第44回 18年ぶりの甲子園 1959

2018年11月16日

長かった復活への道のり

18年ぶり甲子園出場決定発表を喜ぶ野球部。右端は高木部長

 東邦高校が戦後初の甲子園出場を果たしたのは1959(昭和34)年春の第31回センバツ大会でした。戦前の東邦商業学校の甲子園出場は、センバツ3回優勝も含めた春8回、夏2回の計10回を数えましたが、1941(昭和16)年の第18回センバツ優勝以来、戦後の初出場までに18年の歳月を要しました。
 第31回大会を前に発行された4ページ建ての「東邦新聞」31号(1959年2月25日)の1面に野球部長の高木良雄が、「18年振りの夢、甲子園」という喜びの手記を寄せていました。
 高木は東邦商業の9回生(1936年卒)。創部まもない野球部に入部し、甲子園初出場で初優勝に輝いたセンバツ第11回大会(1934年)、第12回大会(1935年)には選手として出場し、さらに2回目優勝の第16回センバツ大会(1939年)には青年監督として全国制覇の指揮を執りました。
 <一口に18年というが、余りにも長かった。この辺で一度出なければ、もうどうにもならぬところまできていた。一つの目標を立て、夢を懐(いだ)いて努力精進し、十余年(戦時中の空白時を除いても)も時を空費したということ、それはもう野球の問題ではないのである。野球という一つのスポーツを通じて、それに携わっている者の人間(といってもそれは我々のことだが)が問われているのである>
 高木の手記には、待ち焦がれた歓喜の時を迎えるまで18年を要した葛藤が滲んでいました。

グラウンドは八事から平和が丘へ

野球部時代の思い出を語る久野さん

 東邦高校では戦前の野球部黄金時代でもあった1939(昭和14)年から、専属グラウンドとして、現在はイオン八事店に近い住宅地となっている一角に、八事グラウンド(東邦八事球場)を保有していました。しかし、周囲の住宅開発が進み、危険になってきたこと、赤萩校舎が手狭になってきたこともあり、グラウンドの総合化が検討されました。
 こうした中、1958(昭和33)5月、現在の東邦高校、愛知東邦大学がある名東区平和が丘(当時は千種区猪高町)に3万6300㎡の用地を購入し、同年11月、硬式、軟式野球場、多目的運動場を備えた東山総合運動場を完成させました。
 18年ぶりに甲子園の舞台に挑むための練習は、誕生したばかりの東山総合運動場で行われました。赤萩校舎から東山総合運動場への移動のために、名古屋市バスの払い下げを受けた専用バスが導入されました。グリーンとクリーム色のツートンカラーに塗り替えられた専用スクールバスで、市内のスクールバスはまだ極めてめずらしかった時代でした。
 野球部長の高木の手記が掲載された同じ「東邦新聞」の3面に掲載された、「輝く甲子園出場」という記事では、硬式野球部の練習ぶりを新聞部員がルポしています。
 <硬式野球部は紫紺の優勝旗獲得を目指して毎日猛練習を続けている。東山総合グラウンドでは、薄暗くなるまで、若い力のこもった声が満ちている。「18年ぶりの甲子園出場だ。大いに暴れて来い」というのは真の声であろう。新聞部は1月31日土曜日の放課後、グリーンのスクールバスに野球部の連中と乗り込み、一路東山グラウンドに向かった。星ヶ丘の静寂はバスから降りた選手たちの歓呼によって破られた――>

赤萩からスクールバスで移動

短大が開校した1965年の平和が丘。左側が野球部グラウンド

 東山グラウンド誕生当時は1年生部員だった久野耕平さん(75)(東海市)が思い出を語ってくれました。久野さんが1958(昭和33)年4月に東邦高校に入学した当時の野球部員は約50人。まだボールや用具が貴重品だった時代でした。皮が破れたボールを裏返し、授業の合間に縫い合わせていましたし、ヘルメットもなく、帽子の下に厚い革バンドを巻いて打席に入りました。
 八事グラウンドで行われていた練習は11月からは東山グラウンドに変わりました。赤萩からバスで30分くらいかかりましたが、自慢のスクールバスとはいえ、古くて狭くて全員乗れませんでした。久野さんら1年生たちは、東山まで市電に乗り込み、そこからグラウンドまで歩きました。
 1965(昭和40)年に、東邦学園短期大学が開学した当時、短大校舎と東山グラウンドが写っている写真を見つけました。周辺には、切り開いた山肌がのぞく丘陵地が続いています。久野さんによると、短大キャンパスが開設された付近は、軟式野球部員たちの練習が行われた一帯でした。
 写真左のグラウンドでは豆粒ほどですが、バックネットをはさんで1塁側ベンチ、3塁側ベンチが見えます。3塁側ベンチの右に見えるのは2階建てクラブハウスで、2階には管理人家族が住んでいました。伊勢湾台風が大きな被害をもたらした1959年9月、2年生だった久野さんは東海市(当時は知多郡上野町)の自宅から通えなくなり、同様な三重県出身の生徒5、6人とともにクラブハウス1階に寝泊まりしました。
 久野さんは、自宅が復旧する年末まで、朝の通学はレフト側から淑徳学園前を通って30分近く歩いて星ヶ丘まで出ました。そこから市電を車道まで乗り継いでの通学を続けました。今のような整備された道ではなく、雨が降ればぬかるみの道路で、グラウンド周辺には鶏小屋が立ち並んでいたそうです。

名古屋から自転車で甲子園に向かった生徒たちも

応援する右から伴野、古橋、川船さん(毎日新聞マイクロフィルム)

 18年ぶりに甲子園の土を踏んだ東邦高校は、4月2日の1回戦で倉敷工業高校と対戦し10-3で快勝しました。学校は春休み中でしたが、母校を応援しようと、名古屋から自転車で甲子園に向かった生徒3人がいました。1年生の時に久野さんと同じ商業科J組だったクラスメイトたちで、古橋徳一さん、伴野好正さん、川船敏郎さんです。
 名古屋市昭和区に住む古橋さんが、60年近くも前の思い出を語ってくれました。3人は、東邦―倉敷工の試合を、金山の同級生宅に集まった仲間5、6人でテレビ観戦していました。まだ、各家庭にテレビ受像機が普及していなかった時代ですが、全国放送アナウンサーの、「甲子園に帰ってきた伝統校」「野球名門校の復活」という心地よい響きの中継に煽られるように、3人は自転車で甲子園に応援に向かいました。
 4月3日朝に名古屋を出発した3人は、4日午後、甲子園球場の応援スタンドにたどりつきました。しかし、この日第3試合として予定されていた2回戦第の東邦―長崎南山の試合は雨のため5日に順延となりました。応援スタンドの3人を新聞記者が取材していました。4月5日毎日新聞(中部本社版)にその記事が載っていました。
 <3人は3日朝名古屋を出発、4日午後球場に現れた。四日市から鈴鹿峠を越え、草津、大津を回って夜半に京都山科につき、そこで野宿。4日はまだ夜の明けないうちに山科を出て大阪梅田まで自転車行脚を続けてきたもの。雨が降ってもいいようにと、雨具の用意も忘れなかったといい、「どうせ4日夜もどこかで野宿するつもりだったからこの試合を見届けてから帰ります」と、試合延期にもめげず元気に球場を出ていった>
 順延となった5日の長崎南山戦は、前夜来の雨が雷を伴ってグラウンドをたたきつける最悪のコンディションの中で行われました。東邦高校は惜しくも0-1で敗れました。
 「グラウンンドコンディションさえ良かったら、得意の足を使った野球が出来たと思う。やはり悔しかったです」。エースとしてマウンドに立った山本雅巳さんは後の毎日新聞の取材で悔しさを語っていました。

「真面目野球」貫いた下出義雄の逝去

下出義雄の逝去を伝える「東邦新聞」

 東邦高校が18年ぶりの甲子園出場を決めたのは1958(昭和33)年11月8、9日に行われた中部地区高校野球大会での準優勝でした。東海4県から8校が参加したこの大会で、東邦は決勝戦で岐阜商業に0-1で敗れたものの翌春の甲子園切符を手に入れることになりました。
 この年1月20日、学園の父として慕われてきた元校長、理事長の下出義雄が67歳という若さで逝去しました。学園創設者である下出民義の長男として、民義の事業を継ぎ、大同製鋼社長、名古屋証券取引所理事長など名古屋財界で活躍する一方で、東邦商業学校の教育、そして野球部の育成に情熱を注ぎ続けてきました。
 18年ぶりの甲子園出陣を前に、義雄の長男で校長の下出貞雄は、創刊された生徒会誌『東邦』1号(1959年2月)に掲載された祝辞で、父子で語り合った東邦高校の野球部について書き残しています。(要旨)
 <去年死んだ僕の父は学生時代、野球の選手でもあり、野球を何よりも愛した。戦前の東邦の野球が強く盛んだったのもそのためであった。その子である僕もまた野球を愛することにおいては劣らないつもりである。
 この野球好きの2人が戦後間もなく、東邦の野球について語り合ったことがある。それは、野球は今後きっと盛んになるだろう。しかし、これからの東邦は、野球といわず、スポーツばかりに力を入れては駄目だ。考える人間の養成、物事を真にじっくり考える人間を教育することを第一とし、野球を始め、スポーツはこれに平行して随行して行えばよいのではないだろうか。
 戦前、文部省に野球統制令を出させたような学生野球は真の学生野球ではない。戦後は、派手な見せる野球、勝敗に狂奔するスポーツはプロに任せよう。本当に野球を愛するものだけの学生野球。東邦の野球は、アマチュアスポーツに許された限界を守って人間教育の場としてやろう。そうした上で強くなろう。強力な立派なチームに育てよう。そう話し合い、この線に沿って今日まで来たのである。ついに我々も栄光の道に歩みよった。18年は長かったが、本筋を歩いて、絶えず〝真面目〟に前進を続けて得た今度の成果こそ誠に貴重なものではないだろうか>

(法人広報企画課・中村康生)

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