第42回 自立の30周年1953

2018年10月10日

県下初の蛍光灯体育館も

30周年記念行事を伝えるポスター

 東邦高校は1953(昭和28)年に開学30年を迎えました。記念事業として戦災で鉄骨むきだしだった体育館の修復も行われました。戦火をくぐった鉄骨を骨組として再建された木造体育館でしたが、当時の学校体育館としては愛知県下では初の蛍光灯照明ということで、写真付きで報道する新聞もありました。

 秋には新装体育館での祝賀式のほか、記念行事として、東大経済学部長の大河内一男氏による講演、ドイツ映画「ベルリン物語」上映会も行われ、一般市民にも公開されました。さらに全国高校優勝弁論大会、大運動会、物故者追弔会、文化祭、音楽会も行われ全校あげて30周年を祝いました。

 この年、普通科に入学した7回生の河合清文さんは、1年生ながら後期から生徒会長を務め、30周年全国高校優勝弁論大会では生徒会長としてあいさつしました。河合さんは県立刈谷高校に入学しましたが、1年生の後半に父親が亡くなり、家計を支えるために中退し働きました。しかし、勉強への未練は立ちがたく、名古屋の市電で東邦高校の補欠募集の広告を見たのがきっかけで、駆け込むように入学しました。同級生よりは2年遅れでしたが、下出貞雄校長から、「年がいっている分、その経験を生かして頑張りなさい」と励まされたことで、生徒会活動には力を入れたそうです。河合さんは、現在、刈谷市で社会保険労務士事務所を開いています

 同年10月30日に発行された「東邦新聞」13号の1面トップ記事は、校長である下出貞雄による「民主教育を根底に」という創立30周年を迎えた決意表明が掲載されたことは連載第35回で紹介しました。同じ1面に、同窓会組織である東邦会会長の江崎真澄(1933年卒、東邦商業6回生)が30周年への感慨を寄稿しています。

 「創立10周年は目的地にたどりついたやれやれといった一種の安堵の感じがする。20周年は何となく一本立ちになった安定感がにじみ出るものである。30周年ともなれば、さすがに堂々と根を張って、しっかり地に足のついた頼もしさを覚える」

 1946(昭和21)年の衆議院議員総選挙での初当選で政界入りし、衆院議員を17期務め、総務庁長官、通商産業大臣、自治大臣、防衛庁長官などを歴任することになる江崎はまだ38歳。青年政治家として手応えを感じていた時期であったのかも知れません。

 同じ紙面左肩に掲載された「主張」欄では生徒会長の河合さんが、「伝統と創造」のテーマで筆を振るっていました。創立30周年の伝統について河合さんは、「校長室の優勝旗が物語るように、先輩たちによって残された数多の業績が、輝かしい学校の土台とも柱ともなっている」と書き残していました。

 

 

『追憶の記』を刊行

『追憶の記』を紹介した新聞記事

 東邦会も30周年賛助記念事業として『追憶の記』を発刊しました。終戦末期の1944年12月、三菱発動機製作所で空襲の犠牲となった20人の生徒・教員を始め、戦火に散った級友や恩師らに寄せる追悼記念文集でした。

 教員の尾崎久弥は「あたら殉国」という寄稿で、17人の教え子を一度に失った悲しみと悔恨の思いを書き残していました。

「昭和19年12月13日午後1時何分のころ、爆音あり。端なく昼のうたた寝から覚めて、二階から北の障子を開けると、東北方に黒煙が立っていた。この時、私の組のものだけが、併せて17名が、一瞬にあたら殉国の徒となっていたのである。私は前夜、夜勤だったので、この日朝8時ごろ、昼勤の先生と朝の対面をすまして、夜勤の生徒もろとも家に帰り、ちょうどそのころは、昼のうたた寝をしていたのである―――」

 「中部日本新聞」(現在の中日新聞)もこの文集発行を大きく伝えました。「級友・恩師の霊安かれ 爆死者へ『追憶の記』 胸迫る戦争の悲劇 8年目 東邦高校で編集」。見出しにも悲しみが詰まっていました。

 『追憶の記』に序文を寄せた下出義雄は、「想えば30年の歴史は多くの追憶をはらんで流れ去った。戦争の大きな激変もその流れの一つであった。人の一生も三十を而立(じりつ)という。いよいよ一人前となった東邦学園の前途を祈ってここに序文とする次第である」と締めくくっていました。

 

提携で増えた愛知大学進学者

赤萩校舎に掲げられた愛知大学短期大学部の看板

 東邦会からは1954(昭和29)年2月、『同窓会名簿』も発刊されました。30年間に巣立った3811人の東邦商業学校卒業生、633人の東邦高校卒業生、159人の東邦中学校卒業生の氏名が、住所、勤務先とともに掲載されました。

 東邦高校卒業生は第1回卒業生が出て日が浅いこともあって、勤務先欄には空欄が目立ちます。開校したばかりの東邦中学に入学し、そのまま東邦高校に進んだ生徒が多い3回生たちは、まだ大学2年生ということになります。名簿によると、3回生216人の進路先は、永眠や空欄を除くと、自営も含めた就職者が83人、大学進学者が43人でした。

 就職した83人の勤務先は東海銀行、名古屋相互銀行、東海証券、税務署などの金融系が目立ちます。一方、43人の進学先で多いのは愛知大23人と名城大6人。これに続いて愛知学院大3人、早稲田大、明治大が各2人、近畿大、立命館大、日大が各1人。国立大では愛知学芸大(現在の愛知教育大)に3人、名古屋工業大に1人が進んでいます。

 愛知大学は1950(昭和25)年4月、東邦高校の1棟6教室を借用して名古屋分校を開校しました。戦後、豊橋市で新制大学として再出発しましたが、「豊橋キャンパスのみでは学生募集対策上不利。大都市名古屋の学生を呼び込むには名古屋キャンパスも必要」という声が高まり、こうした中で実現したのが東邦高校の校舎借用でした。

1951年(昭和26)年5月には、現在の車道キャンパスの地に名古屋キャンパスの基礎が築かれましたが、元学長の久曽神昇氏(故人)は東邦学園「70年史」に、「東邦学園の恩恵は忘れることができない」と感謝の思いを寄稿しています。

 東邦学園は1951年1月に財団法人から学校法人に改組されましたが、愛知大学からは教授だった本間喜一氏と小岩井浄氏が東邦学園評議員に迎えられ、東邦学園からは校長の下出貞雄が愛知大学評議員に選任されました。提携の強化は、愛知大教員が講演会講師、弁論大会の審査員を務めるなど広がり、東邦高校から多数の愛知大学進学者が続くきっかけとなっていきました。

羽ばたく卒業生たち

創立30周年当時の赤萩校舎(「50年史」より)

 文庫版よりは一回り大きい254ページの同窓会名簿は165ページ目からは東邦商業を中心とする卒業生たちから集めた協賛広告のページになっています。広告が掲載されている会社は、卒業生が社長である場合もあれば、卒業生社員たちが連名で紹介されている大手企業もあります。親から引き継いだ家業を引き継いでいる卒業生たちの広告もあります。広告ページを眺めているだけでも卒業生たちの各分野での活躍ぶりがうかがえます。

 広告ページは業種別五十音順で、最初のページは「あ 油類」ということで、「石油製品販売 林物産」の広告です。社長の林伊佐武さん(2回生、元東邦会会長)を筆頭に6人の卒業生社員の名前が並んでいます。

 名古屋鉄道の広告は2ページで、人気車両のイラストを使った名鉄電車のPRとともに、東邦商業1回生から19回生まで22人が勤務駅などととも登場しています。デパート関係では松坂屋(卒業生2人)、現在の名古屋三越に店舗を引き継いだ「中村百貨店」(卒業生5人)も1ページ広告を出しています。

 第1回卒業生で医師の道に進んだ近藤博さんは、安城市に開業した「近藤医院」(外科、内科、皮膚泌尿器科)の広告を寄せていました。

映画館業界に進んだ卒業生たちもいます。15回生の古川博三郎(旧名半三郎)さんは名古屋市千種区の「国際劇場」と「アカデミー劇場」の広告を出していました。やはり15回生の浦山長一さんは「半田キネマ」、19回生の富田善明さんは「今池劇場」の広告とともに登場しています。

 14回生で平和紙業(本社東京)の社長も務め、現在も同社相談役の清家(旧姓小島)豊雄さん(94)も、平和紙業名古屋支店の一員として、東邦高校2回生の社員3人とともに登場していました。東邦商業8回生で甘納豆の老舗「総本家岡女堂」社長の大谷亀太郎(本名秀一)さんの広告もありました。

 

創立者逝く

晩年の下出民義(知多市長浦で)

 学園創立30周年を目前にした1952(昭和27)年8月16日、創立者下出民義が亡くなりました。享年90(満年齢)でした。逝去から1年後に発刊された『追悼の記』で、校長の貞雄は晩年の民義について書き残しています。

 貞雄によると、晩年の民義は、高齢の割には元気でした。戦後、貞雄が若輩ながら父親の義雄からバトンを受け継ぎ、東邦高校経営に専念するようになってからも、貞雄を信頼してくれ、ほとんど全てを任せてくれたといいます。時折、祖父民義のもとを訪れる貞雄に、学校の状況を詳しくたずね、質問し、指示を与えてくれました。高校生一般の悪評が新聞などで取り上げられているのを知って、「どうだ、うちももう学校をやめてしまった方がよくないか」と憤りを見せる時もありました。

 貞雄は「死去2、3年前ごろから、傍観の境地にあった祖父からは、〝俺が死んだら学校でぜひ葬式を頼む〟と遺言めいた言葉を聞かされていた。折よく昨年夏、懸案であった体育館の復旧がなり、狭い講堂を使わず、葬儀場として使用ができた。朝野の名士を始め、一般の方多数に参列していただき、盛大な校葬を催し、故人の意志に副いえたことで、責任の一端を果たしえた気がして自らを慰めている」と綴っていました。

(法人広報企画課・中村康生)

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