第41回 「金城商業」最後の卒業アルバム 1949

2018年9月26日

145人中55人が東邦高校へ

赤萩校舎正門の金城商業学校看板(1949年)

 東邦高校が新制高校として第1回卒業生(大半が旧制東邦商業学校卒業からの編入生)を送り出した1949(昭和24)年3月、赤萩校舎正門に掲げられていた「金城商業学校」の看板が下ろされました。最後の卒業生となった豊明市に住む奥村秀二さん(86)に卒業アルバムを見せていただきました。

 アルバムの表紙を開くと、正面に向かって左側門柱に「金城商業学校」の看板が掲げられていました。看板横の壁には「衆議院議員候補者」の氏名が並んでいます。可世木文雄、赤松勇、宮崎賢一郎、太田政市。1948(昭和23)年12月23日の解散で、年明けの1月23日に行われた第24回衆院議員選挙愛知県第1区(中選挙区で定員5)に立候補した20人の一部でした。

 「第14回卒業記念アルバム」の印刷文字とともに、星野克磨校長、隅山馨ら8人の「先生名簿」、145人の卒業生名簿も収められていました。145人のうち55人の名前は3年後、1952(昭和27)年3月の東邦高校第3回生卒業生名簿にもありました。

 金城商業学校最後の卒業生たちは、1946(昭和21)年4月に旧制金城商業学校(5年制)に入学。学制改革の中で新制中学校(3年制)としての卒業となりました。その大半が東邦高校に進学するか、新たに東邦高校内に開校した「金城夜間商業高校」(4年制)に進むかの道を選択していました。

 奥村さんは金城夜間商業高校に進学しましたが、3年生になった1951(昭和26)年4月から、校名は「東邦夜間商業高校」に変わりました。「私にはもう一冊卒業アルバムがあるんですよ」と、奥村さんが見せてくれたもう一冊のアルバムを開くと、「東邦保育園」と並んだ「東邦夜間商業高等学校」の看板が掲げられた正門風景がありました。

日比野寛と一中魂

瑞穂陸上競技場前に立つ日比野寛の銅像

 官報によると、金城商業学校の前身は1922(大正11)年4月、名古屋市東区松山町に実業学校として開校した名古屋育英商業学校です。しかし、そのルーツは1908(明治41)年、当時、愛知一中(現在の旭丘高校)校長だった日比野寛(1866~1950)が、「不遇な者の育英」を提唱し有力者の賛助を得て設立した「育英学校」にさかのぼります。

 日比野は愛知一中、一高、東京帝国大学を卒業。1899(明治32)年7月に農商務省役人から、母校でもある愛知一中校長に就任しました。生徒たちが教師排斥、ストなどに走り、無秩序状態に陥っていた愛知一中の正常化を図るため、愛知県や文部省から託されての就任でした。

 日比野は荒れる母校再生のために運動を重視しました。「病める者は医者へ行け。弱き者は歩け。健康なる者は走れ。強壮な者は競争せよ」と、生徒たちのエネルギーを勉強だけではなく、野球、庭球、漕艇、マラソンへと向かわせ、明朗快活の気風のもとに勉学にいそしむ〝一中魂〟を浸透させていきました。

 日比野は愛知一中には1899(明治32)年7月から18年間校長として在籍。1917(大正6)年3月には、校長を辞任し4月の衆院選挙に立候補し最高点で当選しました。パリ、アムステルダムオリンピックにも参加し、国内外に「日比野式」と呼ばれる独特の走法を広め、「マラソン王」とも呼ばれました。

 1930(昭和5)年6月21、22日付官報に名古屋育英商業学校の生徒募集広告が掲載されていました。「学校ヲ選択セヨ 体育第一主義ノ名古屋育英商業学校 名古屋市東区松山町 監督 日比野寛」。日比野の信念とも言える「体育第一主義」を掲げての生徒募集でした。

 しかし、名古屋育英商業学校は経営に行き詰まり、日比野は私学経営から撤退。経営は半田市の富豪である中埜半左衛門に移り、中埜から友人である下出義雄に託されました。1935(昭和10)年12月、下出は校名を「金城商業学校」に改称し、東邦商業の姉妹校として、東邦商業から隅山馨を校長として送り込み再建を図りました。

教え子人脈

名古屋育英商業学校の生徒募集広告(昭和5年官報)

 官報によると、名古屋育英学商業校設置者は文部省告示により1934(昭和9)年3月6日、中埜半左衛門に変更されています。中埜は下出義雄と同じ愛知一中31回生。日比野が校長時代の1907(明治40)年3月に卒業、早稲田大学に進み、半田市長(当時は町長)なども務めました。1942(昭和17)年に行われた第21回衆議院議員選挙では、下出が愛知1区から、中埜が愛知2区からそろって当選しています。

 隅山も愛知一中の37回生。さらに、下出、中埜と同じ31回生である東邦商業教員の尾崎久弥もまた金城商業の教壇に立ちました。下出、隅山、尾崎には日比野に対する特別な思いがありました。

 東邦野球部史によると、下出は愛知一中時代、最初はテニス部員でした。練習中、コートに転がってきた野球部のボールを返球した際、下出の肩の強さを見抜いた日比野の「君は野球部に来い」の一声で野球部に転部。下出は東京高商(現在の一橋大)時代まで野球部員として野球に関わり続けました。

 隅山も愛知一中2年生の時に、日比野からボートの選手になることを命じられました。毎日、熱田の海での猛練習に打ち込み、3年生の夏には琵琶湖全国大会にも出場しました。

 江戸文学者として知られることになる尾崎にとって日比野は恩人でした。生徒たちの苦境を敏感に察知する日比野は、愛知一中から国学院に進んだ尾崎が、家庭の事情で学資が途絶えていることを知り卒業生篤志家らに支援を募りました。奨学金制度のない時代、尾崎のように日比野の恩恵を受け、後に名をなした卒業生は他にもたくさんいると言われています。

甲子園大会史に刻まれた足跡

金城商業学校と東邦夜間商業高校の校章(奥村さんのアルバムから)

 『東区史』(東区史編さん委員会)によると、名古屋育英商業学校が金城商業学校と改称された当時の生徒数は少なく、5年生が5、6人程度までに落ち込んでいました。

 隅山は校長に赴任してからの様子を東邦学園の「50年史」で振り返っていました。

 <率直に言えば、当時は校舎も校庭も、生徒までが(特に上級生)荒廃した姿であったが、勇猛心を起こして校舎の改修、校庭の修理はもちろん、下出(義雄)先生にもお願いして校舎の増築を進め、生徒の教育指導まで刷新した。私も犠牲を払い、昼となく夜となく(夜間部もあった)専心努力したが、教職員一同一致協力した。生徒も真面目に勉学し、心身の鍛錬に励んだので、実に意外に早く復興し、数年後には各学年定員165名ずつ、しかも入学志願者は数倍押し寄せる状況となった>

 名古屋育英商業学校(育英商)、金城商業学校(金城商)の学校生活の様子を伝える記録は空襲で焼失して残っていません。かすかな足跡が『全国高等学校野球選手権大会70年史』(朝日新聞社発行)の夏の甲子園地方予選の記録として刻まれていました。

 育英商は1922(大正11)年から1928(昭和3)年までの間に6回出場。1924(大正13)年の第10回大会1回戦で岡崎師範に19-2で勝利した以外は全て1回戦敗退。1929(昭和4)年以降は出場していませんでした。

 金城商は1936(昭和11)年から戦争による中断を挟み1947(昭和22)年まで出場。7年間で10試合を戦い3勝7敗の成績を残しています。常滑工からの2勝、名古屋二商(現在の西陵高校)からの1勝でした。1930(昭和5)年に初出場した東邦商と金城商の〝姉妹校対戦〟は実現しませんでした。

双鯱の校章と「金城」

愛知一中の双鯱の校章

 金城商業学校は1945(昭和20)年3月の空襲で校舎を失い、東邦商業学校に身を寄せました。同居は終戦後も続きました。

 奥村さんが大切に保管していた金城商業学校卒業アルバムに印刷された校章は、左右に向き合った鯱と「商」の文字をデザインしたもので、名古屋育英商業学校の校章の「育」を「商」に変えて継承されました。一方、もう一冊のアルバムに印刷された東邦夜間商業高校の校章は、平和の象徴である鳩をあしらった東邦高校校章の「東邦」を「TOHO」に変えたものでした。

 双鯱はもともと愛知一中の校章でした。『愛知一中物語(上)』(中日新聞本社)によると、育英学校の校長を兼務していた日比野によって育英の校章としても使われました。愛知一中では絶大な人気を誇った日比野だけに不問にとされたようです。

 名古屋育英商業学校を東邦商業学校の姉妹校として引き継いだ下出義雄が、校名に名古屋城の異名でもある「金城」を用いたのは、日比野があえて校章として使った名古屋城の象徴である双鯱への思いを汲んだのかも知れません。

 東邦夜間商業高校は1957(昭和32)年4月からは東邦高校定時制となり、1964(昭和39)年3月、最後の卒業生を送り出して休校となりました。隅山は50年史への寄稿で、この時、思い立って日比野の墓前を訪れたことを記しています。

 隅山は、墓石にラテン語で「Mens sana in corpore sano(健全なる精神は健全なる身体に宿る)」と刻まれいることに気づき感慨無量でした。寄稿は「ここに金城商業学校の歴史は閉じられたのである」と締めくくられていました。

(法人広報企画課・中村康生)

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