検 索

寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第35回

東邦高校 26歳校長でのスタート

1948

更新⽇:2018年6月25日

1年生は混合小集団

東邦高校、東邦中学校の看板が掲げられた校門(1952年アルバム)

1948(昭和23)年4月の6・3・3制のスタートで、新制東邦高校と東邦中学校も現在のJR千種駅に近い東区の赤萩校舎で開校しました。

東邦高校の募集定員は普通科200人、東邦中学校は100人でしたが、高校は54人と定員4分の1ほどしか埋まらず、中学も85人の入学者にとどまりました。

高校は1年生と3年生(旧制東邦商業卒業生らの転入生)でのスタートとなりました。終戦の年である1945年度は募集がなかったこともあり2年生はいませんでした。このため、スタート時の3年生が1回生、1年生が2回生として卒業することになりました。

2回生で東邦高校教員でもあった小林知生(故人)は、「70年史」に「六・三・三制発足のころ」という入学時の思い出を寄稿しています。

「2回生は総勢で1クラス。それも変な言い方だが、生粋の東邦生ではなく、私もその一人だが、他高校からよんどころない事情で流れ込んできた、いわばモサたちの混合小集団であった。当時、県内から転校も自由であったから、おそらく3年次は7、8校の県立、私立の高校から集まったサムライたちがクラスを構成していたと思う」

硬式野球部初代キャプテンを務めた鶴田辰夫さん(86)(名古屋市天白区)も2回生です。「新入生は少なく、再募集とか編入生をかき集めて何とか1クラスにした形だった」と振り返ります。父親の勤務地の関係で、終戦前に旧制横須賀中学(神奈川県)から名古屋の南山中学に転校。新学制スタートを迎え、「東邦なら好きな野球が出来そう」と東邦高校入学を選びました。

青年下出貞雄の校長就任

1952年卒業アルバム冒頭ページの校歌と校舎全景

東邦商業学校の最後の校長で、江戸文学者の尾崎久弥からバトンを引き継ぎ、東邦商業時代からでは第5代となる校長に就任したのは下出義雄の長男である貞雄でした。貞雄は1921(大正10)年7月25日生まれ。26歳の青年校長の誕生でした。

貞雄は南山中学校を1939(昭和14)年3月に卒業し、同じカトリック系の上智大学経済学部予科に進みました。東邦商業が甲子園のセンバツ大会で圧倒的な強さを見せつけて2度目の全国制覇を果たした春です。学徒出陣で応召、1945年10月に復員して大学に復帰。学生の身分のまま、1946(昭和21)年5月、父義雄に代わって24歳で財団法人下出教育財団(後の学校法人東邦学園)の理事に就きました。

同年9月に上智大学を卒業。11月には東邦商業学校教諭となっていましたが、1948年4月の東邦高校、東邦中学校への校長就任まで、大学卒業後、1年半しか経っていませんでした。

貞雄の校長就任は、父義雄が1941(昭和16)年11月に第2代校長を退いて以来7年ぶりの下出家からの校長就任でした。

東邦学園でこれまで発刊された学園史である「50年史」「70年史」「75年史」「90年史」などでは、貞雄の校長就任についてはいずれも「28歳の青年校長」と記載しています。これは年齢表記が「数え年」(生まれた時を1歳として、正月を迎えるたびに1歳加算)で行われ、誕生日前の場合、満年齢とは2歳の誤差が生じるためです。

ちなみに、学園創設者である下出民義(1861年12月8日~1952年8月16日)も満年齢90歳で亡くなりましたが、各学園史は「92歳」(数え年)としています。

「数え年」では諸外国の慣行や国際的統計とも合致しないなどの点もあり、戦後の1950(昭和25)年1月1日に「年齢のとなえ方に関する法律」が施行されてからは、年齢の数え方は「数え年」から「満年齢」への変更が義務づけられました。6・3・3制スタートの1948年は、まだ「数え年」が主流の時代でした。

商神マーキュリーから平和の鳩へ

マーキュリーの杖から鳩のデザインに

東邦商業学校から東邦高校としての新たなスタートに伴い、校章、校歌の変更が行われました。東邦商業学校では、ローマ神話に登場する商業の神マーキュリーの杖に2匹の蛇が巻き付き、羽ばたく翼が校章として使われました。

「マーキュリー」の校章は下出義雄の母校で、一橋大学の前身である東京高等商業学校でも、東京商業学校から昇格した1887(明治20)年に制定されました。蛇は英知を表し、常に蛇のように聡く世界の動きに敏感であることを、翼は世界に羽ばたき、五大州に雄飛せんとする意気ごみを示しました。下出義雄も東邦商業の校章に、母校の校章と同じ思いを込めたに違いありません。

校名から「商業」の文字は消えたとはいえ、「古い校章のイメージも残したい」という貞雄らの強い意向もあり、東邦高校の校章は、東邦商業校章の原形を生かし、平和の象徴である鳩をあしらったデザインとなりました。

校歌も東邦商業校歌の旋律がそのまま使われ、歌詞が新制高校らしく改められました。「あゝ夭々の大平野、呼ばば応へむ沖つ鳥――」で始まる一番、「愛と平和を強調の、祖国を担う一連の、死活の鍵を握るなる、自治と真面目を伝統の、見よや我等の東邦校」の三番など、尾崎久弥によって

新制東邦高校にふさわしい息吹が吹き込まれました。

 

 

上智大学時代は野球部にも

26歳で校長に就任した下出貞雄

貞雄とは南山中学、上智大学時代からの友人だった元東邦高校教諭の酒井真彦(故人)は、生徒会誌「東邦」(1965年第7号)に貞雄との思い出を書き残していました。

酒井によると、貞雄も父義雄に似て大の野球好きでした。野球専門誌だった『野球界』を毎号欠かさず見ていて、当時のラジオの人気クイズ番組「話の泉」に出ても立派に合格できるほどの知識を持っていたそうです。

しかし、3歳ごろから喘息に悩まされ、それが持病になり、南山中時代は自らスポーツをする機会はあまり訪れませんでした。2年生の時、クラス対抗試合に一度、投手で、アンダースローを駆使してプレートを踏んだことがありました。「もし健康体でしたら、ボールを追って、中学時代を心ゆくまで楽しんだことと思います」と酒井は書いています。

上智大学時代には、健康も安定し、貞雄は酒井とともに、野球を楽しみました。始業式の後、「後楽園(現在の東京ドーム)にプロ野球を見に行こう」と酒井が貞雄から誘われたことから始まり、2人は上智大学野球部に入部。貞雄は主に一塁と外野を守り堅実なプレーを見せました。

しかし、社会情勢の変化もあって野球生活は1年半ほどで終わり、貞雄はグライダー部に入部し、空への雄飛を試みました。そして24歳だった1943(昭和18)年12月、第1回学徒出陣で応召されました。

中学、大学時代、そして職場まで貞雄と一緒に行動を共にした酒井は、最後に、貞雄について、「一級品を非常に好み、私に一級品の良さを教えてくれた得難い友人の一人でもありました」と書き残していました。

社会的に見抜く目養う教育に力注げず

新たな校章を使った応援団旗(1952年アルバム)

戦後、生徒会新聞部によって発行された「東邦新聞」第13号(1953年10月30日)1面に、貞雄の新時代への教育への熱い思いが綴られた記事が掲載されました。学園が創立30周年を迎えた秋、貞雄が32歳の時に書かれたものです。この中で貞雄は、東邦商業が、日本が軍国主義に突き進んでいった時代に、逆らえないまま、戦争に巻き込まれていった現実にも触れました。以下その記事の一部抜粋です。

<30年の校史はいうまでもなく、創立者を始めとして、数多くの先輩諸賢たちの粒々辛苦の努力によって出来上がったものであり、後を継ぐ我々には、この伝統、功績に報いることをこの機会に新たに誓い、将来に備えねばならないと思う。

民主教育を根底に横たえて、今、新生の道程にある母校東邦のバトンを握っている我々は、創立者の遠大なる抱負を、如何に現代に生かすべきかに心を尽くさねばならないであろう。

創立者民義は、自己のパイオニア的経験から、完成された社会(資本主義的に)には、学校を出てすぐ役立つ人材、それも技術的にすぐれた実務家がどしどし必要になることに着目し、私財を投じて商業学校を創設した。その頃、他にも多く生まれた外の実業校と大きく異なる建学の理想は、単なる実務家養成に終わるのではなく、卓越せる技術に加えるに、幅広い識見と豊かな教養を持つ商業人を育てるにあった。

この目的完遂のため、事実上の本校の育ての親である父義雄は、当時としては型破りの教育指導を行なったのである。即ち、全校ボーイ・スカウト加盟、ブラス・バンド編成、短歌部、新聞部を通じての文化活動等々、数え上げればなお多くの特別教育があったのだが、これ等の教育の成果がどんなであったか、卒業生の幅広い各層における活躍、動向を見れば自ら歴然と証明されるであろう。

しかし、やはり、そこには旧商業学校としての限界があった。(軍国主義に向かった学園背後の日本の社会情勢と旧教育制度がそうさせたのであり、誰の罪でもあるまいが)それは、もう一歩突っ込んだ物の見方、考え方をする教育、言い換えれば科学的に物を考え、社会的に物を見抜く目を養う教育に力を注げ得なかったから、権力に迎合し、時勢に順応する小細工の利く者も生まれて来る恐れもあったようだ――。>

(法人広報企画課・中村康生)

  この連載をお読みになってのご感想、情報の提供をお待ちしております。
法人広報企画課までお寄せください。
koho@aichi-toho.ac.jp

 

 

 

一覧に戻る

学校法人 東邦学園

〒465-8515
愛知県名古屋市名東区平和が丘三丁目11番地
TEL:052-782-1241(代表)