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寄 付

語り継ぐ東邦学園史
歴史を紐解くトピックス

第43回

コラム⑥ 剣道部OBの特攻体験と平和

1944

更新⽇:2018年10月15日

剣道部黄金時代

東邦商業時代を語った清家さん(東邦会関東支部総会で)

東邦会関東支部の2018年度総会が9月29日、2年ぶりに東京都港区で開催されました。台風24号接近による雨模様の天候にも関わらず45人が参加。大先輩である東邦商業学校14回生(1941年卒)の清家(旧姓小島)豊雄さん(94)、東邦中学校1回生(1949年卒)の牧順さん(85)の元気な顔ぶれもありました。清家さんは平和紙業で、牧さんは製麺業のシマダヤでそれぞれ経営トップとして活躍し、自宅が多摩市の近所同士ということで、六本木の会場には誘い合っての参加でした。

牧さんはこの連載第34回の「旧制学校の終焉」にも登場していただきましたが、この時の取材で、清家さんが近所にお住まいだと聞き、ぜひお会いしたいと思っていました。東邦商業14回生と言えば、1936(昭和11)年4月に入学し、野球部が黄金時代と言われたころの世代です。清家さんが在校時代、春に5回、夏に2回の甲子園出場を果たし、4年生の春には、圧倒的な強さで2度目の全国制覇に輝いています。この活気あふれていただろう時代の東邦商業の様子を語ってくださる卒業生をずっと探していました。

赤萩道場の剣士

「赤萩道場」と呼ばれた練習(1938年)

榊直樹理事長、東邦高校の久野秀正元校長らも交えて清家さんは語ってくれました。「東邦学園は今年95周年ですが、私は東邦商業開校の翌年である1924(大正13)年生まれですから94歳です。東邦商業では1年生からずっと剣道部でした」。

ステッキを片手にしながらも、背筋は真っすぐに近い清家さんは、穏やかな笑顔で話を続けてくれました。

「野球部も強かったですが、剣道部もめちゃくちゃ強かったですよ。野球部に例えるなら、甲子園で春と夏を続けて優勝するようなものでした。特に三河出身の特待生たちはすごかった。高等尋常小学校出ということもあって年齢も2歳上。体格も大きいですから、とにかく強かった」

清家さんが5年生だった1940(昭和15)年、東邦商業の剣道部は、大日本武徳会、全日本中等学校剣道大会、東京高等師範全国大会で連勝するなど年間12の大会で全勝し、全国制覇の年となりました。創部は野球部より2年早い1928(昭和3)年。創部時は100人余だった部員は250人を超す一大運動部として黄金時代を迎えていました。

「私は1年生ときはビリでしたが、2年生から学年選手とかに選ばれ、最後は一応選手になりましたがね。学校生活では楽しい思い出もありますよ。1年生の時、野間で合宿があったんですが、200人を超す1年生全員で、大野から常滑まで泳ぎました。朝8時から夜7時まで。私は観海流の免許をもらうほど水泳は得意でしたから楽しかったですねえ」

事前に、東邦剣友会発行の『東邦商業思い出文集』、『赤萩道場の歩み』には目を通していましたが、清家さんが語る剣道部時代の話から、「赤萩道場」と呼ばれた気迫あふれる道場の雰囲気が漂っていました。まさに、東邦剣道部の黄金時代を支えた世代という印象でした。

『風と共に去りぬ』の衝撃

5年生の時の清家さん(後列左)

清家さんは法政大学専門部高等商業部に進学し、大学でも剣道部で活躍しました。現在でも創部100年の伝統を誇る剣道部OB組織「法政大学剣友会」の顧問を務めています。

太平洋戦争が熾烈化する中で、清家さんは1943(昭和18)年10月に法政大学を繰り上げ卒業し、富士写真フィルムに入社しました。専門部から学部への進学が希望でしたが、紙業を営む父親から、「印画紙を作る工場で、紙の漉(す)き方を覚えて来い」と厳命されたそうです。

ただ、勤務地は富士の工場ではなく、銀座4丁目に事務所で、軍需部の海軍担当の仕事でした。海軍技術研究所も担当し、次第に弾薬が無くなっていくなかで、写真を取り入れた実弾演習の開発にも関わりました。

清家さんが衝撃を受けたのは、日本軍が占領したシンガポールで接収したアメリカ映画『風と共に去りぬ』のフィルムの映写会でした。1939(昭和14)年に製作された『風と共に去りぬ』はカラー作品で、1940(昭和15)年のアカデミー賞9部門を受賞した大作です。

「見た時にはびっくりしました。今の時代に見ても見劣りしない素晴らしいカラーでした。日本でもカラーはあったことはあったが、ただ少し青いか赤いかという程度ですから」。カラー技術の素晴らしさにとどまらず、映画で描かれているのは、南北戦争当時とはいえ、日本に比べて、あまりにも豊かなアメリか社会でした。軍関係者と一緒に見た秘密の映写会でしたが、清家さんは一瞬、「もう日本は負けるな」と思ったそうです。

『風と共に去りぬ』が日本で初めて公開されたのは戦後の1952(昭和27)年になってからです。名古屋でも翌年には上映されたようで、1953(昭和28)年10月30日「東邦新聞」13号に、『風と共に去りぬ』の広告が掲載されていました。(第40回「GHQ体制と生徒会」で映画館広告を紹介)

特攻隊に志願

左から榊理事長、久野元校長、清家さん、牧さん

1943(昭和18)年、足りない飛行兵を補うため全国の中等学校には甲種飛行予科練習生(予科練)への志願依頼の圧力が強まり、大学でも続々と学徒たちが出陣していきました。富士写真フィルム社員だった清家さんも1944(昭和19)年10月、新制度の特別甲種幹部候補生第1期生の募集に志願して、前橋陸軍予備士官学校に入校しました。

1945(昭和20)年4月の夜、清家さんに、筆記用具と印鑑を持っての集合がかかりました。特攻隊志願要請でした。しばらく考えて署名し、判を押した途端、浮かんできたのは母親の顔でした。「死ぬということは平気だと思いました。戦争に負けたら妹や家族たちが屈辱的なことになる。どうしてもこの戦争には勝たなければならない。それで決心はつきました。そういう教育が身についていたのでしょうね」と清家さんは振り返ります。

同年6月、清家さんは、千葉県柏市の歩兵中隊の小隊長に任命され、本土決戦遊撃部隊で初年兵教育にあたりました。それから2か月後、特攻隊でありながら、飛ぶ飛行機もないまま終戦となりました。皇居前で割腹した中隊仲間もいました。

「終戦の玉音放送を聞いた時はショックでした。兵隊が言うことを聞かなくなる隊もありました。私は鉄拳制裁など一切しなかったこともあり、みんな言うことを聞いてくれ、最後まで整然とした状態で復員させました。敗戦のショックも、時間の経緯とともに、生きられてよかったと思うようになりました。同学年の多くの仲間たちのように、沖縄、硫黄島、グアム島などに行っていれば生きていなかったでしょう。結果的には士官学校に入ったおかげで生き残っています」

平和への願い込めて

「法政大学と出陣学徒」事業報告書

戦後、清家さんは父親と「平和紙業」を創業しました。平和への願いを込めての社名であり、再出発でした。清家さんは、途中大阪本社勤務もありましたが、1968(昭和43)年まで名古屋支店に勤務しました。知多市長浦の自宅からの通勤電車では、やはり長浦に自宅があり、東邦商業時代の校長だった下出義雄と一緒に乗り合わせることもありました。

名古屋から東京勤務になった清家さんはその後、代表取締役社長、会長を歴任し現在も相談役として、日本橋に近い東京本社に足を運ぶ日もあります。経団連評議員、日本経営者協会代表幹事、東京商工会議所常任委員などの役職も歴任。母校への恩返しとして、法政大学剣友会顧問、東邦会代議員も引き受けています。そして、前橋陸軍予備士官学校相馬原会会長として、亡くなった士官学校生たちの慰霊をずっと続けています。

法政大学では3000人以上の学生を戦地に送り出しました。戦後70年を前に、学園史の空白を埋めるため、「法政大学と出陣学徒」プロジェクト事業をスタートさせ、第2次世界大戦下に徴兵された学生らの詳細な調査を実施しました。当事者たちにまとまった調査をする最後の機会ととらえたからでした。

清家さんも2012(平成24)年9月に、プロジェクトチーム教員によるインタビューを受けました。『風と共に去りぬ』映写会の話は、インタビュー内容を記録した『学徒出陣証言集』に収められていました。

東邦商業、法政大学と剣道に打ち込んだ清家さんは、東邦学園「75年史」(1998年)にもその思い出を書き残していました。

<8歳年上の長兄から、〝校内で一番強い運動部に入れ〟とアドバイスを受け、躊躇なく剣道部に入部した。今思えば人間形成の転機であったと感謝している。良き師、良き先輩、そして天下無敵の同期生に恵まれ、切磋琢磨、血の滲む練習に耐え抜いた日々。練習開始前、全員で唱和した武道の精神〝剣は人を斬るものなり。されど蛮法に非ず。隣人の愛を知らずして神州の剣を語ることなかれ〟。この精神はいまだ連綿として私の体内に宿っている――>と。

(法人広報企画課・中村康生)

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