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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第34回

旧制学校の終焉

1948

更新⽇:2018年6月18日

学園史つないだ東邦中学

校庭には幼さも残る中学生たちの姿も(21回生アルバム)

1948(昭和23)年の6・3・3制改革により、旧制東邦商業学校は新制東邦高校として生まれ変わりました。戦時中、商業学校不要論が高まるなかで、東邦商業学校はすでに1944(昭和19)年度から募集が行われていませんでした。
東邦商業の最後の卒業生が送り出される1948年3月での廃校が迫る中、1946(昭和21)年4月に急きょ開校されたのが旧制東邦中学校でした。翌年の募集は行われず、1948年4月にスタートした新制東邦高校・中学校にバトンを引き継ぎました。旧制東邦中学校は、東邦学園の歴史をつなぐ、〝緊急登板〟とも言える開校でした。
1946年4月、赤萩校舎では東邦中学1年生272人と、東邦商業の4年生213人、5年125人の計610人の生徒たちがやっと訪れた平和な新学期を迎えました。東邦中学の校長には東邦商業1回生OBでもある坂柳太一が就任。東邦商業の校長は戦地から復員した隅山馨から同年5月、尾崎久弥にバトンタッチされました。
1947(昭和22)年当時の学園風景が収められた東邦商業21回生卒業アルバムの写真を拡大してみると、東邦中学生たちと思われるあどけない生徒たちの姿がありました。

東邦商業の先輩とともに

中学生と商業学校生が部員の水泳部(20回生アルバム)

東邦中学1回生で、商業学校生たちと学園生活を共にした牧順さん(85)(東京都多摩市)は、懐かしそうに72年前の入学当時を振り返りました。
<クラブ活動は東邦商業の先輩たちと一緒にしました。実は私も東邦商業の野球部はあこがれでした。ただ、小学校を出たばかりの1年生にとって、上級生たちの体格は大人と子供のような差がある。投げるのは大人のボールで、その速さにびびってしまいました。野球部はあきらめ、入ったのが水泳部でした。東邦中学とは言っても、実際には東邦商業に入ったような気持ちだったので何の違和感もなく先輩たちに鍛えてもらいました>
牧さんが、さらに、東邦中学時代の楽しい思い出を語ってくれました。
<赤萩校舎のプールはひどい状態でした。焼夷弾を落とされているので、注意しなければけがの心配もあった。排水バルブが壊れていて、いくらバケツで汲み出してもらちがあかない。どこからかパイプを探してきてみんなで吸って排水しました。
水を入れる時も大騒ぎになったことがあります。校舎の正門前に消火栓があって、そこから校舎の廊下を経てプールまでホースを引っ張って入れました。みんなで力を合わせてね。ところが、ホースにはあちこちに穴が開いていて廊下が水浸しに。しまいには水を吸った廊下が盛り上がりぐちゃぐちゃになった。怒られたなあ>

 

 水泳部のネルギー源は交換してもらったパン
牧さんは、製麺業シマダヤ(本社・東京都渋谷区恵比寿西)の社長、会長を歴任し、現在は特別顧問ですが、東邦中学生時代、自宅は昭和区川名にありました。
水泳部では部員たちに大喜びされたことがあります。父親が経営していた製麺工場から小麦を持ち出して、パン屋でパンに換えてもらって部に持ち込んだのです。戦後のひもじい時代。パンは部員たちのエネルギー源でした。
水泳部の部長は後に東邦高校校長になった林(後に浅井に改姓)静男でした。東邦商業15回生(1941年12月卒)で、東京物理学校(現在の東京理科大学)を卒業して母校教壇に立って間もない林は、牧さんら生徒たちからは〝ハヤバン〟と呼ばれ、人気がありました。20回生アルバムには、1946年当時の水泳部員たちの写真の中に、林の姿(2列左から4番目)がありました。大河ドラマ「西郷どん」の鈴木亮平を思わせる長髪姿です。
旧制東邦中学の1回生入学者は272人でしたが、1949(昭和24)年3月には、242人が新制東邦中学校を卒業しました。東邦会発行の同窓会名簿は、242人中、東邦高校進学者132人を除いた110人の氏名を「中学校第1回」として掲載しています。東邦高校進学者の顔ぶれは1952(昭和27)年3月卒の第3回卒業者名簿の中に見つけることができました。
牧さんは卒業とともに父親が昭和区に設立した「株式会社島田屋」に入社。開校したばかりの菊里高校定時制に4年間通いながら、新発売ゆで麺「栄養玉うどん」の製造、販売に追われました。菊里高校を卒業後は上京し、島田屋の東京進出の一翼を担いました。

東邦中卒の作曲家

八代亜紀さんと打ち合わせをする野崎さん(東邦学園「60年史」)

牧さんとともに、110人の「中学校第1回」の卒業者の中に、富安昭次さんの名前がありました。富安さんも東京を舞台に、テイチクレコード専属の作曲家「野崎真一」の名前で活躍しました。2014(平成26)年1月27日に82歳で亡くなりましたが、1月30日日本経済新聞の訃報は、野崎さんが故石原裕次郎さんの「夜霧の慕情」、八代亜紀さんの「愛の終着駅」などを作曲したこと伝えていました。
野崎さんは東邦学園「75年史」に、「戦後の窮状にも心の教育」という東邦中学時代の思い出を寄稿。通学途中の名古屋駅の待合室や食堂街の地下には戦災者や浮浪者があふれていたこと、物資不足でガラスの補充が出来ない赤萩校舎では、ベニヤ板を打ちつけた薄暗い教室で授業が行われたことなどを紹介。その反面、先生と生徒の間には温かいふれあいがたくさんあったと、振り返り、印象に強く残っている恩師として、兄貴のようだったという林教諭や音楽部の稲垣信哉教諭の思い出を書いていました。
<当時私は音楽の基礎もわからず、ただ音楽大好き人間であったが、先生との出逢いで、初めて音楽的な面で数多くの事を学び、吸収することが出来た事が、今日の私の仕事につながり、今も生きている>
野崎さんの出身地である半田市は2002(平成14)年に、野崎さんに「半田市栄誉賞」を贈り、功績を称えました。
<歌手を目指して17歳で上京後、作曲家に転身。「夜のめぐり逢い」「愛の終着駅」など多くのヒット演歌を生みだした。また石原裕次郎のオリジナル曲を42曲も手掛けるなど48年にわたり、戦後の日本歌謡史を築いた一人として評価を受けている。また「はんだ盆唄」など出身地のために5曲を手掛け、現在も夏の市民盆踊り大会で市民の歌として親しまれている>
牧さんは、「野崎君とはお互いに東京に出て来た同級生ということで付き合いもありました。シマダヤの商品をPRするため、彼のお弟子さんにお得意さんの店頭で歌ってもらったこともあった。仕事柄、無理もしたんだろなあ」と、先立った同級生を偲びました。

悲しみの追悼会

坂柳校長の追悼会(21回生アルバム)

牧さんや野崎さんらの中学生生活の1年目が過ぎようとしていた1947年3月21日、学園に悲報がもたらされました。校長だった坂柳の死です。坂柳は名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)を卒業。就職した瀬戸物貿易商が閉店となり、下出義雄の誘いで母校の英語教員となりました。
1942(昭和17)年には隅山馨校長の出征に伴い校長代理に就任。商業学校の工業学校化などの対外折衝、勤労生徒たちの保護、監督など激務が続きました。空襲が激しさを増すなか、赤萩校舎に仮住まいしていた大同製鋼社員で、東邦商業同級生だった松本次郎に協力を求め、校長室にあった幾多の優勝旗やカップを、手配してもらったトラックで知多市長浦の下出義雄宅に運び込むことが出来ました。
しかし、激務がたたり坂柳は1945(昭和20)年5月14日、名古屋が空襲に見舞われた日の夕、動員先から帰宅して病床に倒れました。中学校校長時代も病勢は回復せず、40歳(数え年)という若さで他界してしまいました。
21回生アルバムには校内で執り行われた坂柳の追悼会の写真も収められていました。壇上の坂柳の遺影を背に、〝紋付き先生〟と呼ばれた東邦商業校長である尾崎久弥が参列した生徒たちに語りかけていました。坂柳の校長業務は坂倉謙三が事務取扱として引き継ぎました。

四半世紀の旧制時代に幕

東邦中学校時代を語った牧さん(東京都多摩市の自宅で)

1948年3月、東邦商業学校は21回目の卒業生201人を送り出し、1923(大正12)年4月の開校以来25年、四半世紀の歴史に幕を閉じました。卒業台帳に基づく卒業生数は3811人。卒業回数別に最も多かったのは13回生(1940年3月卒)の278人。最も少なかったのは3回生(1930年3月卒)の56人でした。
1948年4月からは6・3・3制のもとで、新制の東邦中学校、東邦高校がスタート。東邦商業など5年制の旧制中等学校卒業生は、新制高校3年生に編入し、新制高校第1回卒業生になることが出来ました。
新たなスタートを切った東邦高校の第1回卒業生(1949年3月卒)の37人の卒業生中24人は東邦商業21回生でした。
東邦商業21回生たちは2001(平成13)年11月14日、「2001年記念」の同窓会を開催しました。30人の参加者名簿には、前年3月、甲子園で5年ぶりに再開された第19回選抜中等学校野球大会開会式に参加し、戦前最後の優勝以来、戦禍の中を守り抜いた優勝旗を返還した2人の野球部員もいました。主将の松林十二と副主将の近藤賢一です。

(法人広報企画課・中村康生)

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