なら5年生であるはずの19回生は繰り上げで卒業し、1944(昭和19)年度、1940(昭和20)年度は募集が行われなかったためです。
やがて、生徒たちはそれぞれ東区赤萩の母校に足を運びました。鉄骨だけが焼け残った体育館。窓ガラスもなく、机もいすも戦災を避けて持ち出されていました。
生徒たちは授業再開に備えて清掃に励みました。水野さんと同じ20回生の村瀬益雄さん(故人)は「75年史」に、「木造校舎は消失を免れ、10日間ほど教室を清掃してから授業に入りました。勉強には長らく遠のいていたので戸惑いを覚えました」と書き残しています。
授業が再開された時期について水野さんは「9月中旬だったと思う」と記憶をたどります。鰐淵さんは「最初、教室には机もなく、先生が黒板に書いていることを、板塀に帳面をあてて書き写していた」とも語りました。
毎朝の朝礼も復活しました。やっと屋根の応急修理が終わった、鉄骨むき出しの体育館前。集まった生徒たちが、最上級生である4年生の級長がかける「整列」の号令に従っていた朝の校庭風景。千種橋に近い畑から撮影されたと思われる写真が、1947(昭和22)年3月卒業の水野さんの卒業アルバムに収められていました。

赤萩校舎の大同製鋼本社分室

活動を再開した美術部。上着姿が鰐淵さん(千種駅近くで)

終戦時、勤労動員のため生徒がいない東邦商業の赤萩校舎には大同製鋼本社分室が置かれていました。社長は東邦商業理事長でもある下出義雄。本社分室はそれまで西区御幸本町にあった滝兵ビルに置かれていましたが、1945年3月19日の名古屋大空襲で被災したためです。
『大同製鋼50年史』によると、玉音放送から半月後の8月30日、大同製鋼の戦後第1回役員会が東邦商業学校内で開かれました。
<席上、悲壮な面持ちで立った下出社長は、会社の実情を吐露するとともに、非常事態に処する緊急対策につき、いくつかの方策を開陳し、役員会の了承をとった。すなわち、先人から受け継いできた伝統ある会社を、あくまで守り抜くために、ただちに可能な範囲で生産を再開して企業の再建を測ることに一決した。そして具体策の実行があげられた。
終戦時3万3154名を算していた従業員は、敗戦による工場生産の一時停止により、応徴士、動員学徒の即時退社、引き続き一般従業員の離職も相次いだが、再建に立ち上がるために当社は、9月30日付でいったん全従業員を退職させ、改めて必要最少人員をリストアップして、翌10月1日付で再採用の措置を取った。およそ5000名をもって再スタートしたのである>
『大同製鋼50年史』巻末に収録されている「事務所沿革一覧表」には、東邦商業内に仮住まいしていた本社分室(本店事務所)は10月、南区星崎町に移されました。東邦商業の授業は、大同製鋼本社分室の撤退と入れ替わるようにして再開されました。

やり場ない怒りが爆発

東邦商業時代の思い出を語った水野さん(南区の自宅で)

水野さんによると、授業は再開されたものの4年生たちの間では、やり場のない怒りにも似た不満が高まっていきました。
「軍国主義から民主主義になり、価値観が180度変わり、全く逆になった。今まで命がけでやれと言われてやってきたことは何だったのか。その不満をどこにぶつけたらいいのか分からなかったんです」。水野さんはそう振り返ります。終戦を境に、極端な変身ぶりが目立った教師が、南京袋をかぶせられ、袋叩きにあう〝事件〟も置きました。
陸軍主計予備少尉でもあった校長の隅山馨は1942年9月に招集され、中国に出征していました。隅山の帰国は1946(昭和21)年1月ですが、4年生たちからは「戦争責任のある将校でもある校長が、そのまま学校に復帰するのはおかしい」という声も上がりました。
4年生たちは、「2学期の期末試験はボイコットし、白紙答案を出すように」と呼びかけました。3年生だった鰐淵さんは「教室のそばでは4年生たちが監視しており、呼応せざるを得なかった。白紙の答案を出したら0点で採点されました。ただ、進学組である理科クラスの教室では4年生たちの監視はなくノータッチだった」と振り返ります。
生徒たちの行動を学校側が配慮したのか1946年5月、隅山校長に代わって和服の江戸文学者で、生徒たちに人気があった教諭の尾崎久弥が校長に就任しました。

73年後の東邦校歌

「校歌は懐かしかった」と語る鰐淵さん(95周年記念総会で)

水野さんら20回生259人は1942(昭和17)年4月に入学しました。鰐淵さんら21回生275人の入学は1943(昭和18)年4月です。5年間の修業年限は戦争非常時ということで1945年3月から4年間に短縮されました。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のもとで、新学制への改革の動きが始まる中、1946年3月、中等学校修業年限延長の措置がとられました。東邦商業学校も5年制に復活することになったのです。卒業目前だった20回生は、4年で卒業(1946年3月卒業)するか、5年で卒業(1947年3月卒業)するかは生徒たちの希望に任されました。
4年生237人の進路はほぼ半分ずつに分かれました。水野さんら125人は5年生での卒業を選びましたが、4年生で卒業した同期生の友たちを送るための卒業式にも出ました。「最初の卒業式はさながら〝お別れ式〟でした」と水野さんは体験した2回の卒業式を振り返ります。
鰐淵さんは、修業年限延長を複雑な思いで受け入れました。名古屋市の都心にあった鰐淵さん宅は1945年3月25日の空襲の直撃を受け、父親と弟が犠牲になりました。7人兄弟の長男でもあり、1年でも早く卒業して家族のために働きたい事情があったからです。
鰐淵さんら21回生が卒業した1948(昭和23)年4月には学制改革により新制高校が発足。希望すれば開校した東邦高校3年生に進むことも出来ましたが、鰐淵さんは迷うことなく東邦商業学校最後の卒業生となり、名古屋市内の塗料店で働きました。
水野さんは卒業後、国家公務員試験を受けて郵政省職員として熱田郵便局を振り出しに55歳の定年まで東海地方の郵便局に転々と勤務。定年後は東邦商業珠算部で磨いた技を生かして珠算塾の運営に今でも関わっています。
2018年5月19日。名古屋市中区のホテル名古屋ガーデンパレスで、東邦学園創立95周年を記念した東邦会総会が開かれました。350人近い参加者の中に水野さん、鰐淵さんの姿がありました。世代を超えた後輩たちと、歌詞は変わったものの同じ旋律の懐かしい校歌を歌った水野さんは89歳、鰐淵さんは87歳。廃墟から再出発して73年の歳月が流れました。

(法人広報企画課・中村康生)

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